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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる

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ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる     後徳大寺左大臣

<暁聞郭公といへる心をよみ侍りける 千載集・夏>


夏のみじか夜が明ける頃

期待していたほととぎすが鳴いた

はっとその声のした方を眺めると

すでに鳥のすがたは無くて

ただ名残り月がひんやりと

有明の空に残っているばかりだったよ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ほととぎす; 

述語「鳴き つる」の主語。
ホトトギス科の鳥、背面は明るい青色、尾は白黒のまだら、代表的な夏鳥の一つ。
カッコウ科カッコウ目の鳥。
中国大陸から初夏に渡来する夏鳥。
樹林に住み、昼夜・晴雨を問わず鳴く。空を飛びながら鳴くことも多い。
時鳥・郭公・不如帰・霍公鳥などと書く。


鳴きつる方を ながむれば; 

「鳴き」は動詞「鳴く」の連用形。
「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形。
「方」は方角を示す意の名詞。
「ながむれ」は、下二段活用動詞「ながむ」の已然形で、
接続助詞「ば」を接して、次の事がらの前提を表わす。


ただ有明の 月ぞのこれる; 

副詞「ただ」は、・・・だけ、ばかり、の意で、「残れ る」を修飾。
「ありあけの月」明け方にまだ残っている月。陰暦二十日前後は夜更けて月が出る。
「ぞ」は強意の係助詞で、結びは、存続の助動詞「り」の連体形「る」。
「残れ」は「る」を接して四段活用動詞「残る」の已然形、ないしは命令形。

・・・・・・・・・・・・・・・・
☆ この歌は独立したものではなく、ほととぎすが鳴いてから飛び去るまでの情景を連続写真の様に切り取って、4つの連続した歌の中の最後のものとして詠まれている。(林下集)「花橘」は昔の人を思い出すという意味で使われているで、ここで実定はなくなった妻の事を思い出しながらのうつつな情景もうかがえる。

おもひねの ゆめになきつる ほととぎす やがてうつつに こゑぞきこゆる

ほととぎす なれもむかしの こひしきか 花たちばなの えだにしもなく

ながむれば ありあけの月に かげみえて いづちゆくらん やまほととぎす

ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの 月ぞのこれる
・・・・・・・・・・・・・・・・

古来郭公を詠んだ秀歌中の秀歌とされた。

現代の注釈書でも評価は高いが、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかさがよく指摘される。

素直であり、平淡ではあるが、風雅人の憧憬の的であったこの鳥に対する深い心が籠る作である。

後朝の別れに付き物であった有明の月を詠んで、恋歌の艶が添わるのも定家好みの風趣であったろう。

因みに室町時代の宗祇は「巨細にはいはで、然も心をつくしたるところ、限りなくこそ。郭公の歌には第一とも云ふべきにや」と評し、
江戸時代の香川景樹は「実にけしきみえて、郭公にとりては、当時最第一の御歌といふべし」と評するなど、
中世・近世を通じて時鳥を詠んだ秀歌中の秀歌と激賞された。<千人万首>


【参考歌】作者不明「民部卿家歌合」
ほのかなる 声をすてては 郭公 鳴きつるかたを まづぞもとむる

  紀貫之「古今集」
夏の夜の ふすかとすれば ほととぎす 鳴くひと声に 明くるしののめ

  藤原頼通「後拾遺集」
有明の 月だにあれや ほととぎす ただひと声の 行くかたも見む

  源道済「後拾遺集」
朝ぼらけ 雪ふる空を 見わたせば 山の端ごとに 月ぞのこれる


【主な派生歌】

時鳥 過ぎつる方の 雲まより 猶ながめよと いづる月かげ  
 (宜秋門院丹後[玉葉])

ほととぎす 鳴きつる雲を かたみにて やがてながむる 有明の空  
 (式子内親王[玉葉])

袖の香を 花橘に おどろけば 空に在明の 月ぞのこれる  
 (藤原定家)

時鳥 いま一こゑを まちえてや 鳴きつるかたを 思ひさだめん  
 (長舜[新後撰])

ほととぎす 鳴きて過行く 山のはに 今一声と 月ぞのこれる  
 (浄弁[新拾遺])

時鳥 なきつるあとに あきれたる 後徳大寺の 有明の顔 
 (蜀山人)


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徳大寺実定 とくだいじさねさだ
保延五〜建久二(1139-1191)通称:後徳大寺左大臣

右大臣公能の一男。
母は藤原俊忠女、従三位豪子。忻子(後白河天皇中宮)・多子(近衛天皇・二条天皇后)の同母弟。大納言実家・権中納言実守・左近中将公衡の同母兄。子に公継がいる。俊成の甥。定家の従兄。

永治元年(1141)、三歳で従五位下に叙される。左兵衛佐・左近衛少将・同中将などを歴任し、
保元元年(1156)、十八歳で従三位。同三年、正三位に叙され、権中納言となる。
永暦元年(1160)、中納言。同二年、父を亡くす。
応保二年(1162)、従二位。
長寛二年(1164)、権大納言に昇ったが、翌永万元年(1165)、辞職した(平氏に官職を先んじられたことが原因という)。
同年、正二位。以後十二年間沈淪した後、
安元三年(1177)三月、大納言として復帰。同年十二月には左大将に任ぜられた。
寿永三年(1184)、内大臣に昇り、
文治二年(1186)には右大臣、同五年には左大臣に至る。摂政九条兼実の補佐役として活躍したが、
建久元年(1190)七月、左大臣を辞し、同二年(1191)六月、病により出家。法名は如円。同年十二月十六日、薨ず。五十三歳。祖父の実能(さねよし)を徳大寺左大臣と呼んだのに対し、後徳大寺左大臣と称された。


非常な蔵書家で、才学に富み、管弦や今様にもすぐれた。俊恵の歌林苑歌人たちをはじめ、小侍従・上西門院兵衛・西行・俊成・源頼政ら多くの歌人との交流が窺える。
住吉社歌合・広田社歌合・建春門院滋子北面歌合・右大臣兼実百首などに出詠。
『歌仙落書』には「風情けだかく、また面白く艶なる様も具したるにや」と評されている。
『平家物語』『徒然草』『今物語』ほかに、多くの逸話を残す。日記『槐林記』(散佚)、家集『林下集』がある。千載集初出。代々の勅撰集には計79首入集。

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おぐらきよわを

一人行けば

雲よりしばし月はもれぬ

一声いずこ鳴くホトトギス

見返るひまに姿消えぬ

夢かとばかりなおも行けば

またも行くてに闇はおりぬ

<昔 どこかで唄った>

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