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肥前・千々石一族コミュの釜蓋城合戦祭り・観櫻火宴

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第11回観櫻火宴 3月31日(土)

場所:桜咲き誇る、雲仙市千々石町・橘公園

★ ―「観櫻火宴(カンオウカエン)」― (会員)
HP http://www.geocities.jp/tachibanajinjyaseinenkai/

★出陣!千々石軍。松明武者行列。
★序章 語り継がれる物語
  【剣 舞 】
  【もののふ登場】
 ★舞台劇
  【別れ 家族編】
  【別れ 大和守と千々石ミゲル編】
 ★合戦劇
  【風雲急を告げる】
  【ふるさとを守る為 大和守編 】
  【釜蓋城炎上 町田兵七郎編 】


配役 【有馬・千々石軍】

★城将・・千々石大和守直員
  半島西口の要、釜蓋城の総大将。千々石ミゲルの父。
★千々石ミゲル
  後の天正遣欧少年使節の正使。釜蓋城の父子の別れ。
★千々石大和守直員の妻(千々石ミゲルの母)
★家老・・木戸万九郎
  釜蓋城家老。龍造寺の本陣へ突撃、空円を討つも自刃。
★家老・・町田兵七郎
  釜蓋城家老。別隊を率い龍造寺の側面から突撃、自刃。
★武将・・千々石兵次郎、千々石兵四郎、千々石小三郎。
  木戸万九郎と共に龍造寺へ突撃。空円に討たれる。
★武将・・千々石左京亮、千々石西彦七郎。
  別働隊町田の配下。鍋島茂信に討たれる。


【佐賀の龍造寺軍】
★大将・・龍造寺政家
  佐賀の龍造寺隆信の嫡男。総大将として采配。
★副将・・鍋島直茂 
  町田兵七郎との一騎打ち、町田に降伏を勧める。
★武将・・鍋島信房
  鍋島茂信の兄。神代領主。鍋島鉄砲隊長を率いる。
★武将・・龍造寺家盛
  龍造寺の釜蓋城城番。
★武将・・空円
  隆信側近、僧兵。千々石軍を崩すが木戸万九郎に討たれる。
★鍋島七本槍。
  千々石軍と交戦。

時は、天正5年(1577)12月。
龍造寺隆信率いる佐賀軍2万余が島原半島・神代に上陸した。
神代貴茂は龍造寺の軍門に降る。
龍造寺と有馬は多比良附近で激突!
三会、寺中城を陥すも深追いはせず、神代へ引き上げる。
しかし、龍造寺隆信はここで兵を二手に分け、その一隊1万余の軍勢を千々石へと向かわせたのであった。
龍造寺軍は瑞穂、吾妻、愛野を侵攻、千々石へ迫る。
千々石の釜蓋城の城将は千々石大和守直員(ナオカズ)。
有馬氏の一族、若干25歳。
木戸、町田の2家老と共に龍造寺の軍を迎え撃つ。

大和守 「有馬殿への援軍の要請は?」
町田 「すでに使者を走らせました。」
大和守 「間に合うだろうか? だが、龍造寺の軍は一万余、釜蓋城兵のみでは過重の負担であることに変わりはない。」
木戸 「大和守、龍造寺軍の来襲に備え、全国のつわものに援軍要請の使者を走らせてはいかがでしょう?」
大和守 「それはよい考えじゃ。
日本の西の果て長崎(千々石)まで援軍に行こうという勇気ある武者達を待っている。龍造寺軍との決戦は来年3月31日(土)、場所は肥前国有馬領千々石の釜蓋城である。
つわものどもよ!お待ちしておりますぞ。(笑)」

コメント(28)

強風と雨天。結局、体育館で開催。

雲仙市千々石町・釜蓋城合戦祭り
第11回観櫻火宴 3月31日(土)


★舞台劇 【別れ 大和守と千々石ミゲル編】
劇団「謎のモダン館」

語り手   時はそこまで迫っていた。出陣を控えた千々石大和守直員は、純員、後のミゲルを妻と共に呼び寄せていた。

千々石大和守直員と妻と純員(ミゲル)の姿がある。

千々石   大村へ向かう手筈が出来ておる。純員と共に大村へ向かってくれ。
妻     かしこまりました。
千々石   純員。
純員    はい父上。
千々石   しばらくはここへ戻る事もあるまいが、この故郷をけっして忘れるでないぞ。
純員    はい、忘れません。
千々石   うん。
純員    あの・・・父上は・・・。
千々石   私には、まだやらなければならない事がある。
純員    はい。
千々石   私はいついかなる時も、お前の事を忘れる事はない。
純員    父上。
千々石   よいか純員。貧しき者のために尽くせ。そしてこの世の平和のために尽くすのだ。
純員    貧しき者のために、そしてこの世の平和のために・・・。
千々石   そうだ。
純員    分かりました。尽くします。
千々石   面倒をかけるがその子を頼むぞ。
妻     面倒だなんてそんな。
千々石   父として、何もしてやれぬ事が気がかりだ。
妻     とても勇ましゅうございますよ。この子の目にもきっと勇ましく映っておられると思
      います。
千々石   うむ。
妻     この世から戦がなくなる事はないのでしょうか。
千々石   いつか来る。いつの日か皆が愛する故郷で、平穏に暮らせる日が訪れるであ
      ろう。そして我々はその日のために戦わなくてはならん。千々石は俺が守る。
      さあその子を連れて行くのだ。
妻     はい。
純員    父上!
千々石   ん。
純員    私は・・・私はきっとこの故郷に戻って参ります。
千々石   純員。
純員    そして、父上と・・・父上と共に、魚釣りをしとうございます!
妻     純員。
千々石   私は今、この世の平和のために尽くせと申したはずだ!
純員    尽くします!尽くしますから!
      純員は穏やかな海で、魚釣りをしとうございます!
      お願いします!父上、お願い致します!
妻     純員!
千々石   ・・・約束しよう・・・。
妻     殿様。
千々石   約束だ・・・純員。
純員    ありがとうございます。・・・父上、どうか・・・どうかご無事で!
千々石   行け!

妻は純員を連れて大村へ経つ。そこへ伝令が飛び込んでくる。

千々石   全て整うたか。
伝令    はっ!里の者たちへは避難するように伝え、もうすでに経っております。
      我が軍も準備を完了し、合図を待つばかりでございます。
千々石   これで何も恐るるものは無い。心置きなく戦えるというものだ。

  千々石大和守が群集を前に口を開く。

千々石   皆の者よく聞け。龍造寺政家の軍勢は、すぐ目の前まで迫っておる。その数、八千とも一万とも聞く。我ら千名足らずで迎え撃つには、真を持って難儀であるに違いない。不覚にも命を落とす事もあるやも知れぬ。しかし、我らが守らずして、誰がこの千々石を守ることが出来ようぞ。 全ては我らが故郷を守るためである。
全国から集まってくださった皆さん、ありがとうございました。

合戦釜蓋城物語 登場人物の配役

 ― 合戦劇 ―

守り手【千々石軍】

★ 語り手〔劇団謎のモダン館〕
★ 千々石大和守直員〔白濱隆次〕 (長崎市)
  釜蓋城の総大将。有馬氏の一族で、千々石ミゲルの父。
★ 千々石純員〔田村清〕(長崎市)
  釜蓋城主の子で、後に洗礼し、千々石ミゲルと名のる。
  天正遣欧少年使節の正使として、ローマへ旅立つ。
★ 木戸万九郎 〔中川内膳正〕(大分県)
  釜蓋城の家老にして、歴戦の勇士。龍造寺の本陣へ突撃をかける。
★ 町田兵七郎 〔肥前左馬之助〕(千葉県)
  釜蓋城の家老。別隊を率い龍造寺の側面からの突撃を企てる。
★ 千々石東孫左衛門
  千々石鉄砲隊長
★ 千々石兵次郎〔江頭寿洋〕(福岡県)木戸配下
★ 千々石兵四郎〔城戸〕(雲仙市)木戸配下
★ 千々石小三郎〔椿山〕(雲仙市)木戸配下
  千々石氏の一族、木戸万九郎と共に龍造寺へ突撃。
★ 千々石左京亮〔本多太一〕(長崎市)
★ 千々石西彦七郎〔あつべ〜〕(島原市)
  千々石氏の一族。別働隊町田の配下。

★ 千々石鉄砲隊・・・千々石舞華連のみなさん
★ 女武者3名(千々石町2、諫早市1)


寄せ手 【佐賀の龍造寺軍】

★ 龍造寺政家 〔川田金太郎〕(雲仙市)
  佐賀の龍造寺隆信の嫡男。千々石攻めの総大将。
★ 鍋島直茂 〔山内兵馬〕(長崎市)
  龍造寺政家の副将。後に佐賀鍋島藩の祖となる。
★ 鍋島信房 〔平林〕(鹿児島県)
  鍋島茂信の兄。鍋島鉄砲隊長を率いる。後に国見の神代領主。
★ 龍造寺家盛 〔真下昌景〕(福井県)
  政家の側近、龍造寺の本陣を死守する。
★ 空円 〔シンヨー〕(宮城県仙台市)
  隆信側近、僧兵。千々石軍を崩す。

★ 鍋島七本槍(鍋島隊の七将)・・・千々石中学校生徒
★ 鍋島鉄砲隊・・・千々石中学校生徒
  (募集で集まらないんだもんな〜)


 ―舞台劇―

★ 千々石大和守直員 〔劇団謎のモダン館・白濱隆次〕
★ 千々石純員 〔劇団謎のモダン館・田村清〕
  釜蓋城主の子で、後に洗礼し、千々石ミゲルと名のる。
★ 大和守の妻 〔劇団謎のモダン館・大坪文〕
★ 武者A 〔劇団謎のモダン館・毎熊善幸〕
★ トシ 〔劇団謎のモダン館・田村三穂〕
★ チヨ 〔劇団謎のモダン館・草場愛〕
★ ハル 〔劇団謎のモダン館・草場リナ〕
観櫻火宴2007の写真が沢山!
ばい「千々石ネット」
http://www.chijiwa.ne.jp/20070331kan_o_kaen/index.html
― 日本一の松明武者行列 ―

第12回・観櫻火宴の開催日が決定!!!

日時:平成20年3月29日(土)

場所:メイン会場:雲仙市千々石町 橘公園・橘神社

松明武者行列スタートは、千々石海岸


雲仙市千々石町の橘神社背後の山には、戦国時代、有馬の族臣千々石氏の居城・釜蓋城があり、
有馬の本領島原半島の西の最終防衛の地でありました。
天正5年(1577)時の城主千々石大和守直員は、攻め入った龍造寺軍を前に、
里内に使いを走らせ、里人の安全を図りました。
そして、自らも兵を率い軍勢を迎え撃つも矢弾尽きて落城。
大和守は、炎に包まれる城を後に家臣と共に自刃。25歳の若い生涯を捧げました。

その5年後(天正10年:1582)、長崎港から一人の少年が遠くローマへ旅立ちます。
その名は、千々石ミゲル。
釜蓋城から脱出した少年は、世界の東西交流史の壮挙を成し遂げます。
天正遣欧少年使節の有馬家、大村家の正使千々石ミゲルの物語は、
この釜蓋城の戦いから始まります。

「観櫻火宴」の行事は、平和な現代に生きる私達が、「大和守が果たせなかった勝どきを今の世に!」の掛け声のもと、平和な今の世への感謝の念を持って、ふるさとの活性化、再認識に繁げていこうと企画したのがはじまりです。
「観櫻火宴」

千々石ミゲルに関係ある祭りのなだが、
実行委員会は「千々石ミゲル」に関心無し。涙

2008の状況のみ報告します。
作成予定の「観櫻火宴・指南書」
もう少し修正が必要だが、とりあえずカキコ。


今を遡ること430年前、時は戦国時代末期、天下統一にまい進していた織田信長が、本能寺の変にたおれた天正10年。同年正月28日(西暦1582年2月20日)、イエズス会巡察師バリニヤーノの勧めにより、日本の正式な使節として4人の少年達がローマを目指して長崎港から旅立ました。その正使・千々石ミゲルは、キリシタン大名有馬晴信の従兄弟にして、大村純忠の甥である。ミゲルはなぜ、ローマへ赴くことになったのであろうか?
それは5年前のミゲルの故郷千々石城(釜蓋城)の戦いに由来する。

この頃の九州は、肥前の龍造寺、豊後の大友、薩摩の島津の三強が覇権を争っていました。一時は21万石の大名と言われた有馬氏も龍造寺氏との抗争の前に追い詰められていたのです。
天正5年(1577)12月、ついに龍造寺隆信は、数万の兵を率いて有馬の本拠である雲仙・島原半島の神代へ上陸し、有馬軍と交戦、勝利するも、ここで兵を二手に分け、大将に嫡男政家、副将に鍋島直茂を配し一万数千の兵を千々石へと向かわせたのであった。龍造寺軍一万余の軍勢は、瞬く間に瑞穂、吾妻、愛野の砦を陥落させ、いよいよ矛先は千々石城(釜蓋城)へ迫ったのであった。

宣教師フイス・フロイスは、その著書『日本史』で、千々石城(釜蓋城)の重要性を、有馬の高来領における「二つの鍵(ともいうべき城)の一つをなすものであった。」とし、また、「千々石城(釜蓋城)の初代の指揮官で城主だったのはドン・ミゲルの父親で・・・」との記述がある。

千々石の釜蓋城の城将は、千々石大和守直員(ナオカズ)。 有馬氏の一族であった。千々石城(釜蓋城)は有馬氏の出城で、千々石の丘陵にあり、城壁も堅固というほどではなかった。兵力も千人にも満たず、この来襲に備うることは実に過重の負担であった。しかし、城将大和守はすこぶる胆力があり、急を村民に伝え避難させ、守りを固めた。

千々石大和守は、一瞬のすきをつき、龍造寺の本陣を目掛けて突撃をかけた。ふいをつかれた龍造寺は一時は旗本までも色めき立って崩れるほどの激戦となるのである。しかし、龍造寺軍は体勢を立て直し、千々石軍は城への撤退を余儀なくなれる。劣勢ながらも千々石軍はよく防戦したが、兵力の差は明らかであった。ついに有馬の援軍は間に合わず、刀折れ、矢尽きて果てて千々石大和守直員は自刃。25歳という若さであった。自刃の際に、大和守直員は戦国の世の終結と平和を希求し、「千々石の地に天満宮を奉納せよ」との遺命を残した。千々石城(釜蓋城)跡に建立された千々石天満宮には、ふるさとに殉じた城主千々石大和守と家老木戸万九郎、町田兵七郎も共に奉られ、現在もこの地を見守り続けているのである。

そして、
千々石城(釜蓋城)を脱出した千々石ミゲルは、大村へ逃れ、その後有馬のセミナリヨの第1期生となり、天正遣欧少年使節の正使としてローマへ赴き、日本国の存在を世界に知らしめることになる。



千々石大和守直員
「龍造寺軍は、来年3月29日(土)に千々石へ来襲する。
千々石城(釜蓋城)は有馬の本領を護る西の最終防衛の地である。
ここを陥されれば、龍造寺軍は一気に有馬殿の本拠・日野江城へ向かうやもしれぬ。
我らの兵は少数なれど、なんとしてもこの地で、龍造寺軍をくい止めるのだ!
イヤサカーーーオオオオオオーーーー」  ×3

2008観櫻火宴
いよいよ、稚児武者30名、元服武者60名の募集開始!


これはボツだけど、
せっかく考えたので・・・・・UP。
鹿太郎殿の案を元に、少々アレンジしていますが。
本番用のナレーションを考えようと思う。
本番用は、ちょっと長めでもいいかなと!?



今から遡ること430年前、明智光秀が織田信長を襲撃した「本能寺の変」の数カ月前の天正10年2月20日、長崎の港を出航し、ローマを目指した4人の少年達がいました。日本で最初のヨーロッパ公式使節団「天正遣欧少年使節」です。  

彼ら4少年は、1585年、バチカンにてローマ教皇グレゴリオ13世との謁見。教皇自らの祝福をうけ、ローマ市民権の証明書を賜りました。

日本からの使者は、当時のヨーロッパで大変な評判となり、少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚嘆させ、行く先々で歓待されました。
このことは、当時、噂にしか過ぎなかった日本国の存在と、日本が文明国であることをヨーロッパ諸国に知らしめることになったのです。

ただいま流れています曲は1588年、帰国した天正遣欧少年使節が豊臣秀吉に謁見した際、演奏ししたといわれている曲、「皇帝の歌」であります。4少年の演奏を、秀吉は三度ほどアンコールをしたそうです。

この時、
関白豊臣秀吉は、千々石ミゲルに質問しました。
「千々石ミゲル、そなたは、有馬家の者か?」
ミゲルは答えました。「私は千々石の者です。」
「千々石は誰の領地にある!?」
「それは、有馬晴信様です。」
「では、そなたは有馬家の親戚の者か!?」
「私の父が有馬様と少し縁続きであるようです。」

千々石ミゲルと有馬晴信は従兄弟の関係で、非常に近い親戚なのです。
長崎最大の火祭り・観櫻火宴は、天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの父親の千々石釜蓋城主、千々石大和守直員の物語なのです。

雲仙市千々石町橘公園で行われる「観櫻火宴」の最大の見所は、総勢約200名のたいまつ武者行列です。日本全体を見渡しても鎧兜をつけ松明を持った武者行列で、雲仙市の観櫻火宴以上の規模はありません。まさに日本一の松明武者行列なのです。
その勇壮さ、夜桜を松明の明かりで照らす幽玄さを是非御覧下さい。

今年からは、佐嘉鍋島三十六萬石大名行列まつり実行委員の方々も参加されますので、大名行列も御覧いただけます。かっては、敵味方として戦った千々石軍と佐賀軍ですが、430年前の恩讐を越えて昨年同盟が成立し、本日も参加していただきました。

3月29日(土)のメイン会場では、中学生の女子による御神楽、甲冑をつけ、弓術を披露する島原古流会による具足弓、史実を再現した甲冑武者による合戦劇もございます。

会場にお越しの皆様、今年の春の桜の花見は、ぜひ3月29日、土曜日、 雲仙市千々石町 観櫻火宴へお越しください。

それでは皆様、ただいまから観櫻火宴の催し、御神楽、佐嘉鍋島三十六萬石大名行列、観櫻火宴釜蓋城物語寸劇の一部の順に御覧下さい。
雲仙ねっと
http://www.unzen.ne.jp/

千々石観桜火宴(かんおうかえん)3月29日開催

観櫻火宴(3/29)をクイックすると・・・・・・
2月17日(日)
長崎ランタンフェスティバルに出演。

今回は、「観櫻火宴」本番のミニバージョン。
千々石ミゲルと天正遣欧少年使節の4少年も登場!

今回の4少年は小学生。
君はマンショ、君はミゲル、君はマルチノ、君はジュリアンだよ!

と、言ったのに・・・・・・・・

よく見ると、順番が違う・・・・・げっそり
「観櫻火宴」で、将来、ミゲルにもっとスポットを当てたい、
との思いから熱いバトルを展開!(笑)
長いし、あまり調べることなく反論しているため、
ちょっと、おかしい部分もありますが・・・・・

「観櫻火宴201X」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27888796&comm_id=1533724

よかったら、目を通してくださいね。
「観櫻火宴」シナリオ!???????

妄想をアレンジ。(未完)
実現は不可能だけど、やれるかもというくらいに仕上げたい。
これを、さらに短くしてみよう。
因みに、
教皇グレゴリオ13世を登場させるのは不可能だと思う。(爆)


観櫻火宴201X

その1、釜蓋城にて・・・

【ナレーション】
天正5年(1577)12月、
佐賀の龍造寺隆信に攻められ、千々石釜蓋城は落城の時を迎えていた。

【BGM:   】

【舞台上に4人】大和守、妻、乳母、純員
【4人にスポット当たる】

千々石   よいか純員。貧しき者のために尽くせ。
      そしてこの世の平和のために尽くすのだ。
      いつの日か皆が愛する故郷で、
      平穏に暮らせる日が訪れるであろう。
       そして我々はその日のために戦わなくてはならん。
       千々石は俺が守る。さあその子を連れて行くのだ。
母・乳母   はい。

【暗転】


その2、長崎港にて・・・・

【BGM:少年使節が秀吉の御前で演奏したといわれている曲、「皇帝の歌」】

【ナレーション】
日本一のたいまつ武者行列・観櫻火宴は、今から遡ること約430年前の戦国時代末期に、雲仙市千々石釜蓋城の史実を再現した武者祭りです。
その主人公は、キリシタン大名有馬義貞、大村純忠の実弟である釜蓋城の城主、千々石大和守直員であり、千々石ミゲルはその息子とされています。

天正5年12月、
佐賀の龍造寺隆信に攻められ、千々石釜蓋城は落城します。
大和守の死後、叔父の大村純忠のもとへ落ち延びた千々石大和守の子供・千々石純員は、キリスト教の洗礼を受け、名を千々石ミゲルと改め、司祭になるべく、有馬のセミナリヨに入って学んでいました。

イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本を離れるにあたり、九州のキリシタン大名3家から名代となる使節をローマに派遣しようと考えました。
大友宗麟の正使に伊東マンショ、有馬晴信、大村純忠の両家の正使として千々石ミゲル。その副使として浦ジュリアン・原マルチノの4人が選ばれました。
これが日本で最初のヨーロッパ公式使節団「天正遣欧少年使節」です。


【舞台には四少年】マンショ、ミゲル、マルチノ、ジュリアン
【4少年にスポットあたる。】
【4少年、揃って空のかなたを指差す。】

4少年らの声(吹き込み)
ミゲル「ここ長崎の港から、いよいよ僕たちは永遠の都ローマへ向けて旅立つんだね」
ジュリアン「この海の先には、きっと大きな世界が広がっているんだろうね」
マルチノ「僕、船酔いをするんだ」
マンショ「大丈夫。長い航海になるけど、きっと神様が僕たちを守ってくれるよ」
4人全員で「さあ、旅立とう、ローマへ!」

【ナレーション】
1582年2月20日(和暦、天正10年正月28日)
明智光秀が織田信長を襲撃した「本能寺の変」の数カ月前、
長崎港から4人の少年たちは旅立ちました。

【暗転】
妄想をアレンジ。(未完)

その3、ローマ教皇との謁見式・・・

【舞台にメスキータと3少年】メスキータ、マンショ、ミゲル、マルチノ
【4人にスポットが当たる】

【ナレーション】
千々石ミゲルら日本からの使節4人は、
神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝やフランス国王といったキリスト教の君主、またその名代の使節と同様に、ヴァティカン宮殿内の「帝王の間」において、公式の枢機卿会によって教皇に謁見を賜ることが決定した。
しかし、中浦ジュリアンは病気のため3人が謁見式にのぞみました。

1585年(天正13年)3月23日
天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリオ十三世に謁見した。
いづれも16歳の少年は、絹のガウンに大小の刀をたばさみ、前へ進む。

【メスキータと3少年は前へ出る】

【ナレーション:グレゴリオ13世の声】
「(もろびとよ ゼウスを 誉め奉(たてまつ)るべし 」
「天の御主は 計り給(たま)うなり)」
「神の祝福があらん事を アーメン」


【メスキータ神父曰く。】メスキータ
「申し上げます。
東の果ての国ジパングの使節が、
教皇様に尊敬と感謝の意を表すため、
3年に及ぶ長旅をして、ただ今到着いたしました。
ご紹介申し上げます。
伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ。」

※ 教皇は両手を広げ少年たちを招く。
【三人は前へ出る。 】

まず、伊東マンショが教皇の前へ出る。
足元にひざまずき、床まで額を下げ、一礼。
教皇の手に接吻、次に足に接吻を行う。
教皇はマンショの額に接吻をする。
次に千々石ミゲルも同じく。

【三人はひざまずく】

【伊東マンショ、曰く】
「改めてご挨拶申し上げまする。
このたび我ら、東の果ての日出る国・日本から
教皇さまに敬意と感謝の念を表すため参上つかまつりました。
それがし、伊東マンショは日本の西国豊後の国の国主大友宗麟フランシスコの名代にして、
また、これにひかえております千々石ミゲルは
肥前の殿・大村純忠バルトロメオ、有馬の殿・有馬晴信プロタジオの名代にございまする。」

【ナレーション】
メスキータ神父がそれを通訳した。
三人の大名の手紙が翻訳され、朗読されたのち、
使節の意義について説教があり、教皇からの礼の言葉があった。


伊東マンショが豊後の大友宗麟の書状に接吻をして、これを教皇に奉呈した。
つづいて、千々石ミゲルが、有馬・大村二候の書状を同じように奉呈した。
マンショ、ミゲルの両使節は日本語で簡単に使命を奏上して
メスキータ神父がご説明申し上げた。

【ナレーション】
イエズス会のポルトガル人司祭ガスパル・ゴンサルヴェスは、ここで
ラテン語で熱誠こめた演説を披露した。

【ナレーション:ガスパル・ゴンサルヴェス曰く】
「自然は海と陸とのすこぶる大いなる隔たりをもって、
我が地方より日本を引離したために、遠き古(いにしえ)より、
その国(日本)のことは、かすかに風説として伝えられ、
その名はほとんど知られることもなく、
その他の諸事についてはまったく尋ね難いものがございました。
しかるところ、今に至りましては、
その日本という名の諸島が存在することをわずかに信じる人なきにしもありませぬ。
されど、至聖なる御父、教皇様に申し奉る。
その国(日本)は、ただに存在するのみならず、
幾多の住民の満ちたるところでございます。
その住民は、その具える良き能力、知識、武技によって著名であり、
それら諸島を目撃せる者は、
東洋のいずれの国民にも優れりと見なしておるのでございます。
ヨーロッパの我らと比べますならば、
彼らに欠くるは、ただキリスト教とその信仰のみにございます。
かの遠く離たれる国に、真理の光が播かれてより、年月を経ておりますが、
未だ草創の域を脱してはおりませぬ。
されど、至聖なる御父よ。
わが聖なる教えは、まず初めに下層の人々を捉え、近年、
今や、至福なる聖下の御在位中、かの(日本)諸島の王侯にも到達したのでございます。」

【四少年、胸に十字を切り頭をたれる。】

【暗転】
妄想をアレンジ。(未完)

その4、帰国、関白との謁見式・・・

【ナレーション】
使節の4少年は、1585年、バチカンにて、ローマ教皇グレゴリオ13世との謁見し、教皇自らの祝福をうけ、ローマ市民権の証明書を賜りました。日本からの使者は、当時のヨーロッパで大変な評判となり、少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚嘆させ、行く先々で歓待されました。
そしてこのことは、当時、噂にしか過ぎなかった日本国の存在と、日本が文明国であることをヨーロッパ諸国に知らしめることになったのです。



転 【ナレーション(吹き込み)&BGM『皇帝の歌』】:

天正遣欧使節が長崎に帰着したのは天正18年(1590)、およそ8年半にもおよぶ長い旅でした。時代はキリシタンを擁護した信長から秀吉の時代へと移っていました。

ただいま流れています曲は1588年、天正遣欧少年使節が時の天下人、太閤秀吉に謁見した際、演奏ししたといわれている曲、「皇帝の歌」です。遣欧少年使節は歴史に残り、東西交渉史上の壮挙であり、現在ではとかく美化されがちでありますが、実態は奇麗事ばかりではなかったようです。

【舞台に秀吉と宣教師。スポットが当たる】

1587年、豊臣秀吉は宣教師ガスパール・コエリョ、イエズス会日本支部の初代準管区長に対し、五カ条に及ぶ詰問状を突きつける。
ついに同年6月、バテレン追放令が発令されました。

因みに、なぜ、キリスト教が禁止されたのか?という点を、教科書等ではほとんど取り上げられません。そのため、宣教師とキリシタンは一方的な被害者と思われがちです。しかし、なぜ徳川家康は黙認から禁教へと方針を変えたのでしょうか、同様に豊臣秀吉も、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、 急に宣教師追放令を出している。
これらは、いずれもキリシタン勢力から国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策だったのです。

【秀吉(  )入場。4少年、片膝ついて控える。】

注:すべて吹き込み

1590年7月28日、千々石ミゲルら天正遣欧使節、帰国しました。
この時、迎えに来た母たちは息子の顔がわからなかったといいます。実に8年ぶりの再会だったのです。
帰国後、今度は関白豊臣秀吉との謁見のために、京都へ向かいました。

ミゲルがローマに当てて書いた手紙があります。
「私たちが関白に会い、ローマの話を聞かせれば、必ず教会の助けになります。」
この頃のミゲルは秀吉の心を動かすことができると信じていたが、
関白秀吉の存在の大きさを誰よりも感じることとなる。

1591年3月3日(天正19年正月8日)

ヴァリニャーノと使節4人らは、インド副王使節として、
関白豊臣秀吉との謁見式が行われました。

この第二幕。
秀吉は正装姿から普段着に着替え、親しみ深く言葉を交わしました。
関白秀吉は、ミゲルに訊ねました。

(秀 吉)「千々石ミゲル、そなたは、有馬家の者か?」
(ミゲル)「私は千々石の者です。」
(秀 吉)「千々石は誰の領地にある!?」
(ミゲル)「それは、有馬晴信様です。」
(秀 吉)「では、そなたは有馬家の親戚の者か!?」
(ミゲル)「私の父が有馬様と少し縁続きであるようです。」

千々石ミゲルと有馬晴信は従兄弟であると記録は伝える・・・・
すでに、関白による禁教令が出されていた。
ミゲルは自分の素性を明かせば有馬家の迷惑になると考え、出身地を答え、
関白に偽りを言うことなくその場を切り抜けた。
この時、ミゲルはだれよりも関白秀吉の大きさを知る。

謁見の後、ミゲルらは西洋から持ち帰った楽器を秀吉の前で演奏した。
4人は落ち着いて自分の楽器を手に取り、音を合わせて引き始めた。
楽器を奏でながら4人は歌った。
秀吉は3度ほどアンコールをした。
それから自らの手に楽器を取り、それぞれにいろいろな質問をした。
終わりに4人を賞賛して、
「汝等が日本人であることをうれしく思うぞ」
と、終始上機嫌であったと云う。

しかし、半年後、
関白秀吉の示した返答は厳しいものであった。
「人々を惑わすバテレン達には、厳しい刑罰を下し、絶滅させるつもりである。
秀吉の気持ちは、全く変わらなかったのでありました。

【舞台暗転 】
妄想をアレンジ。(未完)

その5、その後のミゲル・・・

【ナレーション】
ミゲルはその後、イエズス会脱会し、従兄弟である大村藩主大村喜前の家臣となり、名を清左衛門(せいざえもん)と称し、多良見の伊木力に600石の食録をもらいました。大村喜前がキリシタン信仰を棄てるとミゲルもそれに従いました。

一般的には、千々石清左衛門が喜前にキリスト教は邪教と進言し、キリシタンの迫害者になったと云われています。キリシタン側からは強い非難の声があがり、裏切り者としての烙印を押されました。
その後の清左衛門は藩政・キリシタンの両方の勢力から追われるように大村を逃げ出し、島原半島の有馬晴信のもとに身を寄せた。だが、ここでも家臣に瀕死の重傷を負わされるなど厳しい仕打ちをうけたため、長崎に移り住んでいたそうであります。

その後のミゲルを知る史料に、ホレモン神父の書簡があります。
ホレモン神父は、こう記しています。

「千々石ミゲルはキリスト教徒でもなく、仏教徒でもなく、
さりとてキリスト教徒も迫害していない。
ただ、ヨーロッパの経験をなつかしく話している」

・・・・・真実は、誰にもわかりません。



少年使節は帰国後、キリスト教禁教が進む中で不遇な後半生をおくったとされています。中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ1人、帰国後にキリスト教を棄て、仏教に改宗し、結婚したとされています。
平成15年12月14日、諫早市多良見町で天正遣欧少年使節団の一人、千々石ミゲルの墓と思われる石碑が発見されました。大石一久さん著「背教者ミゲルの生涯」によれば唯一、後半生をともに過ごしてきた妻だけがよき伴侶・よき理解者であったといわれ、その妻が1632年12月12日に亡くなりました。その妻の死から2日後、清左衛門も帰らぬ人となりました。4男だったが嫡子的立場にあった千々石玄蕃は、父縁の地である伊木力の一角に両親のための墓石を建てたそうです。

〆の文章。ミゲルは歴史の流れに翻弄され、不遇な人生を送ったが、それは宗教を云々というより妻や子供のために一生懸命生き抜いたみたいな文章で〆られないか
その後のミゲルを知る史料に、ホレモン神父の書簡があります。
ホレモン神父は、こう記しています。

「千々石ミゲルはキリスト教徒でもなく、仏教徒でもなく、
さりとてキリスト教徒も迫害していない。
ただ、ヨーロッパの経験をなつかしく話している」


・・・・・・・・ほとんど無視されているホレモン神父の記述。

ミゲルの晩年のことは、ルセーナの回想録が有名であるが、
これは、かなり後に書かれた回想録であるため、記述の誤りが多い。
(ルセーナの記憶違いが多いということである。)

しかし、ミゲルの晩年の根拠は、この回想録に基づくものなんだよね。

真実は、誰にもわからないのだ!!!!!
続、妄想編
実現可能という点から考えてみたが・・・・・いまいち。
あっち、こっちからパクリながら・・・・もうやだ〜(悲しい顔)

【起】
舞台には4少年が登場。
ここにいる4少年は、天正遣欧使節の豊後の大友宗麟の正使・伊東マンショ。有馬晴信、大村純忠の正使・千々石ミゲル。使節の副使・原マルチノ、同じく副使の中浦ジュリアンです。

今から遡ること426年前、時は戦国末期の安土桃山時代。
明智光秀が織田信長を襲撃した「本能寺の変」の数ヶ月前の長崎の港での出来事です。
即ち、1582年2月20日、4人の少年達が、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに導かれ、キリスト教の総本山であるローマを目指し、南蛮船に乗りこみ、長崎港から旅立ちました。
九州のキリシタン大名3家の名代として出発したのは当時わずか12〜13歳の4人の少年たちでした。これが日本で最初のヨーロッパ公式使節団である「天正遣欧少年使節」です。

ミゲル「・・・・・」
ジュリアン「・・・・・」
マルチノ「・・・・・」
マンショ「・・・・・」


【承】
長崎港を出港して約2年半、にもわたる苦難の船旅を経て、ヨーロッパに到着。ここで彼らは、世界最大の領土を持つスペイン国王フェリペ2世や、世界の権威ローマ法王にどうどうと謁見を果たしました。
この日本からの使者は、当時のヨーロッパで大評判となり、
少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚愕させ、日本の使節は、行く先々で歓待されました。
このことは、当時噂にしか過ぎなかった日本国の存在と、日本が文明国であることをヨーロッパ諸国に知らしめることになったのです。


【転】
大和守とミゲルの二人。

みなさんは、今日の日本一の松明武者行列「観櫻火宴」になぜ「天正遣欧使節」が登場するのかと、不思議に思っているのではありませんか?
実は、
有馬晴信、大村純忠の正使である千々石ミゲルは、その名のとおり、
雲仙市千々石町にゆかりのある人物なのです。
400年以上前の当時のローマ市の市議会記録には
「エモノスケ・ナオカズ、千々石王の孫、晴朗なる有馬王ドン・プロタジオの父方の従兄弟にして、顕栄にして高貴なる大村候ドン・バトロメウの甥、有馬王と大村候の双方に属する千々石にて出生」と明記してあります。

即ち、観櫻火宴の主役・千々石大和守直員と
島原半島の有馬義直と大村の大村純忠は実の兄弟であり、
千々石ミゲルとは、釜蓋城主千々石大和守直員の息子なのです。
千々石ミゲルの波乱の人生は、「天正遣欧少年使節」が長崎港を旅立つ5年前の天正5年12月、龍造寺との戦いからはじまるのです。


【結】
舞台には4少年が登場。

8年を越える長旅から帰国した天正遣欧使節団。
すでに日本はキリスト教の禁教の時代となっていました。
4人の少年達も運命に翻弄されてゆきます。
中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ一人、帰国後にキリスト教から離れ、日蓮宗に改宗、結婚したとされています。

一般的には、キリスト教を棄て、迫害する側になったと云われています。
しかし、ホレモン神父の書簡にはこう記してあります。
「千々石ミゲルは、キリスト教図でもなく、仏教徒でもなく、さりとてキリスト教徒も迫害していない。ただ、ヨーロッパの経験をなつかしく話している」と・・・

かって、美智子妃殿下は皇太子妃の頃に千々石ミゲルについて、こう感想をおもらしになられたそうです。
「信仰を全うして殉教した人たちよりも、千々石ミゲルの方が苦しみ悩み抜いたのではないでしょうか。」と・・・・

長崎県諫早市多良見町。
4年前の2004年2月28日、
この町のミカン畑で、千々石ミゲルのものと見られる墓が発見され、
全国的な話題となりました。

厳しい弾圧のなかでキリスト教を棄てたとされるミゲルの晩年については、
これまで、なにもあきらかになっていませんでした。

墓石には、どこにもミゲルの名は刻まれていませんでした。
唯一の手がかりになったのは、
墓を建てたミゲルの息子、千々石玄蕃の名でした。
墓石から妻の死から2日後、ミゲルも後を追うようになくなっています。
ミゲルが最も大切に思っていたのは家族だったのかもしれません。

人目を忍ぶように建てられたこの墓は、
千々石ミゲルの苦難に満ちた晩年の日々を忍ばせます。

キリシタン弾圧のなか、
天正遣欧使節の国内の遺物は、全て失われていきました。
日本の運命を背負って、
ヨーロッパの最高権力者にどうどうと謁見した少年たち。

発見された千々石ミゲルの墓は、
彼ら「天正遣欧少年使節」の存在を今に伝える、国内唯一の証なのです。
続、妄想編(改良)
・・・・・10分以内に収まりそうだ!

【起】
カチンコ<舞台には4少年が登場>
今から遡ること426年前、時は戦国末期の安土桃山時代。
明智光秀が織田信長を襲撃した「本能寺の変」の数ヶ月前の長崎の港での出来事です。
即ち、1582年2月20日(和暦、天正10年正月28日)4人の少年達が、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに導かれ、キリスト教の総本山であるローマを目指し、南蛮船に乗りこみ、長崎港から旅立ちました。
九州のキリシタン大名3家の名代として出発したのは、当時わずか12〜13歳の4人の少年たちでした。これが日本で最初のヨーロッパ公式使節団である「天正遣欧少年使節」です。

カチンコ<名前を呼ばれたら一歩前へ出る>
大友宗麟の正使に伊東マンショ。
有馬晴信、大村純忠の両家の正使として千々石ミゲル。
その副使として中浦ジュリアンと、原マルチノの4人が選ばれました。

カチンコ<4少年、揃って空のかなたを指差す>
マンショ「ここ長崎の港から、いよいよ僕たちは永遠の都ローマへ向けて旅立つんだね。」
ミゲル「この海の先には、きっと大きな世界が広がっているんだろうね。」
マルチノ「僕、船酔いをするんだ。」
ジュリアン「大丈夫。長い航海になるけど、きっと神様が僕たちを守ってくれるよ。」
4人全員で「さあ、旅立とう、ローマへ!」


【承】
長崎港を出港して約2年半、4人少年は苦難の船旅を経て、ヨーロッパに到着しました。ここで彼らは、当時世界最大の領土を持つスペイン国王フェリペ2世や、世界の権威ローマ法王にどうどうと謁見を果たしました。
この日本からの使者は、当時のヨーロッパで大評判となり、
少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚愕させ、日本の使節は、行く先々で歓待されました。
このことは、当時噂にしか過ぎなかった日本国の存在と、日本が文明国であることをヨーロッパ諸国に知らしめることになったのです。


【転】
カチンコ<千々石大和守とミゲルの二人。>

みなさんは、今日の日本一の松明武者行列「観櫻火宴」になぜ「天正遣欧使節」が登場するのかと、不思議に思っているのではありませんか?
実は、
有馬晴信、大村純忠の正使である千々石ミゲルは、その名のとおり、
雲仙市千々石町にゆかりのある人物なのです。
400年以上前の当時のローマ市の市議会記録には
「千々石王の孫、有馬晴信の父方の従兄弟にして、大村純忠の甥、有馬王と大村候の双方に属する千々石にて出生」と明記してあります。

即ち、観櫻火宴の主役・千々石大和守直員と
島原半島の有馬晴信の父・義直と大村の大村純忠は実の兄弟であり、
千々石ミゲルとは、釜蓋城主千々石大和守直員の息子なのです。
【結】
カチンコ<舞台には4少年が登場、片膝ついて控える。】 >秀吉は声のみ。

ただいま流れています曲は1588年、天正遣欧少年使節が時の天下人、太閤秀吉に謁見した際、演奏ししたといわれている曲、「皇帝の歌」です。

1590年7月28日、千々石ミゲルら、天正遣欧使節は帰国を果たしました。
この時、迎えに来た母たちは息子の顔がわからなかったといいます。
実に8年半ぶりの再会だったのです。
そして、日本の環境も大きく代り、キリスト教は禁止となっていました。
4少年は、今度は関白豊臣秀吉との謁見のために、京都へ向かいました。

カチンコ<ミゲル、前へ出る>
1591年3月3日(天正19年正月8日)
関白豊臣秀吉との謁見式が行われました。
この時、関白豊臣秀吉は、ミゲルにこう訊ねています。

(秀 吉)「千々石ミゲル、そなたは、有馬家の者か?」
(ミゲル)「私は千々石の者です。」
(秀 吉)「千々石は誰の領地にある!?」
(ミゲル)「それは、有馬晴信様です。」
(秀 吉)「では、そなたは有馬家の親戚の者か!?」
(ミゲル)「私の父が有馬様と少し縁続きであるようです。」

関白秀吉による禁教令の下、ミゲルはキリシタンであることが明らかな自分の素性を明かせば、親戚の有馬家の迷惑になると考え、出身地を答え、
秀吉に偽りを言うことなくその場を切り抜けました。
そして、4少年は西洋から持ち帰った楽器を秀吉の前で演奏し、歌を歌いました。秀吉は3度ほどアンコールをしたそうです。
しかし、秀吉の禁教の気持ちは、全く変わらなかったのでした。

その後、4人の少年達も運命に翻弄されてゆきます。
中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ一人、帰国後にキリスト教から離れ、日蓮宗に改宗し、結婚したとされています。

カチンコ<3少年、一人づつ退場、ミゲル残る。千々石大和守登場>
4年前、諫早市多良見町で、千々石ミゲルのものと見られる墓石が発見され、全国的な話題となりました。

この墓石から、妻の死から2日後に、ミゲルも後を追うようになくなっていることがわかりました。
幼くして父と死別し、母と別れた千々石ミゲルが最も大切に思っていたのは「家族」だったのかもしれません。

また、かって、美智子妃殿下は皇太子妃の頃に千々石ミゲルについて、こう感想をおもらしになられたそうです。
「信仰を全うして殉教した人たちよりも、千々石ミゲルの方が苦しみ悩み抜いたのではないでしょうか。」と・・・・

約400年前、日本の運命をかけてヨーロッパの最高権力者にどうどうと謁見した4人の少年たちがいました。
その一人、千々石ミゲルの波乱の人生は、「天正遣欧少年使節」が長崎港を旅立つ、
その5年前の天正5年12月、龍造寺軍の千々石来襲からはじまるのです。


「観櫻火宴」スタート!
「観櫻火宴2008」

千々石町に伝わる最強武者伝説・・・・・・
我らの前に敵は無し!!!!!!!!!!!!!!!!!


来年も参加者を募集します!!!稚児武者(新小学一年生)
むかっ(怒り)最強武者軍団VS極悪武者同盟
有馬・千々石軍、出陣!!!!!!!!!!

日本一の松明武者行列、観櫻火宴。
いや、規模の大きな武者祭り、歴史祭りはそりゃーありますよー!
しかし、武者姿で松明を持っての行列は、どこにもありませんよー
友人から、「福岡の新聞に載っていましたよー」と、言われ、調べる。
たぶん、これ

長崎・千々石で、武者姿で練り歩く「観櫻火宴」開かれる
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_08033006.htm

写真に写っているのは・・・・・ウッシッシ
鹿太郎殿の御尽力により、日本一であることが立証されました!


「観櫻火宴は日本一の松明武者行列」
http://www.nippon-1.net/

おめでとうございます。
日本一ネットに掲載されました。

┬──────────────────────────────
│■掲載内容
┴──────────────────────────────
カテゴリー: 催事・行事

記録タイトル: 日本一の松明(たいまつ)武者行列
観櫻火宴2009 
天正5年12月、龍造寺軍VS有馬・千々石軍

むかっ(怒り)天正遣欧少年使節も登場!!!

現在、参加者募集中〜
http://www.geocities.jp/tachibanajinjyaseinenkai/

1 開 催 日 平成21年3月28日(土)
2 場  所  長崎県雲仙市千々石 町福石公園 〜 千々石中学校グランド
3 内  容

16:00〜 元服式(橘神社拝殿)

18:00〜 千々石海岸(福石公園)会場開始 
 最強軍団(稚児武者) VS極悪軍団   御神楽
 島原具足弓& 三河雪荷派牛久保矢場   葦北鉄砲隊(火縄銃の披露)

18:55〜 松明武者隊出陣(ホラ貝、太鼓、ドラ)

19:50〜 千々石中学校グランド着 (中学校会場開始)

 グランド松明行列 釜蓋城ものがたり2009(合戦寸劇)
 最強軍団(稚児武者)VS極悪軍団   元服立志式   御神楽
 島原具足弓& 三河雪荷派牛久保矢場   葦北鉄砲隊(火縄銃の披露)

21:30〜 終了


釜蓋城ものがたり2009(合戦寸劇)

 「・・・・・斯くて隆信夫より千々岩の城主千々岩直員を攻めらる。
此直員は元來有馬仙岩の末子にて、鎭貴には弟なりしかば、
有馬より加勢を遣し、稠しく防ぎ戦う。
斯かりし間、龍造寺の軍兵利を失ひ、隆信の旗本まで色めき立ちて崩れむとす。

然るに此時、
佐嘉の光照寺の住持空圓とて元は旅僧の有りけるが、兼ねて隆信の懇志を受けし故、
此度當陣へ見舞の為に來つありて。
此出家、唯今味方の崩るゝを見て・・・・・
第11回観櫻火宴(2007年3月31日)

龍造寺家盛役で福井県から参加された真下昌景殿が詳しくレポを書かれていますので、ご紹介します。
http://etizensaisyou.jyoukamachi.com/waki/wakitop.html

なんか、懐かしい写真がいっぱいじゃ〜わーい(嬉しい顔)
「観櫻火宴2010」

釜蓋城物語2010の天正遣欧使節編
       今年は、ローマ法王との謁見のシーンを検討中!?

今後、変更もありえますが、だいたいこんな感じです。
あれ!?流鏑馬が無い・・・・
佐賀から馬を持ってきてくれるって話だけどなー?


平成22年3月26日(金)

◇千々石中学校グランド◇

19:00〜 前日リハーサル & 会場設定

平成22年3月27日(土)

◇千々石中学校グランド◇
9:00〜  会場設定 & 準備
13:00  当日リハーサル(寸劇)

16:00  元服武者、元服式 ◇橘神社◇

◇福石公園会場◇

17:30  福石公園集合
18:00  観櫻火宴2010開始
18:10  最強武者登場!(稚児武者VS極悪武者)
18:20  御神楽(巫女ダンスじゃないぞー)
18:25  タイ捨流剣術(居合い、手裏剣)
18:35  島原具足弓(弓)
18:45  芦北鉄砲隊(火縄銃の実演)
19:00  松明武者、出陣!

◇千々石中学校グランド会場◇

19:50  松明武者、到着
20:00  松明武者、グランド行軍
20:10  タイ捨流剣術(居合い、手裏剣)
20:20  島原具足弓(弓)
20:30  芦北鉄砲隊(火縄銃の実演)
20:40  寸劇・釜蓋城物語(有馬千々石VS佐賀龍造寺)  
21:10  最強武者登場!(稚児武者VS極悪武者)
21:20  元服武者、元服立志式
21:30  御神楽(巫女ダンスじゃないぞー)
21:40  観櫻火宴2010終了

       後片付け

◇小浜温泉◇

21:30  懇親会

平成22年3月28日(日)

9:00   後片付け
「観櫻火宴2010」

>釜蓋城物語2010の天正遣欧使節編
       今年は、ローマ法王との謁見のシーンを検討中!?

断念!!泣き顔
「観櫻火宴2010」 シナリオ

観櫻火宴釜蓋城物語2010 
【 千々石ミゲル編(1) 】 ― 天正遣欧少年使節 ― 

場面 : 天正10年1月18日(西暦1582年2月20日)、長崎の港
◆ 舞台には、天正遣欧使節の4少年が登場 ◆ 
   左側から、ジュリアン、マルチノ、ミゲル、マンショ。

ナレーション
「今から遡ること428年前、時は戦国末期の安土桃山時代。
織田信長が襲撃された「本能寺の変」の数ヶ月前の長崎の港での出来事です。
1582年2月20日、4人の少年達が、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノに導かれ、キリスト教の総本山であるローマを目指し、長崎港から旅立ちました。
九州のキリシタン大名3家の名代として出発したのは当時、わずか12〜3歳の少年たちでした。
これが日本で最初のヨーロッパ公式使節団、「天正遣欧少年使節」です。」

ナレーション
「大友宗麟の正使に伊東マンショ。                     ⇒  マンショ、一歩前へ 
有馬晴信、大村純忠の両家の正使として千々石ミゲル。
 ⇒  ミゲル、一歩前へ 
その副使として、原マルチノ                        ⇒  マルチノ、一歩前へ 
中浦ジュリアン                              ⇒  ジュリアン、一歩前へ 
この4人が選ばれました 。」

マンショ、 
「ここ長崎の港から、いよいよ僕たちは永遠の都ローマへ向けて旅立つんだね。」
ミゲル、 
「この海の先には、きっと、大きな世界が広がっているのだろうね。」
マルチノ、 
「僕、船酔いをするんだ。」                         ジュリアン、 
「大丈夫、長い航海になるけど、きっと、イエス様が僕たちを守ってくれるよ。」
4少年、
「さあ、旅立とう、ローマへ!」
● 全員、右手は右ななめ前(ローマ)を指差す。● 

● 下、ナレーションの途中で、ミゲルを残し、3人は右側へ退場。 ●

ナレーション
長崎港を出港して約2年半、4人の少年たちは、苦難の船旅を経て、ヨーロッパに到着しました。
ここで彼らは、当時世界最大の領土を持つスペイン国王や、世界の権威ローマ法王に堂々と謁見を果たしました。
この日本からの使節は、当時ヨーロッパで大評判となり、少年たちの高い知性と礼儀正しさは、
アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚愕させ、行く先々で歓待されました。
このことは、当時、噂にしか過ぎなかった日本国の存在と、日本が文明国であることをヨーロッパ諸国に知らしめることになったのです。
「観櫻火宴」に、なぜ、「天正遣欧少年使節」が登場するのかと、不思議に思っている方もいらっしゃるかもしれません。
実は、千々石ミゲルは、その名のとおり、雲仙市千々石町にゆかりのある人物です。
この「観櫻火宴」の主役、「千々石大和守」と、島原半島領主・有馬晴信の父・義直と、大村の大村純忠は実の兄弟であり、
千々石ミゲルは、釜蓋城々主・千々石大和守の息子なのです。
この千々石ミゲルの波乱の人生は、天正5年12月、龍造寺軍の千々石来襲から始まるのです。
観櫻火宴釜蓋城物語2010 
【 血戦! 釜蓋城編 】  ― 大和守とミゲルの別れ ― 

ナレーション
  今からさかのぼること430年前の戦国時代の末期。 
有馬は早くからキリスト教が広まり、外国と貿易を始めることで力をつけていましたが、
比較的平和だった島原半島にも、弱肉強食の戦国時代の嵐が吹き荒れようとしていたのです。
佐賀の戦国大名・龍造寺隆信は、キリシタン殲滅を旗印に、2万の大軍を動員し、有馬家に戦いを挑んだのです。
時に天正5年12月、2万を超える龍造寺の軍勢は、まず船を使って島原半島北部の神代に上陸、
有馬軍と交戦、あっという間に、国見、瑞穂付近を制圧しました。
ここで、龍造寺隆信は軍を二手に分け、自らは神代に留まり、
もう一隊は、息子の龍造寺政家を総大将として、千々石の釜蓋城へと向かわせたのです。

もとより釜蓋城は、城塞も堅固というほどではなく、守る千々石の兵力はわずかに六百。
この龍造寺軍一万の来襲に備えることは実に過重の負担でありました。
しかし城主千々石大和守直員は頗る胆力があり、急を村民に伝え避難させ、堅く守りを固めたのである。

● 千々石大和守直員、舞台中央に一人、堂々と立つ。 ●
● 舞台近くのグランドに伝令が控えている。 ●
● この間に、千々石兵は、グランド観客側の端へ移動する。 ●
         
● 舞台には、千々石純員(ミゲル)、乳母が登場 ●  左側に乳母とミゲル、少し離れ右側に千々石大和守。

ナレーション
釜蓋城城主・千々石大和守直員(なおかず)25歳、
その子・純員(すみかず)8歳。 後の天正遣欧使節、千々石ミゲルである。 今、乳母と共に大村へ発とうとしていた。

千々石大和守  「よいか純員。 貧しき者のために尽くせ。そして、この世の平和のために尽くすのだ。
 いつの日か、皆が愛する故郷で、平穏に暮らせる日が訪れるであろう。
そして、我々はその日のために戦わなくてはならん。
千々石は俺が守る。
さあ、その子を連れて行くのだ。」

● 乳母、純員(ミゲル)をつれて退場。●

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肥前・千々石一族 更新情報

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星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。