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肥前・千々石一族コミュの千々石ミゲル

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       千々石清左衛門賛歌
                   作詞 田中登
                   作曲 寺崎良平
一、時は戦国 四百の昔
  少年千々石清左衛門は
  遣欧使節と選ばれにけり

ニ、年は十三 美わし男の子
  まだ見ぬ夢に胸ふくらめど
  ひとりの母の袂もぬれし

三、天正十年 きさらぎの空
  出船のドラは氷雨にぬれて
  長崎港を 旅立ちしとか

四、黒潮すさぶ 東支那海
  灼熱の海 印度洋上
  行けど果てなき希望の岬

五、三とせの旅路 ローマに着けば
  国をあげてのチパンの賓客
  やまと男の子のかんばせ高く

六、ああ八年の なが星霜に
  今や廿歳の 若人ざかり
  故国に錦かざりけるとか

七、今も千々石の釜蓋城
  松の緑はいや深うして
  城主のいさお永久に語らう
    城主のいさお永久に語らう




ミゲルは、天正遣欧少年使節の有馬・大村の正使である。


「信仰を全うして殉教した人たちよりも、
   千々石ミゲルの方が苦しみ悩み抜いたのではないでしょうか」

美智子妃殿下は、・・・・・ 
          という意味の御感想をおもらしになった。

       昭和48年10月2日、東宮御所にて、
                          松田毅一著 『南蛮遍路』 より

コメント(45)

■>ゆんちゃん 殿

病死したのは伊東マンショだよ。
長崎のコレジヨでメスキータ、原マルチノの傍らで昇天。43歳。

原マルチノはマカオへ、再び日本に帰ることはなかった。
■>ゆんちゃん 殿

ごめんなさい。
今から友人の所へ出かけるので、後で回答するね。
■>ゆんちゃん 殿

お待たせしました。(笑)
まあ、話せば長くなるので完結に、

伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンの三人は、1608年(慶長13年)9月下旬、長崎で司祭になります。
伊東マンショは、後に小倉の教会に任命され、筑前、豊前、豊後が活動の中心となります。まあ、福岡県と大分県を中心に山口県、宮崎県で活躍するわけです。
そして長崎で病死します。

幕府の命令で宣教師は全て日本追放となり、1614年11月8日、9日、長崎港を出帆します。原マルチノはその船に乗ります。
日本管区長は日本を去り、その秘書マルチノもマカオへ。

この時、この船に乗らず日本に潜伏した宣教師が47人おり、
この中に中浦ジュリアンやフェレイラがいるわけです。
ミゲルの栄光の日々

有馬で、華々しい帰国報告祭が行われ、教会で教皇からの手紙と献上品を有馬殿へ献上した。もちろん、ここでの主役は千々石ミゲルである。教会での式典が終わると、日野江城で宴会にあずかった。皆はヴァリニャーノと千々石ミゲルに、有馬殿に贈られた名誉のために感謝の念を表した。祭りは8日間続いた。
その後、大村でも同じような式典が行われた。

マンショを派遣した豊後の大友家は、宗麟はすでに死亡、相続した義統がすでに棄教していたために帰国報告祭は行われていない。


「天正遣欧使節」の東西交流の大事業はミゲルによって完結した。
・・・と、思う。
■>ゆんちゃん 殿
>ミゲルは帰国してすぐ棄教したんですか?

帰国報告祭が終わると、彼らはイエズス会に入会。天草へ移る。
その後、マルチノは長崎へ移り、マンショとジュリアンはマカオへ留学する。
1604年夏、マカオからマンショとジュリアンが長崎に帰った時、マルチノが彼らを出迎えたが、ミゲルはすでにイエズス会をやめていたという。


・・・・実はここが以前からの疑問な点。
某所で質問したこともあるのですが、当時の宣教師らの記録や手紙は数多い。
多くの詳細な記録が残っているのに超有名人のミゲルがイエズス会をやめた日(時期すら)わからない。なぜ?

ホントに無いのか?(船が沈没したとか?)
隠蔽していないのか?(公表できないとか?)
という疑問があったのですが。(笑)
思い出したが、
確か今週、伊東マンショの故郷・宮崎県の西都市からミゲルの故郷・雲仙市千々石町へ訪問者(訪問団?)が来るらしい。

・・・ひょっとしたら、先週すでに来てるかも?
聞いたのが先々週だったしなw。

言われた日が絶対に休み取れない日だったから、聞き流した・・・(汗)
私が5年前に作成した『釜蓋城物語』を読み直しているのだけど、
××は××なのか?と聞かれ、
「いや、私は○○だと思っているのだけど、
千々石町の公式見解は××ですからそう書いています。」
なんたら、かんたら・・・・(笑)

・・・・週末に会うので聞いておこう。

あーあー、そういえば、天正遣欧使節の正使つながりで、姉妹都市になろうかという話もったなwww昔。
小三郎さん>いろいろ考えられますよね。
わざわざローマーまで連れて行ってあげた子が棄教してしまった、なんてイエズス会にとっては不名誉なことですし、実はミゲルは棄教なんてしたくなかったのに、でっちあげられた、とか?どれにしたって、つらい思いをしたに違いないですよね・・・。夾竹桃のミゲルは切なかったっ!(T-T)


姉妹都市ですか!
じゃ、ついでに都於郡城も綺麗にしてほしいなぁv
平成19年5月19日(土)
第5回千々石ミゲル研究会、開催。
テーマ 「大村藩の長崎替地問題」
   ・外国文献:宣教師等の書簡:報告書などより
   ・大村藩資料に見る替地問題

ミゲルはイエズス会をやめた後もキリスト教をやめたわけではなかった。
大村でキリシタンとしてふるまっていたのである。
1606頃に大村喜前棄教し、ミゲルもこれに従った。

今まであまり深く指摘されなかったのが、
なぜ大村喜前は棄教したのか、という点。

大村純忠の息子・喜前の棄教その原因は?
■>じろー 殿
>夾竹桃のミゲルは切なかったっ!(T-T)

『夾竹桃』が出版された時、
先を越されたと言って、悔しがっていた人がいましたが、
その方は、結局、ミゲルの本は出さなかった。わーい(嬉しい顔)

『夾竹桃』は、長崎・佐賀のローカルな本だと思っていました。
伊木力墓碑が発見され、『夾竹桃』の世界が・・・・


>都於郡城

実は、まだ行ったことが無い。涙
+小三郎さん+

>平成19年5月19日(土)
あぁ…土曜なんですね…泣き顔残念です…あぁーー泣き顔
次こそぉおお!

>大村純忠の息子・喜前の棄教その原因は?
そうですよね。喜前だけに注目して調べたことがないので興味深いです。「王の挽歌」は読んだんですが、喜前は結構厳しい書かれ方してました。あまり信心深い方じゃなかったんでしょうか?


>『夾竹桃』は、長崎・佐賀のローカルな本だと思っていました。
コミュで知ったのでアマゾンで取り寄せたんですよわーい(嬉しい顔)インターネット様様です。

■>じろー 殿
>次こそぉおお!

次の第6回は、19年7月21日(土)でござる。
この日はやばそうな気が・・・

>あまり信心深い方じゃなかったんでしょうか?

個人的ですが、
信心の浅い深いで考えれば、そこから先は不要になりますよ。
だって、お前が悪い、で、結論が完結してしまいますから。(笑)
歴史の英雄と極悪人は紙一重です。
中には非の打ち所が無い人もいますが、たいがい光も影もあります。
真実は誰にもわからない。だから色々な推測が楽しいわーい(嬉しい顔)
「大村藩の長崎替地問題」に関して

1607年2月の
イエズス会のマルティン・デ・カンポス神父の証言。
自分の司祭職にかけて真実を話すことを誓う。イエズス会の会員で、年齢38歳。・・・・・

??????????

えええええええーーーーーーーー?
なぜ?
この証言は、いったい!?
幾つかのコミュに、
第5回千々石ミゲル研究会、開催を貼り付けてみたが、
反応ないな〜

「マルティン・デ・カンポス神父の証言」は、
「原マルチノの証言」と書くべきだったかな?
ローカルニュースですが、

天草の河浦町のコレジヨ館で
「コレジヨの仲間たち」なる音楽団が結成されたのだとか?
天正遣欧使節の四人も紹介されました。

復活した16世紀の音色・・・・



そういえば、ここは
何年か前に職場の旅行があったとき、コース上にあったので、
ここで止めてくれ、と、無理やり見学したのだった。
当時は無料だったが、確か有料になるとの説明版があったが?
悲しいとき〜
   ↓  これを見たとき〜
http://www.omuranavi.jp/02history/history01-02.html
↑ 今見ればOK、修正したもよう。


5月29日12時過ぎ、
大村市役所の観光課へ電話を入れる。

「大村市は天正少年使節の街をうたってますよね。」
「はい、そうですね。」
「HPの4少年の説明が・・・・・」

ふー、大村市の観光課が、天正少年使節にまるで無知・・・泣き顔
 少年使節やキリシタンを観光の目玉に!
 大村市は天正少年使節の街!
なんなんだ!これは!涙

大村の知人に電話、知人曰く、
「いや〜、そんなもんなんですよ!」

私も大村市のHPでなかったらスルーだったのだけどね。
↑  ・・・結果的に良かったかも?

大村市は今年、市制65周年。記念の年を「歴史観光元年」と位置付け、大村純忠や四少年など大村にゆかりのある歴史観光資源を長崎県内外に広く発信し、大村市の活性化につなげるとのこと。
で、
「大村市市制65周年記念 天正少年夢まつり 事業推進本部」
を立ち上げる。

これは、天正遣欧少年使節がメインのお祭り、ですよ。わーい(嬉しい顔)
ローカルな情報です。 しかも、未確認。あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)

6月6日(水)16:00〜16:55
テレビ長崎(KTN)の番組 「できたてGopan]

名前は知っているが、・・・・・見たこと無い。
だって、平日なんだもの。

この日の特集で「千々石ミゲル」を採り上げるらしい。
え? 全て!?
「少年使節」ではなく「ミゲル」にスポットexclamation & question

聞けば、ミゲルの墓石発見の大石先生も生出演するとか?
え? なま? 生? 生?
生放送の番組なのかい?

先ほどコンビニで、ローカルのTVガイドを確認したが、内容まで載っていない。

・・・・・見れば、わかる!

大石先生といえば、マカオへ行った時の番組が放映されるとは聞いていたが、
これのことかな?
でも、私の記憶ではマカオは7月の放映と聞いたような気も・・・

・・・・・見れば、わかる!
6月6日(水)16:00〜16:55
テレビ長崎(KTN)の番組 「できたてGopan]
タイトルは「千々石ミゲルの謎」

・・・・・以前は「天正遣欧使節」として取り上げられることが多かったが、墓石発見以来、長崎のローカルは「千々石ミゲル」についての特集が増えたような気が・・・

「千々石ミゲルの謎」
録画のことを日記にカキコしたのに・・・・誰も何も言ってこない。
しょうがない、連絡をくれた某さんにコピーを貰おう。
「第6回  千々石ミゲル研究会」開催!

19年7月21日(土)

本日は第6回千々石ミゲル研究会。

場所: 長崎県雲仙市千々石町 千々石公民館。
時間: 14:00〜17:00頃

500円徴収あり。
長崎県諫早市のHP
「ぶらり諫早」(其の二)
天正遣欧少年使節・千々石ミゲルの墓と思われる石碑
http://www.city.isahaya.nagasaki.jp/topics/burari/no002/burari.htm

そうなのだ、町村合併で現在は、諫早市多良見町。
 ↑  諫早市のHP のこの部分。

>ミゲルはイエズス会脱会後、名を清左衛門(せいざえもん)と称した。
1606年、従兄弟で大村藩藩主・大村喜前にならい、キリシタン信仰そのものを棄て、当初は喜前の臣下となって伊木力に600石の食録をもらった。
清左衛門は喜前にキリスト教は邪教と進言し、それから喜前はキリシタン禁制を出した。当時多数いたキリシタン側からは強い非難の声があがり「大敵は喜前、その根源は清左衛門である」とされ、裏切り者としての烙印を押された。
喜前はキリシタン禁制発布後の藩内の動揺を鎮めるため、非難の矛先を清左衛門ただ1人に押し付け、見せしめ的に処罰した。
その後の清左衛門は藩政・キリシタンの両方の勢力から追われるように大村を逃げ出し、島原半島の有馬晴信のもとに身を寄せた。だが、ここでも家臣に瀕死の重傷を負わされるなど厳しい仕打ちをうけたため、長崎に移り住んでいた。

バッド(下向き矢印)・・・・ここの部分。
>当時多数いたキリシタン側からは強い非難の声があがり「大敵は喜前、その根源は清左衛門である」

幕府の禁教令よりも早く、大村領ではキリシタン禁止が行われている。
キリシタン側では、「大敵は喜前」と言って、強い批難をしているが、

なぜ、大村喜前はキリスト教禁止を決断したのか?
イエズス会側は、その点について、ほとんど言及しない。
・・・・・なぜ!???

実は、問題の原因はイエズス会側にあり、喜前の怒りに対するその後の対応のまずさが大きな原因なのだ。この時点では、喜前の怒りは大きかったものの、イエズス会への喜前の控えめな要求の対処をきちんとしていれば、大村領からのバテレン追放令は出なかった可能性は大きいのだ。(当時のイエズス会の書簡でも指摘されている。)
>大村領からのバテレン追放令は出なかった可能性は大きいのだ。

補足
将来的には不明だが、すくなくともこの時点での、
>大村領からのバテレン追放令は出なかった可能性は大きいのだ。
―天正遣欧少年使節、ローマ法王グレゴリオ十三世に謁見!―

むかっ(怒り)「イエズス会の私情よりも、教会の公の名誉が先んじる」

枢機卿会議は、教皇のその見解を承認した。
ここに千々石ミゲルらは、神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝やフランス国王といったキリスト教の君主、またその名代の使節と同様に、ヴァティカン宮殿内の「帝王の間」において、公式の枢機卿会によって教皇に謁見を賜ることが決定したのである。


>神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝やフランス国王といったキリスト教の君主、またその名代の使節と同様・・・

これが、どれほど凄いことなのかということ!?

おおー、千々石ミゲルよーーー
釜蓋城主の子よ。




むかっ(怒り)枢機卿とは?
カトリック教会で、ローマ教皇に次ぐ高位聖職者。定員70名で枢機卿会議を構成し、教皇顧問としてその補佐に当たり、教皇選挙権をもつ。カーディナル。
射手座2月28日、明日はテレビを見よう!!!!!!!!!

「おもいッきりイイ!!テレビ」
http://www.ntv.co.jp/omoii-tv/

「きょうは何の日」←← 富士山富士山富士山富士山
バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)

千々石ミゲルのものと思われる墓石が発見された日!!!じゃい!!!

時間は、昼の12時40分〜13時20分頃かな?
(生だから、よくわからんぞーい!!)
必ず、見よう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
(だれか、録画して、私にください!!!!!!!!!!!



長崎県多良見町。今年(2004年)2月、この町のミカン畑で、
千々石ミゲルのものと見られる墓が発見されました。

厳しい弾圧のなかでキリスト教を棄てたミゲルの晩年については、
これまで、なにもあきらかになっていませんでした。

墓石には、どこにもミゲルの名は刻まれていません。
唯一の手がかりになったのは、
墓を建てたミゲルの息子、千々石玄蕃の名でした。

山里に、人目を忍ぶように建てられたこの墓は、
弾圧の果てに信仰を棄てたミゲルの
苦難に満ちた晩年の日々を忍ばせます。

キリシタン弾圧のなか、
天正遣欧使節の国内の遺物は、全て失われていきました。
日本の運命を背負って、
ヨーロッパの最高権力者にどうどうと謁見した少年たち。

発見された千々石ミゲルの墓は、
彼らの存在を今に伝える、唯一の証です。


NHK「その時歴史が動いた」(2004)より引用
          日本の運命を背負った少年たち
    ―天正遣欧使節・ローマ教皇謁見の時―
「大村家と朝長・浅田家そしてミゲルとの縁」
日時:3月8日(土)14:00〜
場所:長崎県大村市 福祉センター
講師:浅田昌彦氏
(千々石家とゆかりの深い浅田家の現当主)

千々石ミゲルの墓石発見をきっかけとして、十数年ぶりに開けた我が家の家系箱。
その中には、朝長・浅田家の四百数十年の歴史が凝縮されていました。
今回はその一部から大村家代々の惣役・家老を務めた朝長・浅田家を見ていきます。」
(浅田氏のコメント)

ご存知かと思いますが、発見された千々石ミゲルの墓の土地は浅田家所有です。
自宅にはなぜか、千々石家の家系図の写しもあったそうです。(新発見ではないけど)
雲仙市 市民講座「UNZEN」

千々石ミゲル講演会
      「天正遣欧使節とその時代」
           〜千々石ミゲルの棄教の謎にせまる〜

日時:3月22日(土) 午後7時30分〜
場所:雲仙市千々石町公民館
講師:
  大石 一久 先生(長崎県文化振興課課長補佐)
  森脇あけみ 先生(天正遣欧使節研究家)

 天正10年(1582年)日本人として初めてヨーロッパを公式訪問した「天正遣欧使節」に、12歳で派遣された千々石ミゲル。
 しかし、その後キリスト教を棄て、名前も「清左衛門」と名乗るなど歴史の舞台で翻弄され、その生涯には謎が多いとされています。
 今回、千々石ミゲルが棄教した背景に何があったのか、さまざまな角度からその謎に迫ります。
http://www.city.unzen.nagasaki.jp/info/prev.asp?fol_id=6584

私の尊敬する講師お二人。わーい(嬉しい顔)
因みに、
この日の午後は、「千々石ミゲル研究会」開催!なのです。ウッシッシ
「千々石ミカエルの書簡」(ミゲル)
1590年9月26日付 有馬発 ローマ教皇宛(原文ラテン語)

 私どもが長途の航海中に経験致しましたことと、デウスの御助けをもっていかに大きなもろもろの危険に打ち克ってまいりましたかは、東インド及びシナの港から聖下のお手元にお送り申し上げました書簡で、既に充分にお伝え申し上げました。 
 有馬の領主である我が殿プロタージョ、父バルトロメウについて大村領にまいっております私の親戚サンチョ、また名士の人びとが、どれほど大きな喜びをもって私どもに会うために近隣からまいりましたかを、1590年にゼズスのコンパニアの巡察師のパアデレ並びにほかに17人の同じコンパニアの方がたといっしょにデウスの御慈悲によって恙なく帰ってまいりました日本から、ただ今及ばぬ筆に託してお知らせ申し上げます。・・・・・・・
(長いから略、そのうちに!)」

>我が殿、有馬晴信。
>親戚の大村喜前。
長崎県が重点支援地区など了承。
長崎県観光協議会が、県内8市の計画を協議。
「各市と最終的な計画を決めて早期に認定し、活発に支援したい。」

富士山雲仙市、
・雲仙温泉で外国人避暑地時代をほうふつさせる町並み景観を整備する。
・小浜温泉地区に「日本一の足湯」をつくる。
富士山島原市、
・「歴史文化博物館(仮称)」の建設、キリシタン巡礼の旅などを企画。
富士山南島原市、
・???(新聞に載ってない)

因みに、
富士山大村市、
キリシタン大名「大村純忠」と「天正遣欧少年使節」のドラマ化に取り組む。


大村市のドラマ化計画。
市単独では予算がきつくないかな?
しかし、そもそも「天正遣欧少年使節」は、有馬晴信のお膝元の南島原市、正使千々石ミゲルの出身地である雲仙市がもっと積極的にしなければならないテーマなのだが、雲仙市・南島原市は全然興味無いみたいだし・・・・・

三大名というが、ローマは、豊後王、有馬王に対し、大村候なのだ・・・・
ローマからの贈物にもあきらかな差がある。
帰国した千々石ミゲルは、ローマへの手紙に
「我が殿有馬・・・・・親戚の大村・・・・」と表記しているし・・・
大村史談会の『大村史談 第59号』(平成20年)

まもなく発刊されます。わーい(嬉しい顔)
今回は、
「天正遣欧使節特集」となるそうです。(まだ見ていません)あせあせ(飛び散る汗)

この『大村史談』、最近はミゲルやジュリアンに関する投稿が多く、
個人的には、嬉しいです。わーい(嬉しい顔)

思えば、『大村史談 第45号』(平成6年)に、
宮崎栄一さんが、先祖の富永家を調べていたら、千々石玄蕃にたどりつき、
自らが千々石ミゲルの傍系の子孫であると宣言された時から
急速に「千々石ミゲル」の謎が解明され始めたような?

大村史談会の『大村史談 第59号』(平成20年)の定価は2000円。
大村市と長崎市の周辺の本屋さんで発売される。(はず!)

そういえば、宮崎氏も投稿されたと聞いているが?(たぶん)
『大村史談 五十九号』

表紙「伊東マンショ」の肖像画
一、原マルチノ
二、天正遣欧使節の史料学
三、天正遣欧使節が描かれたペニャロンガ修道院のアズレージョ
四、中浦ジュリアン神父の列福と天正遣欧使節ゆかりのラテン語の古書
五、千々石清左衛門(ミゲル)と有馬氏
六、朝長・浅田家と千々石ミゲル
七、ローマから里帰りした「伊東マンショ」「メスキータ神父」の肖像画と
     パネルにされた大村純忠の長崎・茂木寄進状について
八、浦上一番崩れにおける大村藩と長崎奉行
九、長崎キリスト教史についての一考察
十、全国キリシタン墓碑の様相とその初源
十一、三城城下出土の花十字紋瓦

以下略


五の宮崎栄一氏と、六の浅田昌彦氏は千々石ミゲルの子孫にあたる人。
ミゲルの子孫であることを誇りとしている方々だ! わーい(嬉しい顔)
千々石町の釜蓋城(千々石城)にミゲルの説明板を設置する計画がある。(未定)


個人的私案です。
意見をカキコしていただければ幸いです。m(_ _)m


 千々石ミゲルは、千々石町の出身で永禄十二(1569)年頃に生まれた。天正年間(1582〜90)にローマに派遣された天正遣欧使節四人のひとりで、使節を派遣した有馬家、大村家の正使である。性格は優しく温和であったと云う。
 当時のローマ市市議会記録には「顕栄にして高貴なるドン・ミゲル、エモノスケ・ナオカズ、千々石王の孫、有馬王ドン・プロタジヨ(有馬晴信)の父方の従兄弟にして、大村候ドン・バルトロメオ(大村純忠)の甥、有馬王と大村候との双方に属す千々石にて出生・・」と明記されており、日本初の公式使節団としてヨーロッパへ赴き、帰って来た最初の日本人である。
 帰国後、イエズス会に入会するが、後に同会を脱会。その後、大村藩に仕え、神浦・伊木力に六百石の食禄を受けている。その間に名を清左衛門と改めて妻を娶り、四人の子息に恵まれた。そして、キリスト教を棄てて日蓮宗に改宗したとされる。その後、理由は定かでないが、清左衛門は藩主大村喜前の愛顧を失い厳しい弾劾を受け、大村から有馬領(島原半島)に移り、その後長崎に逃れたと云われているが、詳しいことはわからない。
 平成16年2月、諫早市多良見町(大村領伊木力)で、千々石ミゲル(清左衛門)夫妻のものとみられる墓石が発見される。施主は墓石の裏面に名を刻む四男の千々石玄蕃と考えられる。
 千々石ミゲルの波乱の人生を物語るこの墓石は、天正遣欧使節を今に伝える国内で唯一の証でもある。


1569年 永禄12年頃 千々石ミゲル、千々石で生まれる。
1578年 天正5年12月 佐賀の龍造寺隆信が千々石を攻め、釜蓋城落城。
          ミゲル、母、乳母と共に大村へ逃れる。
1580年 天正8年  有馬セミナリヨに入学する。

1582年2月20日(天正10年1月28日) 天正遣欧少年使節、長崎港を出港。
1584年8月10日 (天正12年7月5日)ポルトガルの首都リスボンに到着。
1584年11月25日(天正12年10月23日) スペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける。
1585年3月1日(天正13年1月30日) ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
1585年5月1日(天正13年4月2日) 新教皇シクストゥス5世の戴冠式に出席。
1585年6月3日(天正13年5月6日) ローマを出発。以後、諸都市を訪問。
1586年4月13日(天正14年2月25日) リスボンを出発。帰路につく。
1587年7月24日(天正15年6月19日)豊臣秀吉によるバテレン追放令発布。
1590年7月21日(天正18年6月20日) 使節団帰国。長崎に帰港する。
1591年3月3日(天正19年1月8日) 聚楽第において関白豊臣秀吉に謁見する。
1591年5月(天正19年3月)ミゲルを主役とした使節の帰国報告祭が有馬と大村で行われる。
1591年7月25日、(天正19年6月5日) イエズス会に入会。
1601年頃(慶長5年) イエズス会を退会して、大村に使える。
1606年(慶長10年) 日蓮宗に改宗、千々石清左衛門と名乗る。
1633年1月23日(寛永9年12月14日) 大村領伊木力で没する。
めざせコンパクトタウンちぢわ委員会、企画・編集の

「千々石散策マップ」が完成! わーい(嬉しい顔)

昨年の春から取り組み、
ほんとは、昨年の棚田サミットの前に完成予定だったのだけど・・・たらーっ(汗)


これ、
「めざせコンパクトタウンちぢわ委員会」の「湧水部会」が企画したものだったので、「歴史部会」の小三郎や鹿太郎殿は当初は「湧水部会」のお手伝いをしているつもりだったのだけど、

「当初から一緒にやろうっいう企画だよ!」

え!?そうだったの?

確かに「歴史部会」単独で地図造りの話は出ていたのだけど、
こちらの話が出る前に決まっていたような気がするが・・・・・



一応、
千々石ミゲルの記事の内容の原案は私が書いたのだけど、

・・・・・今みていると


けっこう修正されているぞ〜あせあせ
5月1日(土)〜2日(日)熊本県人吉市へ行く。

熊本の人吉にはキリシタン遺物が多いと聞く。

ここには、「千々石ミゲルの供養碑」なるものがある。
(多良見の伊木力墓碑が発見されるまでは、有力な説だったのだがあせあせ(飛び散る汗))
しかし、完全に否定されているわけではないよ。

人吉には千々岩という旧家があり、
ここの一番古い墓地内に下積みになっていたものが現在、
人吉のカトリック教会の庭に移されているのである。

千々岩家には、「先祖は有名な宣教師を伴って人吉に来たもの」
という言い伝えがあるそうである。

今回、人吉に行ったとき、ここに案内してもらうことになっている。

この千々岩家、聞くところによれば、
火災に遭い家系図、その他の記録は無いとのこと。
檀家であった永国寺の過去帳も西南の役で焼失したとのこと。

永国寺!?・・・以前に行った、ゆうれい寺ではないかい!!げっそり



この千々岩家と同じ家系かどうかは知らないが、今回、
人吉の「千々岩家」の年配の方の話も聞けそうだ。
その人曰く、
むかっ(怒り)「うちは千々石ミゲルの子孫だと、子供のころから聞いていました。
家系図や資料も昔はあったのだけど、とある事情で処分してしまった。」

・・・・・・あせあせ(飛び散る汗)
限も知らぬわだつみの懐に入り
波風のすさび逆巻くうち凌ぎ、
金を溶かす赤道をふたたび踰えて、
はるばると、ロオマの国のヰカリオの
ゆるしに詣でしけなげなる四人のわかうど、
はしけやし、伊東、千々石、原、中浦。

以下略

                  詩作 昭和17年9月

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