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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

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百人一首ー100−
−100−

ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり   順 徳 院 

<題しらず 続後撰集・雑下>

・・・・・・・・・・・・・・・・・
宮中の古びた軒端のしのぶ草は生い茂り

それを見るにつけても 

しのんでもしのびきれない

なつかしきは昔の御代の栄華であることよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・

栄えていた御代をなつかしみ、朝廷の現在の衰微を嘆く述懐。
『順徳院御集』によると、建保四年(1216)ニ十歳の作と知れる。

「ももしきや」と初句に提示して、一首の位置を、そこにしかと言い定める。
「ふるき軒ばのしのぶにも」と、宮中の衰微を即物的にとらえ、和歌的に表現された現実の象徴である。
そこによみがえる心情を、「なほあまりある昔なりけり」と、かつての栄えていた御代への限りない回顧・憧憬の心情となって表現される。

 承久の変に先立つ時期の院として、限りない嘆き・憤りをひめられていたはずだが、この一首は和歌として詠嘆的に表現されるにとどまっている。
      
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ももしきや; 

宮中の意。もと大宮の枕詞であるが、ここは直接に宮中・皇居をいう。
「や」は詠嘆と語調を整える間投助詞。成分上独立語で、一応初句切、
これによって七五調の格律となる。この句は場所の提示。
「百磯城・ももしき」で沢山の石を以って築いた城、という意味である。


ふるき軒ばの しのぶにも; 

荒れた古い軒ばに生えているしのぶ草にかけて、昔をしのぶにつけてもの意。
「軒ば」は軒の端。
「しのぶ」はしのぶ草、羊歯(シダ)類の一種。
草の「しのぶ」と、「偲ぶ」とを掛ける掛詞。
「に」は動作・作用の対象を示す格助詞。
「も」は強意の係助詞。


なほあまりある 昔なりけり;

(偲ぶにつけて)それでもなお、偲んでも偲びきれない昔の聖代であるよ。
「なほ」は副詞、なおやはり。
「あまり」はその事を満たしてあまるもの。
「ある」はラ変動「あり」の連体形。
「なり」は断定の助動詞「なり」の連体形。
「けり」は詠嘆の助動詞終止形。

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【本歌?】源等「後撰集」

浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

【主な派生歌】

秋をへて ふるき軒ばの しのぶ草 忍びに露の いくよ置くらん  
 (禅信)

小泊瀬や ふるき軒端の むかしをも 忍ぶの露に 匂ふむめがか 
 (源高門)

月うすく ふるきのきばの 梅にほひ 昔しのべと なれる夜半かな  
 (源親子)

いにしへを ふるき軒端の しのぶ夜は もらぬ袂も うちしぐれつつ
 (宣長)

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百人一首の配列の最後に後鳥羽院と順徳院とを置くのは、先頭に歌集勅撰の事業を継承した平安諸帝の祖の天智および持統天皇のニ帝を置いたのに対応する。歌道に力を尽くし、実作は言うまでもなく歌論に、後鳥羽院は『御口伝』順徳院は『八雲御抄』を述作されるなど、歌人の尊崇を受けて当然であろう。


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順徳院 じゅんとくいん 建久八年〜仁治三年(1197-1242) 諱:守成  

後鳥羽天皇の第三皇子。
母は贈左大臣高倉範季のむすめ修明門院重子。
姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする。
土御門天皇・道助法親王の弟。雅成親王の同母兄。
子に天台座主尊覚法親王、仲恭天皇、岩倉宮忠成王ほか。

建久八年(1197)九月十日、誕生。
正治元年(1199)十二月、親王となり、
同二年、兄土御門天皇の皇太弟となる。
承元二年(1208)十二月、元服。
同三年、故九条良経のむすめ立子(東一条院)を御息所とした。
同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)。

土御門帝は十六歳で退位させられた。その昔の、鳥羽・崇徳の頃の争いを見るようであったが、土御門院は温厚なお方だけに、内心はともかく、色におだしにならなかったという。ただ若くして退位させられたわが子の悲運を、御母の承明門院は悲しまれたにちがいない。

その異母帝の皇子は兄君より「少しかどめいて、あざやかにぞおはしましける」・・・才気があって活発明朗でいられたという・・・。和漢の学に長じ、父院に似て歌才に恵まれ、また歌学者でもあり、歌論書として有名な『八雲御抄』の著者でもあられた。

父君の後鳥羽院としては、おとなしいばかりの兄皇子より、自分似で、文武に秀でた弟皇子の方がお可愛かったのであろう。ついに土御門帝を譲位させ、弟皇子を即位させられて、これが順徳帝である。
父の院と共に宮廷の儀礼の復興に努め、また内裏での歌会を盛んに催した。

建保六年(1218)十一月、中宮立子との間にもうけた懐成親王(即位して仲恭天皇)を皇太子とする。
承久三年(1221)、皇太子に譲位し、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、あっけなく敗北する。

幕府の力が天皇より強くなったことを天下に知らせることになった。
幕府の戦後処理は果断で容赦なかった。後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ流された。英明の順徳院はこのときまだ二十五歳、御母の修明門院は悲しみのあまり尼となられる。

土御門院はこの乱に無関係で、幕府の咎めもなかったが、父君と弟君が流されたのに、われひとり都で安閑と暮らすわけにはいかないと、みずから志して土佐へ、やがて阿波へと移られたのだった。小さい若宮を都に残されて。・・・やがて幕府は、傍流の皇族から後堀河天皇を立てた。

仁治三年(1242)九月十三日(十二日とも)、崩御。四十六歳。
絶食の果ての自殺と伝わる。佐渡の真野陵に葬られたが、翌寛元元年(1243)、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。
建長元年(1249)、順徳院の諡号を贈られる(それ以前は佐渡院と通称されていた)。

都には、順徳院、土御門院それぞれの母君がどちらもお手もとに孫宮を育てていられたが、折も折り、後堀河帝の皇統が絶えた。次の天皇は幕府の指示を待たねばならなかった。

修明門院(順徳母)承明門院(土御門母)、二人の祖母君は、それぞれ、もしやわが孫が、と心ときめきしていられた。

やがて東国の使者が京へかけのぼり、声高く呼ばわった。

「承明門院とおはします御所はどこだ」

かくして土御門院の忘れ形見の皇子が皇位につかれ、長く今に皇統を伝えられることとなる。


順徳院は幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であった。
その息子為家も近習・歌友として深い仲であった。俊成卿女とも親しく、
建保三年(1215)、俊成卿女出家の際などに歌を贈答している。

配流後の貞永元年(1232)には、佐渡で百首歌(「順徳院御百首」)を詠じ、定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請うた。
嘉禎三年(1237)、定家はこの百首に評語を添えて進上している。

著作に、宮廷故実の古典的名著「禁秘抄」、平安歌学の集大成「八雲御抄」、日記「順徳院御記」(建暦元年-1211-から承久三年-1221-まで残存)がある。
続後撰集初出(十七首)、以下勅撰集に計百五十九首入集。
自撰の「順徳院御集」(紫禁和歌草とも)がある。
新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

定家は、百人一首の冒頭に天智・持統天皇の御父子のお歌を置き、末に、後鳥羽・順徳院と再び御父子のお作を据えて、百人一首をしめくくった。しかも後鳥羽・順徳両院には、ほかに優艶な、あるいは典雅なお作も多いのに、両首とも、やるかたない憂憤を内に秘めた、悶々たる述懐のお歌である。

定家はあえてそのお作を採ることによって、志し成らずに孤島で余生をおくられることになったお二方の悲運を痛哭し、恭順のまことをあらわしたかったのではるまいか。・・・華麗に、のびやかにくりひろげられた百人一首は、やがてしめやかな悲愁のうちに、静かに閉じられるのである・・・

出典・転載;<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]・小倉百人一首 注釈(千人万首) >等より。

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