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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのをぐら山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆきまたなむ

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ー26ー

 をぐら山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆきまたなむ  貞信公  

<拾遺集巻十七(雑秋)「亭子院、大井河に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふに、事のよし奏せんと申して  小一条太政大臣」>
・・・・・・・・・・・・・
小倉山の峰の紅葉よ
もしおまえに物の趣がわかる心があるなら
もう一度の行幸があるまで
散るのは待っていてほしいよ
・・・・・・・・・・・・・
をぐら山 峰のもみぢ葉;

「小倉山」は京都市右京区嵯峨にあり、紅葉の名所。
「峰のもみぢ葉」は「峰のもみぢ葉よ」と、呼びかけの句で、成分上は独立語。

こころあらば; 

「心」は物の趣・道理を理解する心。
「あら」はラ行変格活用「あり」の未然形で、順接の接続助詞「ば」を接して仮定条件。
「心あらば」「待たなむ」は紅葉を擬人化していう表現。

今ひとたびの みゆきまたなむ;

「いま」は副詞で、もう・さらにの意で、数量を表す名詞「ひとたび」を修飾する。
「みゆき」は同じ人の御幸ではなく、亭子院(宇多法皇)御幸(ごこう)に次いで醍醐天皇の行幸(ぎょうこう)をいう。(上皇・法皇には御幸、天皇には行幸と使い分ける。
「待た」は四段活用動詞「待つ」の未然形で、それに接する「なむ」は、他に対する」願望、あつらえの終助詞(・・・テホシイ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下<転載記事>千人万首・小倉百人一首 注釈』より。

◇こころあらば 情理を解する心があるのならば。
◇みゆき 上皇・天皇のお出まし。古今集の詞書によって醍醐天皇の行幸を指すことが判るが、百人一首の歌としては、古今集の詞書による限定を受ける必要はない。
◇またなむ 待って欲しいなあ。終助詞「なむ」は「遠慮して不可能かと思いながら希求する意を表わす」(岩波古語辞典)。

【ゆかりの地】小倉山 京都嵐山、大堰川北岸の山。小椋山・小闇山などとも書く。
古く万葉集に詠まれた
「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず いねにけらしも」
の「小倉の山」を平安時代の歌人たちは京西郊の小倉山と同一視したものか、
例えば紀貫之は「大井にてよめる」と詞書した歌に
「夕づく夜 をぐらの山に なく鹿の 声の内にや 秋は暮るらむ」
と詠んでいる。いきおい紅葉も詠み込まれるようになり、鹿と紅葉、ひいては明月の名所ともなってゆくのである。
またここは小倉百人一首にとって最もゆかりの深い土地である。
因みに定家の息子為家も晩年この山に隠棲した。
・・・・・・・・・・・
作者は太政大臣基経の四男。母は人康親王の娘。小一条太政大臣と号し、「貞信公」は死後に贈られた称号――諡(おくりな)である。
子の実頼・師輔も著名な大臣歌人。子孫は繁栄し、百人一首歌人のうち忠平の血を引く者は実に十九人に及ぶ。
 延喜九年(909)に長兄時平が薨ずると、次兄仲平が存命であったにもかかわらず、氏の長者として嫡家を継いだ。以後急速に累進し、中納言・右大臣を経て延長二年(924)、左大臣に昇り、同八年には摂政を兼ねる。この間、兄時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成撰進させた。承平六年(936)、摂政太政大臣従一位。天慶四年(941)、関白太政大臣。天暦三年(949)八月十四日、七十歳で薨じた。詔により正一位を追贈され、信濃国を封ぜられる。摂関体制の確立期にあって大きな役割を果たし、藤原氏全盛の基を築いたと評価される。
 百人秀歌では34番目にあり、33番の清原深養父と合せられる。月を賞美して夏の夜を徹する深養父の歌と、紅葉を賞美して秋が移ろい行くことを惜しむ忠平の歌。冒頭の天智天皇(秋の夜を徹する)・持統天皇(春から夏への季節の移ろい)の組と、あたかも合わせ鏡になっているかのようである。

【他の代表歌】
君がため 祝ふ心の ふかければ ひじりの御代の あとならへとぞ  (後撰集)

【主な派生歌】
み山路は もみぢもふかき 心あれや 嵐のよそに みゆきまちける
 (藤原定家)
声たてぬ あらしもふかき 心あれや みやまのもみぢ みゆきまちけり
 (〃)
をぐら山 峰の木の葉や 色にいでて ふりにしみゆき 今もまつらむ
 (藤原忠定)
小倉山 今一度も しぐれなば みゆきまつまの 色やまさらん
 (藤原光俊「続古今」)
をぐら山 峰のもみぢは なく鹿の 涙にそめて 色にいづらし
 (藤原為家)
いにしへの あとをたづねて 小倉山 みねのもみぢや 行きてをらまし
 (後嵯峨院「続後撰」)
いたづらに 今は染めけり をぐら山 いつの秋まで 行幸待ちけむ
 (姉小路基綱)
をぐら山 もみぢにとめし 小車も 跡こそたゆれ みゆき降りつつ
 (契沖)
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<転載記事>『遊びをせんとや 』
http://blogs.yahoo.co.jp/dokudami_no1/24213877.html

百人一首  26番

 小倉山 峯のもみぢば こヽろあらば

        今ひとたびの みゆき待たなむ


通釈
小倉山の峰も紅葉よ、もしも心というものがあるのならば、
もう一度行幸があるまで、散らないで待っていてほしいものです。


貞信公   (藤原 忠平) (880年 - 949))
平安時代の公卿。藤原北家の嫡流で太政大臣藤原基経の四男。

延喜9年(909年)長兄の藤原時平の死後、次兄の仲平を差し置いて、藤氏長者として嫡家を継ぐ。
以後醍醐天皇のもと出世を重ねる。
農政等実施した政策は、時平の行った国政改革と合わせ「延喜の治」と呼ばれる。
甥にあたる朱雀天皇の即位に伴い摂政、村上天皇の代でも関白を歴任し、藤原家の権勢を高めた。小一条太政大臣と号す。
また延長5年(927年)には、時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させた。 日記『貞信公記』が残る。

貞信公 ちなみに、妻・源順子は宇多天皇の皇女(養女とする説もある)であり、
宇多天皇側近であった菅原道真とも親交があったために、宇多天皇や道真と対立していた長兄・時平からは疎んじられていたという説がある。
逆に兄・時平の死後、醍醐天皇が病気がちとなり、天皇の父である宇多法皇が再び国政に関与するようになると、忠平は法皇の相談役として急速な出世を遂げたと言う。また、道真の名誉回復が早い時期に実現したのも「道真怨霊説」だけでなく、亡き時平と忠平との確執が背景にあったと言われている。


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