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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのみちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに  乱れそめにし われならなくに ー14−

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ー14−

みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに  乱れそめにし われならなくに 
 河原左大臣 ( かわらのさだいじん )

<題しらず 『古今集』・巻十四・恋四>
・・・・・・・・・・・・・・・・・
陸奥の国のしのぶもじずり染めの乱れ模様よ

あなた以外のたれのせいで乱れてきたわたしの恋

というわけではないけれども

やっぱりあなたのせいですよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・

みちのくの しのぶもじずり;

「みちのく」は陸奥の国、(三陸の分割は明治以降)
「しのぶもぢずり」は福島県信夫郡から産した乱れ模様にすり染めした布。
 本来は忍ぶ草のすり染めの布と言われる。
 その比喩的な言葉の縁で、この二句は「乱れ」の序詞。同時に「みちのく」
風土のはるけき遠さ、暗さのイメージと、「しのぶもみずり」の隠微な、解きほぐしがたい恋心の乱れを象徴するかの表現。
「もじ」はよじり、ねじる意。


たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに;

「誰」は不定称人代名詞。(古語は清音でタレ)
「に」は原因を示す格助詞。「たれゆゑに」ではないと間接的に表現しながら、「ならなくに」と恨み言へ言いもつれる。
「乱れそめ」は動詞「乱れそむ」の連用形。
「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。
「し」は過去の助動詞「き」の連体形。乱れそめて久しい意。
「われ」は自称人代名詞。
「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形。
「なくに」は、上代打消の助動詞未然形「な」に、体言的意を添える接尾語「く」、「に」は感動の終助詞で、「なくに」を一括して打消・感動の終助詞。・・・ナイコトダノニナァ
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陸奥の信夫の里の名産品。信夫捩じ摺り、もじずりの衣の模様はおどろに乱れていますが、私のこころもそれに似てあやしく乱れそめました。たれゆえとおぼしめす。あなたゆえではありませんか、あなたのために心を乱したこの私ではありませんか。
「しのぶもじずり」はまだ定説はない。信夫の里は現在の福島県福島市である。しのぶ草(のきしのぶ)の葉を布に摺りつけて染めたものを、しのぶもじずりともいい、また、模様を彫った石におしあてた布を山藍でもって染めたともいう。その石を信夫捩じ摺りの石といっている。

松尾芭蕉が『奥の細道』でたずねているがこれである。「はるか山かげの小里に、石なかば埋もれてあり」として「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」の句を得ている。歌によまれた古雅な風習は、芭蕉の時代にすら廃絶していたのであろうか。
もじずりの「もじ」は文字ではなく、よじり、ねじる、という意味の「もじ」であろう。信夫には信夫布として、布も産出した。その布にすりつけそめた柄は乱れ模様であった。そこから、「しのぶもじずり」は、「乱れる」という言葉を引き出す序になる。この「乱れ」には、恋する女の黒髪の乱れが示唆されているという解釈もある。

この歌は古来から人々に愛されたらしく、『伊勢物語』冒頭「むかし男」ではじまる、業平とおぼしき主人公の、初冠のくだりにも出てくる。業平は、歌の作者、河原左大臣と大体同じような時代の人であるがその初恋の物語に、この歌を援用している。
元服して間もない、ういういしい少年が、奈良の里で美しい姉妹の姫たちを見かけて「心地まどひにけり」・・・あやしく心乱す。少年は着ていた狩衣の裾を切って、それに歌を書いて贈った。それは「しのぶずり」の紫の狩衣であった。

「春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎり知られず」

春日野の若い紫草のように美しいあなたたち、わたしの気持ちはこの紫のしのぶずりの衣のように、千々に乱れてしまいましたよ。若々しい、匂やかな歌になっている。

河原左大臣は源融(822〜895)の通称である。嵯峨天皇の皇子であったが臣籍に下って源姓となる。なかなか頭もよくやりてだったとみえて、臣籍に下った皇族の中では群を抜いて頭角をあらわした。国守を歴任し、三十五歳で参議になり中央政界へのり出している。順調に累進し、左大臣になった。家柄や毛並みに寄りかかっているだけの人ではなかったらしい。

それだけに権勢欲も猛烈だった。元慶八年(884)陽成天皇が廃位され、時代の帝に誰を立てようかという会議が宮中で開かれた。時の最高権力者は、藤原基経である。公卿一同は、基経の意中を忖度して口をつぐんでいる。その中で融はあえて発言する。

『大鏡』によれば、「いかがは。皇胤をたずねば、融らも侍るは」・・・議論するには及ばぬわ。近い天皇の血筋を求めるなら、この融などもおるものを。六十二歳の融は、皇位を望んで野心に燃えていたのである。その年でと笑うに当たらない。権勢欲は年をとるごとに激しくなるようで、現代の老齢政治家もみな重い大臣病にかかっているではないか。

基経はきっぱりと反対する。「皇胤なれど、姓たまはりて、ただひとにて仕へて、位につきたる例やある」天皇のお血筋といっても源姓をたまはって臣下になって仕えた方が、皇位についた前例はありません。この時推されたのは、人望ある時康親王、光孝天皇であった。

この融は、権勢と同時に莫大な富もたくわえていたらしく、それに美的センスもあって、豪奢な逸楽の生活を送った。東六条に河原院という豪邸を造り、その庭には歌枕で名高い陸奥塩釜の浦の風光をそままうつした塩釜をたて、塩を焼くさまをさせて楽しんだ。一日三百石の海水を尼崎から運ばせたとあるから大変な労役であったことであろう。

前代未聞のぜいたくとして、一世に評判となった。そのため彼のことを河原左大臣と呼ぶようになったのである。宇治にも別荘を持ち(これはのちほど平等院となった)嵯峨には釈迦堂を造り山荘とした。

融にこの恋歌を贈られた女は、どんな女だったのであろうか、この歌は「古今集」巻十四の恋の部に題知らずとして出ていて、歌の背景や諸事情は不明である。もしかして「それはう〜〜んと若い、世の中のことも、男女の恋の諸訳も知らぬ少女かもしれない」と。

この歌には、思いが相手にとどかぬ怨みが、そこはかとなく、ただようている。こんな、一流貴族、家柄良くて財産あって、権勢を誇る・・・というような男を、平気でキリキリ舞いさせるのは、まだ欲のない美少女ではないか。美少女にしてみれば融は「へんなオッチャン」と思うだけであろう。

それだけに融はよけいにのめりこむ・・・してみると・・・これはロリコンの歌か・・・・・。

解説が少し脱線したようなのでこの辺で・・・おしまいとする。
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【なぜこの人】作者の源融は嵯峨天皇の皇子であるが、臣籍に下り源姓を賜わった。京六条の邸宅河原院に因み河原左大臣と称される。勅撰集入集はわずか四首、家集も伝わらず、古来必ずしも歌人として重んじられた人ではない。むしろ豪奢な暮らしを送った風流人として持てはやされ、庭園に海水を運び入れて陸奥の歌枕塩釜を模したという話はよく知られる。その河原院は融の死後荒廃したが、安法・恵慶ら歌人の集いの場となり、和歌の歴史に逸することのできない名所となる(47恵慶法師参照)。因みにこの邸は『源氏物語』の六条院のモデルとも言われている(『河海抄』)。すなわち融自身が光源氏のモデルの一人とも見なされるので、『源氏物語』を和歌の聖典として仰いだ定家の時代、歌人たちにとって河原左大臣の存在感はいっそう重みを増していたであろう。そのせいか、新古今歌人たちは競うように彼の歌を本歌取りしたのであった。

【なぜこの一首】この歌は古く『伊勢物語』にも引用されているほどで、作られた当初から評判を呼んだらしい。「みちのくのしのぶもぢずり」という、実体はよく分からぬながら、何となくエキゾチックで野趣の感じられる摺り染めの名を借りて、乱れる恋心を印象深く歌い上げている。陸奥の歌枕に憧れた風流人、河原左大臣には如何にも似つかわしい作であろう。「もぢずり」よろしく捩じれたような曲折ある調べも魅力的である。定家は『定家八代抄』に採ったくらいで、特別この歌を高く評価した形跡はないが、彼自身「みちのくのしのぶもぢずり乱れつつ色にを恋ひん思ひそめてき」など、盛んに本歌取りを試みているので、この歌の風趣を愛好したことは間違いない。

【作者】
河原左大臣、源融(822〜895)嵯峨天皇の皇子。臣籍降下により源姓を賜り、名は融。左大臣となる。
河原院を造営し、豪奢な生活を送る。宇治平等院はその別荘、嵯峨釈迦堂は山荘である。
勅撰集入集歌は三首。


出典・転載元;
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]・小倉百人一首 注釈(千人万首)>より。

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