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肥前・千々石一族コミュの肥前千々石一族。

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千々石尚員、上洛(京都へ) 

『実隆公記』大永6年(1526)8月28日の記事に

「千々石三郎源尚員肥前国住人也 先度来 周桂同宿在京伝々
百人一首被者所望伝々 奥書所望間 書遣之 唐枕持来 自愛也。」

 千々石の三郎源の尚員は肥前国住人なり 先度来る (有馬出身の連歌師)周桂の同宿にて在京伝々
百人一首を彼の者所望する伝々 奥書所望の間 書きて之を遣わす 唐枕持ち来る 自ら愛するなり。




・・・天下を狙う肥前国の千々石氏。
上洛し、天下の情勢を探る。


ここで「天下布武」を宣言しておけばよかった・・・なぁ。

コメント(4)

私のハンドルネームは、「千々石小三郎」。
実は、ちゃんとした実在の人物。 肥前国千々石一族の者。
千々石ミゲルに関連する人物である。

室町幕府政所執事伊勢氏の下にあって、政所代の要職にあった蜷川親俊(ニナガワチカトシ)(生年?〜永禄12年)の日記『親俊日記』の天文8年(1539)正月29日の記事のなかに「筑紫衆、夕食によふ、大村民部大夫、同太郎左衛門、同弥十郎、千々石小三郎、・・・・・」
の記述があります。

大村民部大夫とはキリシタン大名大村純忠の養父・大村純前のことです。
同太郎左衛門とは純前の弟・純淳のこと、同弥十郎とは純前の弟・純重のことである。
そして、千々石小三郎とは千々石領主のことである。

純前は父純伊没後、家督相続につき、将軍足利義晴からこれを安堵されたことに対し、その御礼言上にあったようである。
その後、大村純前は上洛して、飛鳥井邸に赴き、鞠を行ない、蜷川親俊と和歌のやり取りをしている。さらに親俊邸に招かれ、夕食の馳走に与っているのである。
同席した千々石小三郎もまた、大村純前と共に、中央文化に瞳れ、幕府の要路の者や貴族達との交遊を行なっていたのであろう。

歴史の真実は、千々石氏は天下を狙っており、肥前国、九州を制圧した後に、兵を率い上洛をする意図があったのである。


   ―超々々希望的推測―

・・・・いいじゃないかい、願望だよ、願望。(笑)
ただ、最近、永禄4年(1561)の記録のなかに
「千々石殿、・・・同小三郎・・・」の記載を発見!?
千々石殿は当然、千々石の領主。

え? 家臣? 
・・・いいじゃないかい、家臣を京都へ派遣したんだよ。(笑)
我が日記からの転載。
よくみたら、同じことをカキコしている。まあ、いいか!


本日のNHK大河ドラマ「風林火山」での武田晴信と三条夫人の会話の中に「三条西家」が出てきた。 三条家の分家であるという。
実は、この三条西家と千々石家とは親しい間柄なのである。
 (↑ いいじゃないか、カキコしたくらい!願望だよ、願望!)

千々石三郎尚員は、大永6年(1526)2月、有馬出身で当時京都にあった連歌師・周桂の下に滞在していた。これを頼りに三条西実隆に和歌の指導を受けた。三条西実隆は当代随一の学者で有識故実をはじめ和漢の学に通じ、しかも内大臣にまでなった人物である。
千々石尚員はこの時、三条西実隆に対し「百人一首」を所望し、これを与えられると、さらにそれに奥書まで懇望したのである。実隆はこれに応じて書いて与えた。すると尚員は御礼に唐枕を実隆に献じ、喜ばれている。

★『実隆公記』 大永6年(1526)8月28日の記事より
千々石三郎源尚員肥前国住人也、先度来、周桂同宿在京伝々、百人一首被者所望伝々、奥書所望間、書遣之、唐枕持来、自愛也。

千々石三郎源尚員は肥前国の住人なり、先度来る、(連歌師)周桂もとに同宿にて在京すと伝々、百人一首を被の者所望伝々、奥書所望の間、書きて之を遣わす、唐枕持ち来る、自ら愛するなり。

★『再昌草』 大永6年(1526)8月28日の記事より
肥前国住人千石良源尚員唐枕携来し、やかてふしてみたる
心よく持しかは、戯に思つつけし
   やはらかにねぬる物かな夢にても
   いつかふれけんかゝる枕は


三条西 実隆 (サンジョウニシ サネタカ)
  享徳4年(1455).4.25〜天文6年(1537).10.3
室町時代の文学者、歌人。内大臣三条西公保の次男。永正3年に内大臣をやめるまで後花園・後土御門・後柏原の三代の天皇に仕える一方、学者、歌人として名声を得た。能書家としても知られる。室町時代公家文化の代表者と評価されている。


・・・・しまった!
この時の上洛したおりに千々石家が天下を獲っておくべきだった!
・・・・・願望だよ!願望!
   ― 永禄十年(1567) 『肥前日記』より ―
千々石之分
? 千々石右(左)衛門尉殿
? 同 御上様
? 同 大御上様


? 千々石右(左)衛門尉殿 矢印左右 当然千々石の城主である。
? 同 御上様 矢印左右 城主の妻である。(ミゲルの母かexclamation & question)
? 同 大御上様 矢印左右 城主の母である。


この記述は、永禄10年(1567)のもの。まだ、キリスト教の影響は少ない。
これより10年後に佐賀の龍造寺に攻められることになる。

釜蓋の戦いは、天正5年(1577)。
天正遣欧使節の旅立ちは、天正10年(1582)。
有馬晴信の兄弟であり、千々石ミゲルの従兄弟の話である。

「波多 親」と「秀の前」

「秀の前」は、肥前国岸岳城城主・波多 親(はた ちかし)の妻である。
因みに、龍造寺隆信の養女。安子という。

波多親は肥前名護屋の支配者、実は有馬からの養子、有馬義貞の三男・・・・
て、ことは千々石ミゲルの従兄弟である。

この波多親、少年使節が関白秀吉との謁見の前の室津滞在中にわざわざ訪れ、
使節たちの話を聞いた。当然千々石ミゲルとも親しく話をしたことであろう。

で、「秀の前」であるが、
波多親には妻が居たのだが、龍造寺隆信の養女を妻として迎えて従属する事となる。
(夫婦仲はすごくよかったらしい。)
因みに天正12年の「沖田畷の戦い」では兵を出していない。
有馬の実家は攻められんだろー

再び、「秀の前」
九州に聞こえた美女であった・・・

豊臣秀吉とであった時、すでに40歳を過ぎていたというが・・・・


>波多氏はカミサンが秀吉になびかんかったんで、改易になったんだよね。
>つーか、すんなりと名護屋の地を明け渡さなかったのが本音とも言われている。

土井丸(でーまる)殿の指摘のとおりであるが、
秀吉の前で懐刀を落としてしまうというエピソード
細川ガラシャと「秀の前」の違いはいったい・・・
まあ、秀吉は元々、波多親が気に入らなかったから・・・であったとか!?

波多親は、秀吉から城・領土は没収され、島流しとなった。
その後、「秀の前」は実家に帰った。
後に、波多親が死んだことを聞き、仏門に入ったと云う。

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