憧れのイタリアコミュのカプアとローマ文明

ナポリの北二十六キロの所にあるサンタ・マリア・カプア・ヴェテーレは、南イタリアの雑然とした地方都市の一つである。

いつも車の渋滞がひどい目抜き通りや、さみしげな商店街に、外国人観光客の姿はほとんどない。

今日の俗化された街並みだけを見たら、カプアが紀元前六００年頃までさかのぼる歴史を持ち、古代ローマ帝国で重要な位置を占めていた都市だったとは、全く想像もできない。

エトルリア人の重要な拠点の一つだったこの町は、紀元前四世紀にローマ帝国の支配下に入り、自治都市の一つとしてアッピア街道によってローマと結ばれた。

カプア市民はローマに支配されて、政治的な独立を失ったものの、経済的な面では急速に繁栄する。

この町は芳香を伴う軟膏や香油の産地として知られたほか、ヴォルトルノという川に面していたため、交易の拠点として栄え、ローマに次ぐ帝国第二の都市に成長したのである。

しかし、人はパンさえ与えられれば、自由に対する渇望を失うというわけではない。

カプアは紀元前二一六年にローマの支配者に対し反乱を起こすなどしたため、植民地化されてより厳しい支配体制の下に置かれる。

さらに大きな脅威をローマ人に与えたのが、カプアの剣闘士たちが起こした、いわゆるスパルタクスの乱である。

ローマの奴隷として剣闘士にされたスパルタクスは、紀元前七三年に、カプアにあった剣闘士訓練所で、他の奴隷とともに蜂起する。

五年間にわたりローマの軍団と死闘を繰り広げ、帝国に大きな動揺を与えたのである。

反乱軍は結局ローマ軍に圧倒され、スパルタクスは他の奴隷たちとともに磔刑に処せられて、その骸はアッピア街道沿いにさらし者にされたが、この反乱が、ローマ帝国に支配された民族の激しい憎悪を、最も端的に象徴する事件となったことは間違いない。

そのスパルタクスも闘ったと言われる円形闘技場の跡が、サンタ・マリア・カプア・ヴェテーレに残っている。

四万五千人を収容できたこの闘技場は、ローマのコロッセウムに次ぐ規模を持っており、カプアが帝国第二の都市だったことを伺わせる。

カプアの闘技場は、ローマよりも激しく破壊されているが、地下通路などは保存状態が良い。闘技場の一番外側の壁は大理石で作られており、破壊を免れた女性や子どもの彫刻が残っている。

遺跡を散策しながら、かつてローマ帝国の有閑階級に属する老若男女が目にしたであろう、こうした彫刻を眺めるのは、楽しい。

これらの彫刻は元々置かれていた環境から切り離されていないため、見る者に対して語ってくるメッセージが、美術館のガラスケースの中に置かれている時よりも、圧倒的に強いのである。

何よりも有難かったのは、観光客の数がローマと比べ物にならないほど少ないので、人波や車の騒音に煩わされずに、遺跡の中を歩き回り、静寂の中で古代ローマの世界に思いを馳せられることだ。

私が訪れた時には、広大な遺跡に家族連れが二・三組いるだけだった。

闘技場の中心に作られた深い溝は、地下から剣闘士や猛獣をせり上がらせるための仕掛けの跡だろうか。

今は夏草に覆われ、静かな眠りについている闘技場だが、その土は何人もの奴隷やキリスト教徒たちの鮮血を吸っているに違いない。

ローマ人の娯楽のために、この闘技場で闘わされた人々の絶望感が、しんとした静けさの中から伝わってくるかのようだ。

カプアは西暦八四０年に回教徒の攻撃を受けて徹底的に破壊・略奪され、歴史の表舞台から姿を消す。

ちなみにサンタ・マリア・カプア・ヴェテーレの北東五キロの所にあるカプアという町は、古代ローマのカプアが荒廃したために、住民が移動して作った新しい都市であり、ローマ帝国の名残はほとんど見られない。

第二次世界大戦で激しく破壊されたこともあって、新しい建物が多く、まともなレストランはおろか喫茶店もない悲しげな町である。

町外れでは、東欧からの売春婦たちが、昼間から国道に立って客を引いている。

町の中心部でも、地元の人が「盗難の恐れがあるので、昼間でも車を長く停めておかない方が良いですよ」と言うほど治安が悪い。

考古学者は、現代のことにはほとんど関心がないと思うが、ジャーナリストである私は、イタリアに限らず南ヨーロッパに来ると、カプアのような町が古代史に占めている地位と、現代における世俗的で殺伐とした状態の間にある、巨大なギャップを目の当たりにして、暗然たる思いにかられることがある。

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熊谷　徹