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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを

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憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを   源俊頼朝臣 


<権中納言俊忠の家に 恋の十首の歌よみ侍りける時 いのれども不逢恋といへる心を 千載集・恋二>

・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしにつれなかった人を

私の方になびかしてくれよと

初瀬観音様に祈ったのだが

一層激しく吹き降ろす山颪になって

私につらくあたるばかりではないか

・・・・・・・・・・・・・・・・
憂かりける 人を; 

自分に冷たく、なびかなかった人を。
(つれなかった人をどうか私になびかせてくださいと)
「憂かり」は形容詞「憂し」カリ活用連用形。
きもちが
「憂し」は気持ちがふさいでいやになること。
「ける」は過去の助動詞「けり」の連体形。
「人」は相手の女性。
「を」は動作(祈る)の対象を示す格助詞。


初瀬の 山おろしよ; 

初瀬観音の祀られる初瀬の山の嵐よ、という呼びかけの表現で、成分上は独立語で挿入句。
祈りを暗示している。
初瀬
初瀬(はせ)は、奈良県桜井市の東部長谷町で、(国道165号線沿い)に位置し、平安朝から観音信仰で有名な初瀬寺(長谷寺)がある。古くは「はつせ」と呼ばれ、雄略天皇が初瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)を置き、用明天皇の時代に飛鳥へ遷都するまで都でした。
「山おろし」は山から吹き降ろすはげしい風。
「よ」は呼びかけの間投序詞。


はげしかれとは 祈らぬものを; 

「はげしかれ」は形容詞「はげし」のカリ活用命令形。冷たさが激しくなれ、の意。
「と」は引用を示す格助詞」。
「は」は強調を示す係助詞。
「祈ら」は四段活用動詞「祈る」の未然形。
「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形。
「ものを」は逆接意の詠嘆終助詞。・・・なのになあ。
「はげしかれとは」は 恋人の態度が険しくなれとは。
「山おろし」の縁で、恋人のつれなさを「はげし」と言っている。
(ますます薄情になれとはいのらなかったのに。)
「山おろしよはげしかれとは」は比喩。
「初瀬のやまおろしよ」は「はげしかれ」の序詞。
「やまおろし」・「はげし」は縁語。

第三句は字余り。

* 初瀬 
奈良県桜井市初瀬。長谷寺がある。
名高い十一面観音は、恋の成就にも効験があるとされた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

権中納言俊忠は藤原俊成の父。
その二条の家で催された歌会での作。

恋の成就を祈った長谷観音のある山から吹き下ろす嵐に向かって訴えるという特異な趣向。

定家は『近代秀歌』で掲出歌と「とへかしな玉串の…」の歌につき「これは心ふかく、詞心に任せて、学ぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿也」と絶賛している。



【主な派生詩歌】

年もへぬ 祈る契りは 初瀬山 をのへの鐘の よその夕暮  
 (定家[新古今])

けふこそは 秋のはつせの 山颪に すずしくひびく 鐘の音かな  
 (定家)

冬もきぬ さこそはげしく しぐるらめ 哀はつせの 山おろしの風  
 (宗尊親王)

けふといへば 入相の鐘に 木の葉ふり 秋ぞはつせの 山おろしの風 
 (宗良親王)

初瀬路や 末吹きよわる 山颪 はげしかりしぞ 今は恋しき  
 (正徹)

うかりける 我がみの程に はつせぢの くるしかれとて 祈りやはせし
 (堯孝)

よしやふけ 月に初瀬の 山おろし はげしからずは 嶺のうき雲  
 (正広)

うかりけり 祈るかひなく 散る花の 春もはつせの 山颪のかぜ 
 (松永貞徳)

うかりける 秋よりもけに 淋しきは 冬のはつせの 山おろしの風  
 (松平定信)

うかれける 人や初瀬の 山桜  (芭蕉)


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源俊頼 みなもとのとしより(-しゅんらい)
天喜三頃〜大治四(1055-1129)

宇多源氏。
大納言経信の三男。
母は土佐守源貞亮の娘。
一時期橘俊綱の養子となる。
子に俊重(千載集に入集)・俊恵・祐盛がいる。

篳篥の才があり、はじめ堀河天皇近習の楽人となる。
のち和歌の才も顕わし、堀河院歌壇の中心歌人として活躍。また藤原忠通・顕季を中心としたサロンでも指導的な立場にあった。

右近衛少将・左京権大夫などを経て、
長治二年(1105)従四位上木工頭に至る。
天永二年(1111)以後は散位。官人としては、大納言に至った父にくらべ、著しく不遇であった。晩年、出家。
大治四年正月一日、卒。享年七十五と推定されている。

父から管絃と和歌をまなび、20代の初めから堀河天皇の宮廷で篳篥奏者として活動した。
1095年(嘉保2)、大宰権帥(だざいのごんのそち)に任じられた経信にしたがって九州にくだり、97年(永長2)の経信の死後、帰京。以後、歌人として本格的に活躍しはじめ、数々の歌合に作者、判者として参加。また「堀河百首」(1105〜06奏覧)の企画・推進などで歌壇の指導者的な役割をはたした。

「万葉集」を重視し、当時の和歌の行き詰まりを打開しようと、新奇な歌語、題材を開拓し、田園趣味をもとりいれて、革新をはかった。俊頼の歌論は「俊頼髄脳(としよりずいのう)」(1112頃)にしめされている。(千人万首)

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