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花田清輝コミュの運動族の生態

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古典と現代、未来社、230頁



野呂重雄はつぎのようにかいています。
「花田清輝と廊下ですれちがった時、先日、未来社からでている著作集全7巻を買ったときの総金額を思い出した。6300円とられたのである。この人がモウロクして執筆できなくなるまで、せっせと本を買っていく私の出費をおもうと、いまいましくてならない。会場で偶然となりあわせにすわったが、花田は、彼および彼の家族の生計費を支えている者の一人が傍らにいるというのに挨拶もせず、終始沈黙を守っている無礼さであった。」と。これが運動族の生態であります。そこでは人間関係が、イムパーソナルであって、パーソナルではないのです。仕事を通して、お互いに連帯の意識はあるにしても、ほとんど個人的なつきあいはありません。

コメント(18)

花田清輝の「キモ」の引用ですね。特に「終末観」の方は、何度読んだかしれません。

こういう場合、魂の兄弟というのでしょうか。
 もう一度復活して、異教徒を絶滅し、世界を至福の状態にするであろう救世主再来の信仰に鼓舞され、この世の終焉の一日も早からんを祈った初期キリスト教徒のように、すべてが終わったと思いこまなければ、なんにもできない人間がいる。自分の手で、おそらく屈強のバリケードになったかも知れない市街を焼きはらい、唯一の退路である橋梁を破壊し、炎々ともえあがる焔につつまれた寺院の円屋根や、泡だつ激流に斜めに突き刺さった鉄骨の残骸を眺め、はじめて敢然と立ちあがる人間がいる。普通だったら、追いつめられて、そうするのだ。

「終末観」冒頭、引用訂正。

しかし、当時は、一揆というのがひじょうに盛んで、打壊しやなにかが頻発した。その中で一番有名なのは山城で、農民の名においてそこから侍を全部追い出して、自分たちで一つの協議会をつくる。共和制みたいなものを成立させる。そういう動きがだいたいうまくいく。山城の一揆は日本の議会制の始まりだといわれている。そのあり方の研究も、僕は相当に重大なんじゃないかと思う。


「花田清輝談話記録」新日本文学 328号、1974.
 
 憎悪は、愛情から生まれる。そうして、その反対ではない。愛情は根本的なものであり、積極的なものであるが、憎悪は二義的なものであり、消極的なものだ。すくなくとも笑においては、そういうことができるのではなかろうか。いささかもアンビヴァレンスの痕跡をとどめない、憎悪の影すらみとめがたい、愛情にみちた笑というものはあるが、逆の場合は成立しない。嘲笑のなかに含まれている憎悪は、つねにそれと対立する愛情によって、和らげられ、制限をうけ、軽減されており、もしも愛情が消え失せ、純粋の憎悪のみになってしまうならば、その嘲笑も消え失せる。

「笑う男」より
 

 あらためてくりかえすまでもなく、わたしは、インチキというものを、現在の偶然を踏み台にして、過去の必然と未来の可能とを、弁証法的に統一したものだと考えているのである。わたしは冗談をいっているのではない。わたしのみるところでは、リアリティとは、インチキ以外のなにものでもないのだ。インチキをフィクションといいなおしてみるがいい。そうすれば、武田泰淳は、ちょっと観念哲学みたいだな、などといって軽く一蹴したけれども、わたしの定義が、まんざらでもないことが、ただちに判明しよう。


「落書精神」より


・・・のみならず、わたしは、農民たちが、支配階級の命ずるままに、手持ちの米を、ことごとく提供するほど、素直だったとは、いささかも信じない。新田の開発は、非常な勢いで行われていた。とすると・・もしかすると、つぎつぎに一揆がおこったのは、多少、逆説的にひびくかもしれないが、あるいは農村に米がなくなったためではなく、かえって、ありあまったためかもしれないのだ。
 かってわたしは、乱世を定義して、生産力だけが発展して、生産関係が、旧態依然たる時代であって、そんな時代は、社会的にみれば、かなり、安定しているとはいえ、政治的にみれば、ひどく不安定であるといった。

「琵琶湖の鮒」より

 いかにもすべてが、あまりにも専門化されすぎている。綜合は、一見、ほとんど不可能であるかにみえる。とはいえ、それ故にこそ、綜合もまた、専門化されなければならないのだ。綜合そのものに没頭する人間が必要なのだ。かれは、素朴人でも、純粋人でもあるまい。魂でもなければ、肉体でもあるまい。

「素朴と純粋ーカルヴィンー」より
 (この綜合の考え方については戦後、花田の周辺からも異議が出ている。ここではそれらを看過しておく。特に「綜合の専門化」への批判)
同時代に対する評価というものは難しい。
田中英光は当時「破滅派」の最先端であり、雑誌のスペース狩りであり、スペース埋め係でもあった。はた迷惑な存在であり、つまはじき状態でもあった。しかし、旺盛に書いていた。
花田はその田中を次のように評価しており、これは他に例を見ない積極的な評価には違いない。少なくとも、「破滅派」の同士扱いを恐れていない。
・・・

つまり、わたしは、一言にしていえば、「三国志」へ帰れ、と叫びたいのだ。その点、生き恥をさらしながら、田中英光の書きつづけている敗北の記録は、まさしく現代の「三国志」にほかならず、急テンポでぐんぐんおしすすめられる、張飛の肉体と張均の魂とをもつ「わたし」の行動の描写は、波瀾万丈の戦後の現実のすがたを、生き生きとわれわれの眼前にくりひろげてゆく。おそろしいエネルギーである。


空論・虚談(1949年)より
 

 小人というと、日本では一般に俗物の異名だとおもわれているようだが、これは西洋でいう「自由人」のことであり、魯迅などその典型だといえるだろう。
 わたしは。石川淳が、道徳的理想家(アイデアリスト)や政治的理想家(ユートピアン)をコキ下ろしているのを痛快だとはおもうが、しかしその風刺が、小人の立場からではなく、聖人の立場よりも、もっと後退した「仙人」の立場からなされているのが不満なのである。仙人気どりなど時代おくれというほかはない。

コラム「小人と仙人」より
タグとして:小田実、市民主義、高踏派、戯作者、大衆、市民、、、
花田が日本を去って35年が過ぎた。1974年ごろ、いわゆる社会運動は学生から市民への、しかし、局地的な市民運動へと変質していった。それは運動の、ほぼ完全な文学運動からの独立ともいえた。
逆説的なことに、花田が残した談話録をまとめた「新日本文学」には、貧農ではなく、ある程度生産力を蓄えた農民の運動が期待されている。このような視点が中世や近世の農民一揆研究で評価されているとは言いがたいが、貧困が現在の中南米的な文化的枯渇を意味するならば、ここで言われる「生産力」はいわば文化運動的な派生領域をも伴っていただろう。
花田清輝が「ドン・キホーテ」の前衛的解釈者であることは知られているし、彼自身、それを気負うところがあった。彼の関心はセルバンテスと変わらない。その不思議な従者にして正直な良心の実行者サンチョ・パンサへの「愛」。

セルバンテスの「ドン・キホーテ緒言」の末尾を彼はたぶんイタリア語訳か何かで読んだのではないだろうか。

セルバンテスいわく:

「わしはそれほどにけだかく、それほどに立派な騎士(ドン・キホーテ)を諸君に紹介するこの労を大げさに言いたくない。しかし、諸君を、その従士たる評判のサンチョ・パンサと知り合いにならせる一事は、ぜひとも恩に着ていただきたいな。」〔永田寛定訳)

また、サンチョ・パンサの記述には「従士なる美質のすべて」todas las gracias escuderilesを投入したと、セルバンテスはその小説の緒言の末尾で念を押している。これに習った花田の創造的諸エッセイには、たぶんセルバンテスも会心の笑みを浮かべ続けているだろう。

「サンチョ・パンサの旗」参照。
・・・すると、きみは、林達夫の指摘しているソ連のマイナス面を、ことごとく肯定するわけだね。
・・・おれは、「カルメン」の歴史家じゃなくて、ドン・ホセだ。かの女に対して、歴史家とは、おのずからちがった見方をしているのは、当然のことだろう。しかし、だからといって、おれの眼に、かの女のアバタもエクボとうつっているとはかぎらんよ。あるいは、エクボまで、アバタとみえているかも知れん。


「ホセの告白」より
かなりパラダイムが変わってしまった現在だが、今誰が「とにかく、おれが、カルメンと生死を共にするように宿命づけられているのは、あるいは、おれたちが、野育ちで、下品で、無頼であるためかも知れん。」と言えた時代の、当の「カルメン」を持っているのだろうか。社会主義現実化の先行形態が姿をくらました現在、僕たちはひとり市民へと身を翻して、今は移民労働者への差別に揺らぐ市民社会に、挑みをかける「カルメン」になる羽目になるのであろうか。
人間の努力とは、すべて瓢箪でナマズを押さえようとするようなものであって、一生をふりかえってみると、まことに空の空なるものであったと悟るのは勝手であるがーーしかし、わたしは、反対に、みずからの愚を悟らずに、なりふり構わず、瓢箪でナマズを押さえるような行為にのめりこんでいった男を評価したいのである。むろん、かりにその男が・・・・・・・・・・


・・・・・・なにかそこには、個人主義の限界を突破しようとする、あたらしいうごきがみとめられるのではないだろうか。  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(「ナマズ考」より)

省略した部分は、もったいなくて教えられません。
わたしは、ふと、庭で派手な音をたてているよりも、外で練習したほうが、かえって安眠妨害にならないかもしれないとおもった。そして、いささか大胆不敵すぎるような気がしないこともなかったが、いきなり二輪車を道路にひっぱりだして、ひらりととびのってみた。とびのってみておどろいたが、これまでわたしが、とびのるや否や落っこちたのは、塀という障害物があったからであって、いまのように前途に無限の空間がひらけてさえいれば、わたしも、また無限に走りつづけることができるらしいのである。わたしは、しだいにスピードをだしはじめた。頬にあたる朝風がつめたい。わたしは、久し振りに生き甲斐のようなものを感じ、背中を丸めて、ますます、つよくペダルを踏みはじめた。まさに宙をとぶような気持ちである。−といったようなことをかけば、当然、人は、このあとに、わたしが、大怪我をしたといったようなーそれほどでなくとも、すくなくとも膝小僧をすりむいたといったような叙述がつづくものだとおもうにちがいない。しかし、事実は、小説よりも奇であって、三十分後には、わたしは、無事にわたしの初の遠乗りもおわり、「群像」の編集者と共に、築地にむかって出発したのである。

「車輪について」より引用。
1961年、花田清輝、日本共産党を除名。

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