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哲学・思想 読書ノートコミュのTheologia Deutsch

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著者不明の中世末期独逸神秘主義の文献『ドイツ神学』の雑駁な読みの試み.

コメント(35)

ルター 「序文」 1516年

 この書は,一見したところ,明晰な理性と聡明な理解力の所有者の信仰にあたかも裨益しに無いかの如く思われる. というのは,この書の言葉遣いは,一見不注意が含まれ,また卓越した説教者や神学者ではない平凡な説教師や教師のそれのように,見えるからである. しかし,実のところ,「ヨルダン川の川底からある一人の誠実なイスラエル人によって選び出された」即ち,思弁的もしくは神秘的神学の著作ではなく経験的神学の著作なのだ. 

 この書の著者は不明である. 但し,テーマの説き方はタウラーに類似している.

 さて「聖書の根本的な教えが必ず人をおろかなものにする,あるいはその教えが必ず愚かなものとなる,ということは真実である」のは,使徒パウロスの言のとおりである.

* ルターのこの部分にこめられた意図不詳.
ルター「序文」 1518年

 聖パウロが人物としては弱弱しいが手紙の筆致は力強いように,神に召しだされた神の言葉を宣教する人物は,卓越し魅了的な人物ではなく,幼子の弁を有したものでありそれを神は能弁にするのである. [ つまり,宣教者は,神の選びと助力に依らない自己自己自身の能力に於いては劣悪なのである. ]
 
 したがって,神は,貧しくみすぼらしい人々を軽侮する増徴した人間を罰する.

 この言及は,『独逸神学』の文飾の貧弱さと人間的知恵の欠如の故に読者がそれを軽侮することのないための警告である.
アルント 「序文」

 この〔宗教改革が始まって以来の〕70年余の間に,キリスト教とその教義・信仰について膨大な書物が幾多の教派の著者達によって著述されてきている.

 しかし,それらの>キリスト教的な<書物は,あたかもキリスト教的な生と真の悔い改めというキリスト教の核心を看過させ,>かわって単なる知的論争と党派闘争とに堕させて<妨害しているように思われる. 

 事実,人が文書と反対文書との>生産と読解と反論との<やりとりのために,世間は日毎に悪化している.
 対して,キリスト教の初期では〔 何時ごろを著者は念頭においているのか? 〕,悔い改めと聖なるキリスト教的生が,すなわちキリストの教えが生に変えられる〔 =教説が生の様式へと発展する 〕事が,強く要求されていた. 

 このキリスト教的教説の生の様式への適用こそ,真のキリスト教の精髄〔 の少なくとも一つ 〕である.

 それゆえ,一方で人が真の悔い改めとキリスト教的生をほとんど喪失しつつ,他方で純粋な教義とキリスト教の保持とを期待することによって,ますます真の純粋な教理とキリスト教そのものものを,世の人々は失っている.
キリストが教えた,キリストに真に習い従うこととは,キリストの生であり,従がって,キリストに真に従うものは正しい神認識をもたねばならないはずである. だが,多年にわたり正しい神認識・キリスト認識については教理論争が絶えない. ここに真のメシアの到来に先立って,メシア自称者が乱立するという福音書における預言が成就している.

「単にキリストの言葉と教えがあるだけではなく,またキリストの生*もあるところがなくて,一体どこにキリストがいられるのか.〔 いや,どこにもいない.〕」
言葉と秘蹟を,教会の印と認めるのは正しいが,それらだけでは多くのキリスト者が現に良くならなかった. 従がって,良きキリスト者であるためには,み言葉と秘蹟に加え第三の因子−−高貴なキリストの生である愛−−が必要とされる.

* キリストの生を,原始放浪者集団の生のようなものと考えてはならず,霊に満たされつつ真理を認識するという双方向的な神秘主義的存在様態が想定されている,と思われる.
キリストの教えのために論争があるが,キリストの生は忘れられている,というのは,キリストの教えに反する〔 つまり,前者の態度をとる人間が同時に後者をもとることは矛盾である 〕. なぜなら、キリストは彼の教えと彼の生をともに学ぶことを教えているから.

神学の論争書は必要であり,虚偽の教えに反駁することも有益である. ただし,同様に,「民衆も真の悔い改めへとせきたて」られるべく,〔聖職者たちは〕キリストの生を民衆の心に刻み込むべきである. もし,そうしていたらば,この世のすべての階級の人々に渡って事情ははるかにすぐれていたであろう.

そして,他人を教える人々は,彼ら自らがキリストの生を我が物として引き受け生きねばならないであろう.
とすれば,著述にも節度が要求される. なぜなら,本のあまりの多さは,「本質が外的な文字にではなく霊にある新約聖書の性質に反しているから」*
この霊はキリストの生である. そのキリストの生は「真のキリスト者」の心のうちに書かれている〔霊の文字である〕. ところが,著述文字の多さが,人を導く聖霊を殺し,人を苦しめている,のが現状である.

* アルントの議論には混乱がある. その本質が霊であるからといって,仮令非本質である文字の産物である著作物の多さは,必ずしも本質をないがしろにするわけではない. おそらく,著述の多さは霊的性質を低める,という因果関係が存在することを彼は想定しているのであろう.
(四)
聖パウロスがテトスに,律法についての論争を避けるように命じた事は理由がある.
それは,一方で異端者達は反論著作により改悛することはほとんどなく,他方(パウロスが教会教師たちに)指導したように異端者たちを〔教会から〕退ければ問題は改善されるからである.
悪魔も神学的著述を勧奨するものなのだ,其れ故にこそ,「悪魔は明敏な論争者を避けたことはなかったが,聖人はよく避けてきた」*のである. 

* 現存する書簡のみからしても,パウロスはむしろ論争家・神学濫作者の傾向があったように思われる. あえて弁護するとすれば,彼の著作は,不特定の読者を対象にした抽象的神学トピックについての神学の大系書ではなく,常に特定の読者(特定の教会)における特定の問題についての教導的司牧書簡である点であろう.

 聖であるために論争を避ける,というと私は砂漠の師父たちの生のあり方を想起する. アルントは,どのような人々を念頭においていたのだろうか?
よって,人が正しい教義を得,人々が教義に於いて一致するためには,「人がキリストの生と真の悔い改めから始めて,キリストの後についていく*」ことが要求される.

* 通常は,改悛→内面的聖性の獲得→外的行為の完成 もしくは,改悛→外的行為の改善→内面的聖性の獲得 という信仰的順序が想定されるであろう. アルントがここで改悛に「キリストの生」を先行させているのは,単なる杜撰さか,それとも改悛それ自体が「キリストの生」にあらしめられる事を要するからなのだろうか?

現状では,真の改悛とキリストの生とが人々から離れているために,(純粋な教義の〔維持〕育成にも役立たないために)キリスト教を〔何れ実質的に〕喪失することになるであろう.
対して,知恵は,聖なる〔人々の〕魂に入り込み,「預言者や神の友を育成する」
著者はさらに著作の生産・流布に否定的態度を示す.

まず,実際かつ本当にキリストの生において従順なキリスト者を,牧者キリストは,誘惑から守る. 従がって,従順なキリスト者は,数多くのではなく少数の論証書で,十分である〔 なぜなら,それ以上の迷いからはキリスト御自身(もしくはその働きとしての聖霊)が彼らを迷妄から守ってくれるから. 〕 しかも,その少数の書も「ただ自分達の心の証に必要なだけ」*である.
なぜなら,彼らは,生においてキリストに従がっている限り,「彼らの心においてキリストを証」し,彼らを迷妄から守る「聖霊という真正の書物を彼らは心の内にもっている」から.
人は,インクで書かれた文字ではなく,神の霊によって書かれた書物で,心を満たされているべきであり,後者のほうがキリスト者を至福へと招くのである.
よって,《第一段階》真の改悛とキリストの生が我々の内にある際には,《第二段階》真の〔聖霊の働きという〕光〔即ち内的・霊的書物〕も信徒の心の中に充満するから,《第三段階》良きキリスト者は「聖書のほかにはほとんど書物を必要としない」.

* ここにきて,アルントは,以前の神学書の多量に過ぎる生産・流布を批判していたにとどまらず,そもそも聖書以外の「外的」神学書を殆ど必要としないというよりラディカルな議論へと移行している.


* 論証書が心の証に必要,という意味不詳.
(5)
何故なら,唯一である大祭司〔キリスト〕がわれわれに,聖霊が我々を一切の真理のうちへと導きいれる,と約束したから.
〔従がって,論争書や教理書なしにも,専ら聖霊の導きのみによって,必要かつ十分にキリスト教徒は真理へと導かれるはずである.〕
ところが,現実の我々はこの真理への導き手である聖霊を退けてしまっている,というのは論争を〔聖霊にではく〕膨大な書物にゆだねてしまっているからである.
そのため,我々が膨大な神学書に押しつぶされそうになっているという事実が〔聖霊に我々をゆだねないことへの〕我々への罰なのである.

エレミア書2章における「彼らは生ける水の源である私をすてて,自分たちのために,水をためることの出来ない水留めをあちこちに掘っている」という言葉は我々に当てはまる. つまり,「私」を自分自身の心の奥底〔聖霊の宮のことであろう〕にではなく,外面〔神学書〕に専ら我々は求めているからである.
ここで,我々は,その外面に腐った悪臭のする水が来たり,内面には何ももたない. 

 当代のキリスト者たちは,一方で書物等の外的な事物や外的な礼拝に専心し,他方で「心の奥底には,本来湧き出してくるべきものがない」. 「偽りの預言者と偽りの光の両方とも,このような性質のものである」〔意味不詳〕. 
水が,生きた源泉である聖霊から来たらないために,人間のもとにとどま〔りキリストの生へとキリスト者を涵養せ〕ず,「流れ来たと同様に流れさるから」〔後半意味不詳〕である.
従がって,誰一人それ〔即ち腐った外的な水〕を渇望しない,何故なら,内的な心の奥:「霊の泉と愛の泉」から湧く生きた水ではなく,外的な水溜りの水,また流れ去ってしまう水だからである.

当代においては実は,キリスト教は,ほとんど名前だけで,内実は残っていない. というのは,我々が真理の霊と泉を捨て,キリストの生もすて,膨大な論争書という外面にしがみついているから( 聖パウロが指摘しているように,学ぶものである書物が増えたために,学ばねばならない事も増え,結果的に真理の認識に到らなくなっている ).
では,なぜ名のみのキリスト教しか残っていない当代において,キリスト者に真の光〔たる聖霊の働き〕が留まり得るのだろうか?
(6)
ところで,真理は唯一である,そして唯一であるものは多数の書物を必要としない*1. 
そして,真理は唯一であるから,唯一なる真理へ到る唯一の道がなければならない.
この唯一の真理はキリストであり,かつ真理への唯一の道もキリストである. 
〔ここでアルントの議論はよたっているが〕唯一の道であるのは,〔キリストであるが〕,それはキリストの生である. このキリストの生という道を歩むものは,キリスト〔御自身〕にたどり着く*2.
〔真理に到達するために〕この〔キリストもしくはキリストの生という〕道を行くならば,キリスト者は多数の書物を必要としないし,唯一のキリストの生とキリストがあれば(膨大な書物が無く)「永遠なる光がわれわれをまもなく照らし,そしてわれわれを信仰において一致させる」であろう.〔書物の存在こそが信仰の分派・分裂の原因であり,対してキリストとその生にあるが故の霊の光は信仰の一致の原因である.〕

*1 なぜだろうか? アルントの思惟過程が不詳. 例えば,一般相対性原理の式は唯一かつ簡潔であるが,それを理解するための予備的書物は膨大ではないだろうか?
*2 キリストとキリストの生の何れがキリストへの道であるかについて,アルントには混乱があるようにみられる. あるいは,真理であり真理への(最終の)道であるキリストと,その最終の道への道であるキリストの生,という二重性を想定しているのであろうか?
(7)
エフェソ5・14においてパウロが「眠りについている者,起きよ! そうすれば,キリストはあなたを照らされる」と書いたのは,現世的な諸欲にまみれた人はキリストによって照らされずことがなく,暗闇にとどまり,<<偽りの預言者とともに>>*1永遠の暗闇の中に入って行く. 
故に,「人が偽りの教えを偽りの生で追い出そうとしても,何にもならない.」「偽りの生〔キリスト的でない生・現世的欲望にまみれた生〕は偽りの教えどうよう一つの悪魔であるから,一方が他方を追い出すことは無い」から. むしろ,「偽りのキリスト教が増長すればすれほど,また偽りの教えも増強されるであろう」*2

*1 アルントが偽預言者に幾度も言及するのは,多数の神学書を生産する人々を偽預言者・キリスト者を迷妄へと導く者と評価しているからであろうか.
*2 「偽りの教え」が多産されるキリスト教書だとすれば,「偽りのキリスト教」とは世俗的キリスト者の現世的な生活態度のこと,(もしくは秘蹟等かもしれな)であろう. つまり,アルントは,キリスト教に於ける論争とそれによる著述物の多産と,現世的で欲望的な生活態度とを,(それぞれ独立した,通俗キリスト教の欠点が二つあるのではなく )偽者のキリスト教の呼応する一対とみているように思われる.
悪い例と良い例として,コリントス人たちとコルネリウス&パウロスを見る.

(8)
コリントス人たちは,キリストの生の謙譲にではなく,自分達の才能の自慢に走ったが故に分裂した. パウロの学識ゆえに学識あるものたちはパウロ派に,アポロスの弁術故に弁論に炊けたものはアポロス派に,奇跡の力がペトロスにあったが故に奇跡を行う才能あるものはペトロス派に,と分裂した. かくして,彼らは「霊的ではなく肉的になって,間もなくキリストを失った〔 おそらく即ち分裂したこと 〕」

では,コリントスの協会に於いてキリストはどこにいたのだろうか? 〔 最早不在だったのである. 〕 これは,現在の学者達が相互に学識才能において凌駕しようと競っているのと同様である〔 のであって,当代の学者間にもキリストは不在なのである 〕. コリントスの分裂〔 とそれによるキリストの喪失 〕にあって,パウロスは愛を説いた. これこそ,当代においても人が学者達になすべきことである. 
パウロスは言った,「天使や人間の言葉で語ろうとも,そしてあらゆる信仰とあらゆる知識とあらゆる神秘を知っていても,愛を持っていなければ私は無であろうし,またすべては私にとって無益であろう」. 従がって*,教えに於いて秀でたいもの〔学識を誇り神学書を量産したい学者〕は分裂と異端を招く,大して,愛に於いて優れたものは異端を引き起こさず人を築き上げる.

* パウロスは愛がなければ無益だとはいっているが,愛があっても知識等々は異端を齎すとはいっていない. ここでもアルントの議論は引用を恣意的に曲解している疑いが濃厚である.
(9)
コルネリウスは,純粋で至福を与える教えを求めたとき,改悛にある断食をして神に教えを請うた. この〔態度〕に応じて,神はペトロスをコルネリウスに派遣して教えを授けた.

同様の事例は,ルカスが他の諸民族についても記している*.

* 訳注によれば,あるいは使徒言行録における諸使徒たちの諸民族への宣教のことか,と推測されている.

パウロスは,永遠なる光に照らされ迫害していた使徒たちと信仰を一にするに際して,彼はひとたび〔光に〕打ち倒されて〔視力を失い〕謙譲のキリストの生に歩み入らずにはいられなかった.

すべての預言者と使徒たちとはこの〔謙譲にあるキリストの生の〕道を歩まずにはいられなかったのである.

* 単に,「歩んだ」ではなく「歩まずにはいられなかった」とあるところに,神の側からの働きかけの圧倒的な支配力が示唆されている.

使徒たちがキリストの霊を受ける際には,キリストの生をわが身に引き受け,〔それまでもっていた世俗的なあるいは金銭的・身分的時には知的であるかもしれない〕すべてを捨てかつ断念し,自分自身を否定しなければならなかった. これがキリストに「倣い従う」ことであった. 「そしてその後にまた真の光が続いた」(意味不詳)
(10)
主イエススは「私の言葉に留まるならば,あなたたちは本当に私の弟子である. あなたたちは真理を知るであろう」と言った. これは正しい. ただし,「キリストの言葉に留まる」ということは,単に教え〔 を覚え知ること 〕だけではなく,むしろ主に〔 キリストの謙譲にある 〕生のことだ,と解されるべきである. というのは,「キリストの言葉に留まらない者は,自分達の生によって,キリストの教えから外れるから」である.

* 「キリストの生に留まらないものは,自分たちの〔世俗的〕生によって,キリストの教えの言葉から外れるから」というなら,アルントの上記の解釈,すなわち「キリストの言葉に留まる」の主意がキリストの教えよりその生にある,という解釈を支持する補説であろうが,現にアルントが加えた説明は彼の解釈を補強しているようには,筆者には思われない.

この〔「私の言葉に留まる者」という句が主にキリストの生に留まる事を意味するという 〕事から明らかになるのは,「生においてキリストに従わない人たちは,また真理を認識することもできない」〔 何となれば,真理の表現はキリストの言葉であるし真理そのものはキリストなのだから 〕という事である. 
神を信じない人たちの感覚*を悪魔は幻惑させるので,彼らは福音の明るい光を見ることができない. 対して,〔 神を信じ 〕キリストの生と道とに歩んでいる者を悪魔は幻惑させ得ない.

* 対比が「キリストの生と道とを歩む者」であることからして,ここでいわれている「神を信じない人々」とは( たとえ,形式的にはキリスト者であり「神を信じている」といっても,現にキリストの生と道とを歩んでいない者,分けても文脈からすれば衒学的な多作の神学者達であろう.

「目を向けるべきは教えの方であって,生ではないと,よく言われる」*1 しかし,イェスス自身の言葉によれば,重要なのはむしろ生である,というのは,「その実によって見分けるべきである」と彼は教えたからである. 〔 アルントなりに敷衍すれば 〕教えることと生きることとは一であって,その二つが異なるのは「偽りのキリスト教である」からである. 真正のキリスト教は,( 恩恵により人間に可能な限り*2 )「生はまさに教えそのものでなければならず,また教えも生でなければならない」. そうでないならば,キリスト教はファリサイ派的な偽善*3であって,暗闇であり光ではない.

*1 アルントがこの序文を記した頃は,教理重視が( 少なくとも特にルター派プロテスタントにおいては )特徴的だったのであろう. それに先立つ中世カトリシズムであれば,教理・秘蹟そして(修道者の場合)清貧・従順・貞潔にある生はともに重要視されていたはずである.

*2 この限定をかけることで,ペラギウス主義的な道徳主義的性向をアルントは避けようとしているのであろう.

*3 例によって「ファリサイ派」という語の乱用. しかも,一般に「ファリサイ派的」といえば,律法を厳守しているように見せかけ或いは他者に押し付けるだけで自分では厳守しない態度であるが,ここで批判されているのは,むしろ,「律法」という条文化されたものではないにせよ,神が求める生活態度の厳守徹底である.

「私の言葉に留まるならば,あなたたちは本当に私の弟子である」
イェススは,ファリサイ派が教える事は正しく彼らが行うことは誤っていた,すなわち言行不一致に陥っていた,とアルントは解する. ファリサイ派は,言行不一致の故に,「真の光であるキリストを見分けることができな」かった,とする. ここで,またもやアルントの教生一致主義が明確に打ち出されている.
(11)
全ての異端者や偽預言者たちは,キリストの道と生とをではなく,悪魔の道を歩んできたのである. だから,主は彼ら〔 の内面・信仰 〕をその実〔 すなわち外面・行い 〕によって分別する事を命じ得たのである. 〔 この,異端者や偽預言者たち 〕主キリストに従わない人が〔 その実・行い・生 〕によって分別・認識できるのは,キリストに従わない人は「生の光を持つことが到底できない」からである. 
聖ベルナルドゥスは,「神々の恩恵の流れは上には流れない」という. 恩恵は上から下に流れるのであって,その逆ではない. 〔 従がって,下位者は上位者から恩恵を受け取り向上し得るが,上位者は下位者から恩恵を受け取り向上することは不可能である. 〕 したがって,〔上位者である〕謙譲のキリストの生においてではなく〔下位者である〕ルチフェルのみちに歩む人には,〔 恩恵は流れ与えられないので 〕神に就いての正しい認識と純粋かつ至福をもたらす教えの恩恵が留まりえない〔 ので,その実は悪魔のものである. 〕
(12)
バベルの塔は聖職階級〔と特に多産な学者〕の予型である.

バベルの塔の建築者たちは高い塔を建てることによって天に達することを目指した,同様に「神を信じない誰も」〔多産な学者〕が著述を多作することによって天に達そうとしている.
かのバベルの塔の建設は建設者達の賢明さによって企図された,同様に,〔多産な学者たちによる〕書物の塔の生産は著述家達の賢明さによって企図されたものである.
それゆえ,〔天にまで届かんとする高いものを作ろうとしている〕結果においても,バビロンの塔の建築者たちと当代の多産な著述家たちは同様である,すなわち彼らが招いた結果は,バビロンの建築者たちに多様な諸言語の出現による混乱を招いたように,当代の著述家たちの間に聖職者相互ですら相互に他の著述家の主張を理解できない混乱を生んで,「非常に多くの派に分散している」. 〔 すなわち,天に達しようとする両者の試みは,ともにコミュニケーションの致命的混乱を齎したのである. 〕

しかし,バビロンの塔の建築者たちは〔 神に達しようとした点において 〕愚昧だったが故にその建築をやめざるを得なかった,同様に,聖職にある〔 当代の愚昧な 〕人々も書物や論争を放棄せざるを得なくなるであろう. 「自分達の聴聞者の外に自分達の至福を失いたくないと思えば」(意味不詳)彼らは別の道〔 すなわち,書物によるのではないキリストの生にある道 〕を探さねばならない. 其れ故,当代の現実は書物の多産にあるが,>>それに応じて*≪「多くの人々の心のなかへわれわれが生きた信仰,活動的な信仰と高貴なキリストの生を植え付け始めるべき時である」.
これは使徒的な行為であり,バビロニア的な〔異教的な・堕落した・悪魔的な〕行為ではない.

* これまでのアルントの書物批判の態度からすれば,「それを止めて」であろうに,「それに応じて」と書物と生との均衡を齎そうとするにとどまるかの表現が採用されている意図は不詳.
『ドイツ神学』の教示内容とその読み方.
同書は,キリスト者が>いかにして<高貴なキリストの生をわが身に引き受けるべきか,そして>いかにして<生きた活動的な信仰をそして更に信仰を通じてキリスト〔 そのもの 〕をあなた自身に働かせるべきか,そして、それらへの正しい道を,併せて教える.
ただし,読者は,幾度も通読し,かつ「その深遠な,しかし霊的には軽やかで好ましい意味に十分注意を払わねばならない」

一度この書があなたの生を〔 世俗的の生からキリストの生へと 〕かえるならば,そのキリストの生こそが正しい真のキリスト教でありかつそれ以外に好ましい生はない*ということを告白せざるを得なくなろう. わたしが同書について序文を著しているのも,読者の自己修練のためである.

同書は1534年以後ドイツ語では印刷〔出版〕されずほとんど失われていた*. キリストの生を歩んだ人々は神に照らされた者であったが,この範例は修道士・隠者・カルトゥジア会修道士に独占されてしまってきていた.

同書は牢獄のヨセフのように塵に埋もれていたが,いまやヨセフが牢獄から開放されたように,神の霊感によって世に出されようとしている. しかも,開放されたヨセフの衣類が奴隷用の襤褸であったように,同書は古い粗末なドイツ語で著されている. にもかかわらず,キリストの高貴な生をわが身に引き受けることを教える.
同書の主題は,キリストの教えをキリストにある生に変える〔 もしくは実践形にする 〕ことを,すなわち「いかにして人間が神と合一させられるべきか」という人間の完全性かつ全神学の目的を教える. これはいいかえれば,我々に於いてアダムが死しキリストが生きることである.

* 人間の神との合一Vereinigungが,人間の完全性〔 人間が完全になった時のそのあり方,の意であろうか 〕であるのみならず,全神学の目的でもある,というのはアルントの独自の神学的立場,すなわち「キリストの生」だそうである.

* 訳注に依れば全くの誤り.
(�顱砲海旅隋岼譟廚冒瓦討�かかっている. この人間の神との合一こそが,「新しい被造物」であり「新生」であり「信仰」であり「信仰にあるわれわれの内なるキリストの生」であり「キリストの宿り」であり「聖霊の照明」であり,「われわれの内なる神」であって,これらはみな一つのことである.
なぜなら,真の信仰のあるところでは,信仰とキリストとは別れていないから*.

* キリストそのものとキリストへの信仰とが一であったとしても,信仰にある生や過程・経験であろう新生までもが一つに扱われるのは混乱を見ざるをえない. まして,キリストと聖霊とも同一視され三位一体論も怪しくなっている感じである( アルントからすれば,キリストの働きこそが父とキリストとから発する聖霊の働きなのであるから,正統的だ,というのかもしれない ).
(�髻法.�リストがいるところには,キリストの生がある. なぜなら,両者は決して分けられないからである.
(�鵝法.�リストがいるところには,純粋な愛がある. なぜなら,〔 キリストとはキリストの生に他ならず〕キリストの生とは愛だからである.
(�堯法.�リストの愛があるところ,そこには聖霊がある.
(��) 聖霊があるところには,神の国がある. 神の国とは,聖霊に於ける平和と喜びである.

(��) 〔(�顱法繊放�)からして〕人が,その一つである神の国/聖霊を持つならば全てを持たざるを得ない,他方一つを持たなければ他の全ても持たない. 
 それは,人がキリストの生を何も持っていないならば,キリスト・信仰・新生のいずれに就いても何も持っていないことになるから.
(��) 対して,〔 人がキリストの生にあり 〕キリストがあなたの内に住み生き働くなら,あなたに属する善はない. なぜなら,あなたがなす善は全て,あなたの内に宿る主キリストのものだからである*. 善いものは全て神から我々に来るのであって,我々から「神の内に入って,神がわれわれの負債あるものになることはない」から.
〔 つまり,全ての善は神から人に委ねられるのであり,人はそれを受け取り生かすのみである,という善についての神絶対主義. ただし,では善をわれに注がしめる条件である「キリストの生」は,人の行いの産物ではないのか,それともそれも神が創り出す予定説的思考なのか,ここはアルントの序文では明らかではない. 〕

* 従がって,悪を行うものには善がなく,善を行うものには善がないのであるから,人に帰属する善は存在しないことになろう.

上記内容が『ドイツ神学』の内容であり,真の神学である. ただし,もともとの『ドイツ神学』の文体は必ずしも当代に受けないであろうから,アルントはその文体に手を入れた.
 
ヨセフである『ドイツ神学』は,読者にポティファルの妻をすなわちこの世の中にある事を薦めるのではなく,この世を捨て最高善を求めることを教える. 
キリスト教に於いて,ポティファルの妻と情を通じるものとは,この世の物を求め欲望を満たそうとするものであるが,ヨセフはポティファルの誘いから逃げたからである.
ヨセフである『ドイツ神学』は,読者にポティファルの妻をすなわちこの世の中にある事を薦めるのではなく,この世を捨て最高善を求めることを教える. 
キリスト教に於いて,ポティファルの妻と情を通じるものとは,この世の物を求め欲望を満たそうとするものであるが,ヨセフはポティファルの妻がヨセフの服を掴んだもののその誘いから逃げたからである.

ポティファルの妻が情欲にかられたように,〔 多産な神学著述家たちという 〕「現世の快楽を求め,思い上がっている肉的な世も思っている」 天国のヨセフであるイエススは,この世の仕方でこの世の人々と関係を持たざるを得ない,そしてこの世の人々はイェススを掴み世俗の情のうちに虜にしようとする. 傲慢・快楽・富裕を求める著者達は,〔 彼らですら然るべき在りかたでではなくポティファルの妻的な在り方でではあるが 〕キリストを持ちたいとは思い,「私もキリスト教徒である」と宣する. しかし,実は彼らは〔 真の 〕キリスト教徒ではない. 天国のヨセフであるイェススは,イェススの服すなわち「外的な文字・仮像・名声・肩書き」を彼らに譲り渡すが,イェスス自らは彼ら多産な偽神学者たちから逃れることに成功するのである. ただし,彼らがキリストの生と「足跡」へと歩み入り,歩むならば,つまり『ドイツ神学』の著者が示しているとアルントが考える「真のキリスト者」へと転向するならば,別ではなるが.

ヨハン・アルント
ようやく,ルターとアルントの序文が終わって,『ドイツ神学』そのものの本文にはいれる・・・ なんかほっとする
[ 序詞 ]
この小冊子は,全能・永遠の神が,語られたものである.
を通じて語られた媒介者は,知恵・思慮分別・誠実・義の諸美徳をそなえたドイツ騎士会修道士・司祭であるフランクフルトのドイツ騎士修道会館管理者であった.
この書は、神の真理の多数の好ましい教えを伝えている.
とりあわけ主題的な教えは,「人はいかにして,どこで,また何によって誠実で義なる神の友と,また聖なる教会にとって全く害になる,義ならざる,偽りの自由な霊の人々*とを見分けることができるのか」である.

* 訳注によれば13世紀中葉シュワーベンを中心に展開した,自由な霊の兄弟姉妹,「自由心霊派」のことである. 彼らは,神との「特別な結びつきを教会や十字架のキリストを通さず,無媒介に,従がって直接的に得ようとする急進的な神秘主義的グループ」であった,とされる. 『ドイツ神学』の著者が,この自由心霊派に著しく批判的であるとすれば,同じく神との生における神秘的合一を主張する著者が「なぜ,いかなる論拠を以って」自由心霊派の主張はしりぞけて,伝統的主流派キリスト教の枠を一定内において擁護しているか,その弁明の論法に評者は興味を持っている.
第一章 : 完全なものとは何であり,部分的なものとは何であるか,そして完全なものが来る時,人はいかにして部分的なものを捨てるか?

聖パウロの言「完全なものが来たときには,部分的なものは廃れるであろう」
完全なものとは,「それ自身とその存在*1において一切を包含している存在であ」って「これなしに,そしてこれの外には*2,万物のその本質となる*3ような真の存在は何もない」

*1 「完全なもの自身と完全なものの存在」の意味不詳. それとも,完全な存在者(ens)それ自身と完全な存在者の存在(esse)のことであろうか?

*2 神が,かつ神のみが,の意.

*2 著者は,「万物」即ちおよその被造物の本質は,「完全なもの」即ち神である,と考えているのであろうか?

なぜなら,「完全なものが万物の本質」である,そして,〔完全なるもの〕それ自身は不変・不動であり:4,かつ,他のもの全てを変えかつ動かすから.

*4 アリストテレス以来の神の不動の動者理論が採用されている.

部分的/不完全なものとは,被造物である. 
被造物は,完全なもの〔神〕を「自らの根源としてそれに由来しているかそれから生じる*5」.
被造物は,部分的なものであるから,完全なものではない,同様に,完全なものはいかなる部分的なもの・被造物でもない*6.

*5「に由来する」と「から生じる」の差異不詳.

*6 *2に言及した万物の本質が神である,という解釈が正しいならば,被造物としての被造物もしくは被造物の偶有性なり質料なりは神ではないが,被造物の本質は神である. よって,被造物の偶有性なり質料なりは部分的で不完全なものであるが,被造物の本質は完全なものだ,と著者は考えているのであろうか?

不完全なもの:把握可能なもの,認識可能なもの,表現可能なもの
*7
完全なもの :(全ての被造物にとって,被造物としてある限りに於いて*8)把握不可能,認識不可能,表現不可能.

*7 認識や把握は対象を限界付けることであり,従がってそうされることが可能な存在者はすでに無限定的なもの,完全なものではない,という否定神学に典型的な前提にたっている.

*8 被造物が被造物としてでないあり方では,神認識が可能である,という主張を予告している.

〔被造物としての被造物にとって,完全なものは把握・認識・表現不可能なのだから,〕人〔という被造物〕は完全なもの〔神〕を名づけることはない.
なぜなら,完全なものは如何なる被造物でもないから〔被造物があるものを名付ける事が可能であるためには,把握・認識・表現が可能であらねばならないので,それは被造物であらねばならないから.〕

被造物としてある限りの被造物には,完全なるもの即ち神を認識・把握・命名・思考する事ができない*9.
「それで*10完全なものが来れば,人は部分的なものを退けることとなる.」

*9 被造物である限りの被造物には神を思考する(考え出す)ことすら出来ないとすれば,終末までのわれわれには神を考え,信じることも出来ないのではないか,という疑念が湧くであろう. これに対する解答は直後に述べられる.

*10 なぜ「それで」と理由―被説明項の関係とされているのか不詳. あるいは,完全なものがくれば,その認識・把握こそを人は選ぶので,被造物としての被造物である限りの人のあり方は選ばれず捨てられるであろう,ということであろうか.

完全なものが来る時:「それ〔完全なもの〕が,可能な限り魂において認識され,感じ取られ,そして味わわれる時である*11」

*11 魂が完全なものを知的よりは官能的に享受する時に完全なものが到来する,と考えられているように見受けられる.

反論: 完全なものは全ての被造物によって認識不可能・把握不可能である,ところで,魂は被造物である,故に,魂は完全なものを認識不可能・把握不可能である,はずだ.
解答: 魂が完全なものを認識不可能・把握不可能であるのは,魂が被造物としての被造物である限りにおいてである. いいかえれば,それは,魂が被造物性と被造性*12とを具有している限りにおいてである. その場合には,被造物としての魂の自我と自己のために,魂には完全なものの認識が不可能なのである. しかるに,〔そうでない場合が魂にありうる.〕 

*12 被造物性と被造性との相違が不詳.

完全なものが認識される場合には,いかなる被造物が認識者であれ,その被造物性,被造性,自我,自己は失われねばならない. 
これが聖パウロの上記の言の意である.
完全なものが来る時,すなわち神が認識されるとき,〔被造物に於ける〕部分的なるもの,すなわち被造物性,被造性,自我,自己,自我に属するものはみな退けられて「全くの無とみなされる」.
〔 従がって 〕仮に人がこれらの部分的要素に固執するならば,その人は完全なものをいつまでも認識できない.

問い: 完全な存在の外には,またそれなしには何もないなら,完全な存在から流れ出たものは完全なものの外にあるので矛盾ではないのだろうか?
解答: 完全な存在の外には,またそれなしには「いかなる真の存在もない」と著者はいっているのである. 
すなわち,流出したものは,存在するものではあっても「真に存在するもの」ではないのである.
流出したものは,いかなる真の存在でもなく,ただ完全なものにおいて以外は〔=に依拠由来してのみ〕存在であり,偶然的な存在である. 
第二章 :罪とは何か,またいかなる善も真の善だけに属するものであるが故に,人はいかにして善を我がものとしてはならないか.

聖書と信仰と真理はこう語る*1: 罪とは「被造物が不変な善に背反して変化するものへ向かうこと,即ち,被造物が完全なものから部分的で不完全なもの――大抵は自分自身――へ向かうこと」である.

*1 聖書において「不変な善に背反して変化するものへと向かう」といった文言があったかなぁ?どこだろう. どっちかというとギリシァ教父たちの発想のにおいがぷんぷんするんだけど.

被造物が,善といわれる――存在・生・知・認識・能力等――ものを,自分が善で有るように*2,もしくはそういう善が自分のものであるようにする時は常に,被造物は背反する,つまり罪にある.

*2 善が自分に帰属するというのは理解しやすいが,それと異なる「自分がそういう善であるように」との意味は難解. あるいは,属性に就いては帰属を,存在のような事柄に就いては自分がそれである,というように表現を使い分けているのだろうか?

悪魔が行った〔罪もそれ以外の何者でもない. すなわち〕「自分も何かあるものであり,何かあるものでありたい,そして何かあるものが自分自身のものであり,そして・・・それが自分のものである*3」と考えた. これは思い上がりであり,罪である.

*3 ここの四項目も不詳.

思い上がりや,「私・・・」ich, mich, mir, mein〔といった自己に善を或いは帰属させ或いは関係付けさせることそれこそが〕悪魔の背反である.

*4 従がって,ド神の著者は,キリスト者が善であること,善を欲することを罪である,と考えようとしているように思われる. おそらく,これは,その前提として自己の定立が要請されるが,それこそ,自己を無にして神に全てを帰す態度と対立するものであるが故に,罪の根源だ,と考えられるからではないだろうか.
第三章 : アダムの堕落のように,人間の堕落と背反はいかにして改められねばならないか.

アダムが堕落した( 破滅した )のは,〔 悪魔の事例と同様に 〕【神のものであるものを:訳者付加】「アダムが増長して我がものにすること」即ち「彼の「私は」,彼の「私の」,彼の「私に」,彼の「私を」などによってである」.
林檎を食べたからというのは,単にこの「私」の肥大の一兆候にすぎず,それがなければ何個の林檎を食べようと彼は堕落しなかったであろうし,自己肥大していれば一個の林檎をも食べていなくても彼は堕落したであろう.

*1 もっとも普通な理解では,神の命令に反したからアダムは堕落した,と考えるであろう. しかし,ド神の著者は,命令違反にではなく自己肥大・増長に堕落の根源的原因を見出している.

わたし〔著者〕は「アダムより百倍も深く堕落しまた遠く背反した」*2.
いかなる人間もアダム〔と同様の各人の〕の堕落と背反とを改め或いは償うことができないできた.
その堕落を改める方法は,「アダムの堕落同様に,そしてアダムの堕落が改められたのと同じ方によって*3,しかも同じ方法で,改められなければならない.」
この改めは,「人間は神なしにはそれが出来なかったし,神は人間なしにはそれをしようとされなかった. それ故,神は人間の自然的本性ないしは人間性をわが身に引き受けて,人間化なされ,そして人間は神化された.*4 *5」
まさにそこで,改めがなされた.

*2 なぜ,こう考えられるのかは,不詳.
*3 従がって,アダムの堕落と背反とはすでに償われているのであって,問題なのは著者(及び同世代の他の諸キリスト者たち)の償われなのであろう.
*4 原注に,神の人間化を「すなわち,人間の本性と合一されて」,人間の神化を「すなわち,神の本性と合一した」とある. この原注の信頼度は不詳.
*5 人間の(人間性の)神の本性との合一が,イェースース・クリストス一人について言われているのか,それとも人間性一般の神性との合一について語られているのか. 後者の臭いが引き続く叙述からは伺われるが,「まさにそこで改めがなされた」というところからはクリストスの受肉による世界変容・和解という一回的出来事が直接的には言及の対象である,と考えざるを得ないであろう.

このように著者の堕落も改められねばならない*6.
私は神なくしては改めが出来ない,また,神は私なくしては「それをなされるべきではなく,またそれをなそうとも思われない」
なぜなら,神も私において人間化なされねばならないからである*7. この私における神の人間化とは,「神が,私のうちにあるものすべてを内からも外からもわが身に引き受けられるように,そして神に逆らうまたは神の業を妨げるものが,何一つ私の内になくなる」という仕方で成就されるものである.

*6 従がって,すでに為された人間の神化による改めで既に万人の改めが完結・終了している,と考えられているわけではない. 
*7 個々人において神が人間化することなしに,神が人間化することは不可能である,と著者は考えているように思われる.

神が全ての人間達をわが身に引き受け人間化し,その人間達が神化されようと,この人間化と神化が「この私において」なされるのでなkれば,私の堕落と背反は改められることがない*8.

*8 「全ての人間」において起こる事はある人間である著者にも起こるのでなければならない. 従がって,ここでは,「私以外の全ての人間が」と読み,「改め」が生じるための神の働きの「私への」働きであることの重要性を著者は文飾的に表現している,と解する.

この償いと改めは,神だけがそれを「行われまた働かれ」わたしは何一つ付け加えることができない*9. わたしは,「神をそして神の働きと神の意志を受け入れるように,単に純粋に受け入れるだけ」である. 〔ところが仮に〕私が〔専ら受動的に〕それを受け入れようとしないで,「私の」「私は」「私に」「私を」をも地帯という事,〔すなわち自己肥大の継続〕は,神の働きを妨げる. しかも,自己肥大がわたしにあるが故に,神>>だけ≪で「何の妨げもなく働かれるということが出来ない」. そのため「私の堕落と背反は改められないままである」*10.

*9 もし,私に何か出来ることがある,といえば,それは私の自己肥大という著者が否定するものに他ならないから,単に反ペラギウス主義といった神学的常識からの帰結ではなく,著者の思索からの当然の帰結である.

*10 もし,仮に自己肥大が残るなら,堕落と背反は改められないままにとどまるであろう,というのか,著者に就いては現に改められていないと(謙遜からにせよ事実認識の告白にせよ)いうのか,人類一般に就いての現状を述べているのか不詳.
第四章 : 善なるものを我がものにする人間は,いかにして堕落をし,そして神の栄光を傷つけるか。

神は言った「私は私の栄誉をほかの者には与えない」.
この文の意味は,栄誉と栄光はただ神のみのものである,ということ.
したがって,自分が善であるとか,善なる事をできるとか,善を知っているとか,等々を思うことは,「名声とか名誉とかいったものを我がものとなし」二つの悪を行うのである.
悪の第一は,堕落と背反である.
悪の第二は,私が神の栄光を傷つける事及び神のみに属するものを我がものとすることである*1.

*1 第二の故に第一が生じる,という関係で,二つの独立した悪ではないように論者には思われる.

なぜなら「人が善と呼ぶべきすべてのものは,ただ永遠で真なる善性〔である神〕だけ以外に,いかなる人にも属していない」から.
従がって,神のみに属するものを我がものとする者は,不正と神に反すること〔おそらくは背反と呼ばれてきたものと同一であろう〕を行うのである.
第五章 : 人間は知なく,意志なく,愛なく,また欲求なく,そして認識などのないものとなるべきであることを,人はいかに理解すべきか。

「人間は,知なく,意志なく,また愛なく,また欲求なく,そして認識などのないものとなるべきである,という人がかなりいる.」*1

*1 訳注によれば,これは静寂主義者のことである. 「人がいる」といういいかたから,ド神の著者がこの主張に反対であるようにも見えるかもしれない. が,引き続く本文を見ると,この主張を彼は支持している. では,なぜ,こういうもって回った言い方をしたのだろうか? あるいは,それらのあり方を人間はすべきである,そのことの根拠が静寂主義者たちとド神の著者とで相違しているのかも知れない. が,筆者は当時の静寂主義に全く疎いのでなんとも言うことが出来ない. このトピックの読者のコメントを待つ.

〔 人は,知,意志,愛,欲求,認識等のないものとなるべきであるという 〕この価値観は,「人間においていかなる認識もないとか,あるいは神が人間において認識されたり,または愛されたりあるいは望まれたり,または求められたりあるいは讃えられたりあるいは崇敬されたりしない,というようなこと」を意味するのではない.
なぜなら,もし人がそのような在り方であるとすれば,それは大きな欠陥であり,人間は野獣・家畜のように劣悪な存在でしかないからである.
〔 人は,知,意志,愛,欲求,認識等のないものとなるべきであるという 〕この価値観は,「認識が非常に純粋で完全であるため*2,まさにこの認識が人間のものでも,あるいはまた被造物のものでもなく,永遠の言葉である永遠なものの認識であることが認識されるほどであることに由る*3」.

*2 ということは,神認識でない被造物に対する認識等は持たないことがド神の著者によっても支持されているのであろうか?

*3 この議論は第一章における完全なるものに対する認識が可能なのは誰か,についての論述と基調を同じくしている.

従がって,〔神を神においてなす〕純粋な認識においては,人間(被造物)は〔認識の主体としては〕「退いて」,「認識を我がものとすることはな」*4くなる.
被造物が認識・意志・愛・欲求等を我がものとすることが少なくなるほど,〔単にその被造物がより神化され改められるだけではなく〕認識・意志・愛・欲求等は完全なものとなる.
なぜなら,人がそれらを我がものとすることが少なければ少ないほど,それらはより高貴・純粋・神的になり,またその逆も真だからである.
かくして,人は,何か〔善きもの〕を我がものにする,という欲求から解放されるべきである. 現に,人が善を自己に帰属させる欲求から解放されるならば,人間においてありうる「最も高貴で最も純粋な認識」「最も高貴で,最も純粋な愛と欲求」が具現化する. 〔それらこそが最も高貴で最も純粋であるのは〕それらが全て神だけのものだからである.

*4 第四章に於ける「善なるものを我がものとする」事が悪であり,第三章における神化において「私は何一つ付け加える力も持た」なくなり,「神だけが行われまた働かれる」唯一の主体と化す,という主張と基調を同じくする.

およそ諸善が神のものであることが,それらが被造物のものであるより,より良く高貴である. 
もし,真理が>>私において≪*5認識されているならば,私が何か善なるものであるのではない,その善は私のものではない,また私に由来するものでもない,といった事柄が認識されるであろう,加えて,「我がものにするということ自体が離れ落ちてなくなる」.

*5 「私は」「私の」「私に」「私を」等が批判されたのに対して,「私において」は肯定的に語られている. これは「私において」が私の自己肥大をではなく,無化される私をトポスとして明け渡すことを示唆するからであろう.

神が讃えられず愛されず崇められず認識されないでいる事に比して,神が「出来る限り」讃えられ愛され崇められ認識される事,及び>> 人間も,自分は神を讃えあるいは愛している,と思う<<*6事の方が優れている. なぜなら,人に於いて,妄想と無知が真理の知と認識なれば,「我がものにする」ということは離れ落ちてなくなるから.
そうすると人はこう言う,「私は自分が善なるものだと思っていたが,ところがそれは実は神であり*7,また神だけであった」と.

*6 「人間も、自分は神を讃え愛していると思うことは優れている」という主張は,本章冒頭の静寂主義者達?の主張と異なっているように一見思われる. しかし,ド神の著者がそれらが優れているとする理由はつまるところ「わたしが/の/に/を」という自己肥大からの乖離がそれによって達成される事,つまり「わたしの知,わたしの意志,わたしの愛,わたしの欲求,わたしの認識」等々からの離脱を評価しているのであるから,両者の立場はかなり近似しているようにも思われる. 

*7 善なるものが神だけであるという主張自体は珍しいものではないだろうが,私における善なるものがわたしに>>おける<<神である善である( したがって,俗的にはわたしこそが善であるように見える事態 )事を指摘しているのは興味深く思われる.
第六章 人はいかにして最善で最高貴なものを,ただそれが最善である故にというだけで,最も愛すべきか。
[ Wie man das beste vnd das edelste aller liebst sal haben, allein dar vmmb das eβ daz beste ist. ]

ボエティウスは『哲学の慰め』において,「われわれが最善のものを愛していないのは大いなる欠陥(gebrechen)である」*1,といっている.

*1 訳注によれば,マンデルは第三巻散文二「実際人間の精神には真の善への欲望が自然的に植えつけられている. 然るに,誤謬の迷妄がそれを外らして,偽の善へとつれていく」の,ジーデルは(上記引用に「欠陥」ないしそれに近い語がないことから)第三巻散文十二「『然らば,』と彼女は結論する,悪は無なのだ(Malum igitur). 何事をも為し得る者がそれを為し得ないのだから』」の,不完全な引用ないしは言及だ,としているそうである.

ボエティウスの上記の主張は妥当である.
なぜなら,最善のものは最も愛すべきものであるから*2.
そして,この愛においては,有用か無用か等々〔という諸価値〕は顧慮されてはならない, そうではなく,最も高貴で最善であるものが,それ以外〔の理由に〕によってではなく,最も愛するべきものである. 

*2 以下,現代人からすれば根拠を欠く断定的な論述が続く.
なぜ最善なるものこそを人は最も愛すべきであるのか,(当時の哲学的常識なのだろうが)不詳.

これ〔最善且つ最貴によっ〕て,人は自分の生を,内側からも外側からも*3正しくすることが可能である.

*3 原注によれば,「すなわち,自分の外的および内的な生活を」従がって,その人の生の全面を,ということになる.

外から: なぜなら,永遠なる善が被造物の内により〔多く強く〕輝き働く方がより望ましいから. 
いかなるものにおいてであれ,永遠なる善が輝き,光り,働き,認識され,愛されることが多いほど,被造物のなかでより善い. 
よって,人間にとっては,〔より善であるほどより愛すべきなのだから〕最善の被造物こそ最も愛すべきであり「そして人間はその被造物に頼り,それと合一すべきである.」*4
そして,最も多く頼り且つ合一すべきは,神に帰せられ神に属するもの,又は神のものであるもの(=善・真理・平和・愛・正義など)である. 外の人は,これらによって自らを正し,これに判する物を退け避けるべきである.

*4 (優れたにせよ)被造物との合一の推奨というのは,珍しい思想ではないだろうか. あるいは,続いて述べられる「神に帰せられて,神に属するもの」どもが神そのものではないかが故に,被造物と考えられているのだろうか――文脈上も,原理上も考えにくいが.

しかし,飛躍をし完全なもののなかへ飛び込むならば*5,〔以下のことを〕認め味わう; 完全〔で全体的な〕なものは不完全で部分的なものに無際限に無限に無量に高貴で善い事,永遠なるものは過ぎ去るものに勝る事*6,源泉/根源はそこから流出する/し得る一切の物に優れている事.

*6 単に内的に改善を行う者一般に就いての言及ではなく( 従がって,内的な改善一般に就いての議論は本章では欠落しており ),霊における神秘的合一を味わうこと,ウニオ・ミスティカを経験した場合について述べられているのであろう.

*5 ギリシァ的・古典的な価値観だが,我々にとって説得力があるだろうか?

完全者・全体者を認め味わったものは,不完全者・部分者は味ぬけで不味く〔感じる,それゆえに不完全者・部分者を〕「処分」するであろう.
しかも,最貴・最善者が最愛者であるべきならば,まさに〔不完全者・部分者の処分・破棄という〕そのことがなされねばならない.
第七章 : 人間が永遠と時間を見る二つの霊的な眼について。 そしていかに一方が他方によって妨げられるか。
( Von czweien geistlichen augen, mit den der mensch sich yn die ewikeit vnd yn dy czeit vund wie eyns von dem andern gehindert wirt. )

[ キリストの魂には(右と左,計)眼が二つある,と言われ書かれていることに注意してほしい.]*1

*1 誰の発言・叙述か不詳.

始めに,キリストは魂を創造された(時に)・・・*1.
( In dem anbegynne, do sie geschaffen wart, kert sie das recht auge yn die weichkeit vnnd・・・)

*1 (キリストの人性としての肉体ならともかく,)キリストもしくはキリストの魂ですら,それにはじめがあり,想像されたものである,というのはアレイオス的異端の鮮明な表明ではないのだろうか? 当時のスコラ哲学もしくは神秘主義神学では,このような言表が許容され得ていたのであろうか?

キリストの魂の右の眼: 
  神の存在と完全性の観想と受容・不動という内なる人の歓喜・喜悦
キリストの魂の左の眼
  被造物を観,善悪・貴賤の区別とそれによる外の人の修正・受苦悲痛労苦

ここで,キリストの右眼は,キリストの外なる人に起こった何事にも妨げられず,動揺させられもしなかった.
だから,キリストが,外なる人に従がって鞭打たれ十字架に懸けられた時,内なる人(である魂)は右眼によって歓喜と喜悦の受用にあった.
キリストの外なる人(である魂)は,左眼によって,「その働きが,すなわち外へ向かうその魂に相応しいすべてのことが,内的なものによって妨げられたりあるいは減じられたりすることは決してなかった」
結論: キリストに於いて,その魂の一方,すなわち内なる人と外なる人,が他方に注意を払うことはない.

人間の被造的な魂*2にも二つの霊的な眼がある.
一方は永遠を見る能力
他方は時間と被造物を見る,そこで貴賤・善悪を認識,身体に生命を与えてそれを整え支配する能力

*2 キリストの魂は,普通の意味での被造性をもつのではなく,万物に先立って「生まれる」「流出する」等,半アレイオス派的立場をド神の著者は採っているのかも知れない.

人間の魂の二つの眼は,その働きを一緒にすることは出来ない*3.

*3 キリストの二つの眼が,ある行為に於いて,それぞれの眼でそれぞれの見様に従がって,その出来事を観ていたのとは対照的である.

だから,右の眼で永遠を見るべきであるならば,左の眼はその全ての働きを断念し使用を止めるべきである.
対して,左の眼がその働きを「外に向かって」即ち「時間と被造物を扱うべきであれば」*4,右の眼はその見る働きが妨げられる.

*4 勿論ド神の著者は,人は左の眼を使うべきではない,と考えているのであろう.
第八章 : 人間の魂は,身体の内にある限り,いかにして永遠なる至福の前味を受け得るか.

[ Wie die sele des menschen, die weile sie yn dem leibe ist, magk entphaen eyn vormagk ewiger selikeit. ]

人の魂が身体の内にある〔この生にある〕間に,永遠を観る事,永遠の至福を(前駆して)味わう事は可能であるか,という問がある.
一般には,否,とされる.−−これは以下の条件の限り正しい. すなわち,魂が身体と身体に属する一切のものを見,時間と他に被造物を見て,それにより>>自らの姿を歪め,それと混じって自らを多様化*1する限り<<において.

*1 訳語が適切なら,単純なものこそ神的なもの,という神学的前提において思考されている.

対して,魂が一切の像( 被造物わけても己の魂〔の被造性それ自身〕)から純粋に離脱していれば,原理上は可能である.
しかし,そのような完全な離脱は現世では起こりえないから,結局決して至福の前駆は有りえない,と答える人がいるであろう.

しかし,擬ディオニシウスはそれが可能であることを教えている. なぜなら,彼がティモテスに書いた手紙の中でそのような離脱に在ることを勧めており,もし彼が現には現世ではそのような離脱がありえないと考えているなら,そのような勧奨の手紙を書かなかったであろうから.
彼が薦めるのは,神の秘儀を観想するために,感覚・感性・被感覚者・理性・理性的働き・被理性把握者全てを>>それが被造的なものであれ非被造的なものであれ*2<<放棄すべきである,また,汝自身から離脱し先の一切に無知になり,一切の存在や認識を超越しているもの〔すなわち神〕と合一せよ,ということである.

*2 何故,非被造的なもの〔すなわち神的なもの〕をすら放棄すべきか不詳. 敢えて推測するならば,自己が把握し保持している限りの非被造者は,それ自身は被造物であることを免れ得ないからか.

また,ある師は,擬ディオニシウスが薦めた完全なる離脱は可能であり,「それはまた実によく一人の人間に起こるため,彼はそれを,見たいと思う度に見ることが習慣になるほど」*3だ,と語っている.

*3 エックハルトかタウラーのことであろうか?

このような永遠の一瞥は,すべての被造物が被造物として果たし得るいかなることよりも,より神に好まれる,そして,何よりも高貴ですばらしいものである.
第九章 : 神がすべての被造物を用いてこれまで何を行って来られたか,あるいは何を行わんとしているのか,を知るよりも,神が人間によって何を行おうとしていられるのか,あるいは神が何のために人間を役立てようとしていられるのか,に気付くことの方が,いかに人間にとってより有益でより良いことか。 またいかにして至福が神と神の業によるものであって,被造物によるものでないか。

[ Wie das den menschen nutzer vund besser sey, das er war neme, was got mit ym wircken w o l l e , adder wor czu en got nutzen wil, dennne ab er wuste, was got mit allein creaturen ye gewurcht hat adder ymmer wicken wil, vnd wie zelickeit alleyne leyt an gote vun an seynen werckenn vnnd nichit an der creature. ]

人は認め知るべきである,一切の徳と善は,そしてそれが神自身であるところの善は,それが魂の外にある限り,人間と魂と決して徳あるもの・善なるもの・至福なるものにすることはない,ということについて.
罪や悪に就いても同様に知られるべきである.
其れ故,下記(�顱砲茲蝓放髻砲�(何れも良いことではあるが)はるかにより良いことであろう.
(�顱冒盈匹農擦覆訖佑燭舛�何を行い何に苦しんだか,彼らがどのように生きたか,神が彼らに於いてまた彼らを通じて何を行われたり何を望まれたのか,或いは尋ね或いは知り或いは認識すること
(�髻某祐屬亮�分自身の生が何でありまたどうであるか,神が自分に>おいて<何であられるのか,何をなされたいのか,何をなされるのか,神が自分を何のために役立てようとしていられるのか,を知り認識すること
故に,「外へ出ることは決してそれほど良いことではなかった,内に留まることの方がはるかに良い」*1という言が妥当する.

*1 訳者はこの表現に,エックハルトのしかし彼ほど透徹していいない残響を見出している.

また,人は知るべきである,永遠の至福は一なるもの〔即ち神〕のみに向けられて在るのであり他のいかなるものにも〔向けられて在ら〕ない,という事を. 

だから,人間または魂が,至福であり若しくは至福に ナ ル べきであるならば,一なるものだけが魂の内にあろうとするのであり,また〔現にそう在る〕のでなければならない*2.

*2 即ち,魂の中にいかなる被造物・被造性の残余があってもならない,という前章までのテーマ.

人は「一なるものとは何か」と尋ねるかも知れない. 
わたしは言う,
それは全てであり且つ全てを超えている*3,そういう善なるもの若しくは善なるものになったもの*4である,
名付けたり認識したり示したりすることが出来るような善なるものではない.

*3 訳注にあるように,「一」にして「善」はプロティノスを想起させる. ただし,「全てであり且つ全てを超える」は擬ディオニシオスをより連想させるかもしれない.
*4 原注によれば「それ自身を善いものと認識させるもの」の意.

この〔一にして善なる〕ものは、「すでに魂のなかにある故に,魂のなかに入る必要はない. そのことはしかし知られていないのである」*5

*5 多くの神秘神学に於いて,魂が魂の外部に超越する神なり一者なりとの合一を説くのに対して,ド神の著者は「わが内なるキリスト」「聖霊の宮」との伝統を徹底して,神秘的合一をせねばならない相手が実はすでに自己に内在していることを主張しているようである. だからこそ,その既に内在している神との現実の合一を,妨げる魂の内部の被造物・被造性を放逐することが強調されてきたのであろうか?

「人はそれ<一なるもの>に至るべきであるとか,それは魂のなかへ入るできである,と言われるが,それは,人が一なるものを捜し求め,感じそして味わうべきである,ということ」なのである.
それが一なるものであるから,また多様性よりは唯一性と純一性の方が優れている,なぜなら,至福は多または多性によるのではなく,一なるものと唯一性とによるから.

至福は,被造物若しくは被造物の業によるのではない,それは唯神と神の業だけによる.
其れ故,〔至福を待ち望む者は〕,神と神の業だけを待つ,あらゆる被造物とその業を放棄する,中でもとりわけ私自身を放棄するべきである. 

神の一切の業と奇跡は,それが「わたしの外にあり,私の外でなされる限り」わたしを至福にしない,それが「私の内においてあり,そしてなされ,そして認識され,そして愛され,感じられ,そして味わわれる」限り私を至福にする.
第十章 : いかにして完全な人間は,自分たちが永遠なる善にとって,人間にとっての手であるかのようにありたい,ということ以外何も求めないか. またいかにして彼らが地獄に対する恐怖と天国への欲求を失ったか.
[ Wie die volkommen menschen anders nichit begern, dennne das sie dem weigen gute mochten geseyn als dem menschen seyne hant ist, vnd wie sie vorloren haben vorcht der hellen vnd begerunge des hymmelrichs. ]

真の光によって霊的な照明を受けた人たちは,自分達が求め或いは選ぶことのできる全てのものは,被造物としてある限りの被造物によって( von allen creaturen yn dem als creatur ),これまで求め或いは選ばれ或いは認識されてきたものに比べて,何でもない( nichits ist )ものである*1ことを認識している.
其れ故,彼らは,一切の欲求と選択とを捨てて,そして自分自身とすべてを永遠なる善に委ねまた任せる.

*1 意味不詳.

霊的な照明を受けた人の心の内になおも残る欲求がある,それは,私は永遠なる善にとって人間にとっての手のようでありたいと言えるほどに,自分自身をその永遠なる善 即ち より進んだ認識・熱烈な愛・明らかな心地よさ・完全な服従と従順へと前進させ接近したい,という欲求である.
彼らは,自分達が永遠の善にとって十分でないことを恐れる,かつ,全ての人々の至福を求める.

それでいて,彼らはこのような欲求に拘束されない,また,それを我が物にすることもない. 何故なら,彼らは,この欲求は人間のものではなく永遠なる善のものであることを認識しているからである*2. 何故なら,善いものすべてについて,人はそれを我が物としたりそれに自分が相応しいと思ったりしてはならず,それは専ら永遠なる善だけのものだからである*3.

*2 ド神の著者によれば,善を求める欲求にも真に照明を受けた人は拘束されない. この点は聊か放下と似た点がなくもない. 但し,ド神の著者における神の善なる働きによる欲求と個人の人間的欲求等の関係・位置づけの心理学/霊魂論は不鮮明である. やや体験に流されて,教理学的反省が疎かになっていないか,今後を注意する必要があるかもしれない.
*3 ここでも,善なる物の神への帰属が存在論的事実なのか,個人の所有への倫理的抑制の表現に過ぎないのか,不鮮明である.

照明を受けた人々は,永遠なる善への完全な服従と従順の内に生きる. だから,苦痛或いは地獄に対する恐怖も,報い或いは天国への希望も失ってしまっているほどの自由にある*4. このあり方こそ,キリストにおいては完全に成就し,キリストに倣い従う者においては多少の差はあれ限定的に成就していることである. 永遠なる善は我々を最も高貴な物へ向かうように指示している,そして真の霊的な貧しさ(恐怖と希望からすらの自由,すなわち,ただs善なるが故に善に近づきたいという欲求)よりも高貴なものはない.

*4 恐怖と希望とから善への接近をなそうとする限り,人は恐怖と希望という感情から自由な存在ではないからである.


「ところが,われわれにそれが差し出されても,われわれはそれを望まない. われわれは,自分自身に於いて大いなる味わいと甘美そして楽しみを見出せるほどに,いつもおだてられていたいと思う.」
そうあるときは,われわれは幸せであ〔ると感じ〕神を愛する.
しかし,そうでなくなれば,われわれは不幸せであ〔ると感じ〕,神を忘れ,見捨てられたと思い込む. −−これらは,人間の大きな欠点であり,悪いしるしである. なぜなら,真に神を愛する人は,富裕・困窮にかかわらず,苦楽にかかわらず,同じように神を愛するものだからである*5.

*5 真に神を愛するならば,永遠なる善(即ち神)への接近以外のいかなる欲求も残っていないはずであるから,貧富苦楽は神への愛の多寡に影響を及ぼすものではないはずだからである.
第十一章 いかにして義なる人がこの世において地獄に入れられ,そしてそこにおいて慰められ得ないか,またいかにして義なる人が地獄から出されて天国へ移され,そしてそこにおいて悲しまされ得ないか.
[ Wie die volkommen menschen anders nichit begern, denne das sie dem ewigen gute mochten geseyn als dem menschen seyne hant ist, vnd wie sie vorloren haben vorcht der hellen vnd begerunge des hymmelriches. ]

キリストの魂は,天国に行く前に地獄に入らなければならなかった. 人間の魂も同様である.
いかにしてこのようなことが起こるのか: 人間が自分自身を認識して「この世に於いて地獄に入る者*1は,この世の後で天国に入る」

*1 ド神の著者は,この世を地獄と考えているようである.

人間が自己を認識するならば,下記のことが判る:
自分は非常に悪く,神からも被造物からも自分が得うる慰めに値いしない,永劫の罰を受けて見すてられているとしか認められず*2,そのことにすら値しないと思う.

*2 この記述は*1の理解を補強する. が,するとド神の著者は現世否定論的二元論者ではないか?との疑いが生じる. 後の叙述がこの問題にいかに対処しているかは期待すべき点であろう.

彼は,自分がこの世に於いて起こり得るあらゆる苦しみにも値しない,あらゆる被造物が彼に苦悩と苦痛を与えてもそれは当然であるどころかそれにすら値しない,と認識する.

彼は,自分が永劫の罰を受けるべき身であること,「神からも被造物からもいかなる慰めもあるいは救いも求めようとせず,また求めることも出来ず,むしろ慰められず救われずにいたいと思い*3」

*3 実存的主観的表現としてでなければ,自己の罪責認識にとどまらない,自己の被罰欲求は宗教的マゾヒズムの匂いを感じる.

彼は,自分の永劫の罰も苦悩もつらくない,何故ならそれは正当で当然なこと,神に逆らうのでなく神の意志であるから. 其れ故,かれにとってそれは好ましく幸せである*4.

*4 *3で感じた疑念を解消する. ド神の著者によれば,「慰められず救いも求めない」状態が好ましいのは,自己の罪責性に対する神の(義なる側面?の)意志に一致するからである.

彼にとってつらいのは唯自分の罪と悪とである,なぜなら,それは神に逆らっていることであるから. かくして,彼は〔この世において〕悲しく不快な気分になっている. 〔この,この世に於ける自己の罪と悪への認識に基づく悲しみこそ〕罪についての真の悔いである.

それで,上記のよう〔な形態において〕この世において地獄に入る*5ものは,この世のあとで天国に入る.
また,この世に於いて時間的な事物から生じた或いは生じえる一切の楽しみと喜びに勝る天国の〔楽しみと喜びの〕前味を,この世において味わう.

*5 *2で提出した疑問はここで解消される. 「この世は地獄である」とは「この世において自己を地獄の責め苦にあるべきものであることを〔単に認識するだけでなくむしろ追体験/前体験? して 〕改悛する」ことであって,この世が存在的に地獄である,という二元論的主張ではない.

「人間がこのように地獄にいる限り,この人を慰めることは誰にも出来ない,神にも被造物にも. それは地獄にはいかなる救いもない,と書かれている通りである.」

神は,人間をこの地獄に放置せず,自らの許へ引き取られる.
かくして,人間は,永遠なる善だけを求め,永遠なる善は全てに勝る良いものであること,すなわち歓喜,平和,喜悦,安息,満足であって,それらこそ自分が求めるものであることを,認識する.
この認識が成立することによって,人間が,永遠なる善以外のものを求めず,自分自身を重んじることもなくなれば,そのときには,永遠なる善の平和・喜悦・歓喜・楽しみなどは人間のものとなる,即ち,人間は天国にいる.

「この地獄とこの天国とは,この世にいる人間にとって二つの良い*6確実な道であり… それは,この地獄は消え失せ,天国は存続する」

*6 天国のみならず地獄が「良い道」であるのは,この世に於いてまず地獄の状態に自分の身をおいてこそ,改悛によって神に引き取られ天国に入ることができるから,すなわち天国への道程だからである. 
第十二章 : キリストが弟子たちに最後に与えられた正しい,真の内的な平和とは何か. いかにして,人間は諸々の像を時に早々と捨ててしまうのか? また,人間を完全へ導く三段階について.

[Capitulm 12 : Was rechter, warer. ynnerlicher frede sey, den Cristus seynen jungern zcu letzt gelaβen hat.
]
多くの人々は言う,自分達には平和・安息はなく苦境・誘惑・苦難・苦悩がある,と〔そして,だからこそ,なかなかよきキリスト者であることができないのだ,と弁明するのである. 〕

しかし,悪魔ですら物事が自分の意志と欲のとおりになれば平和になるであろう〔 だからといって,その場合,悪魔がよきキリスト者になる,というわけではない. したがって,前者の弁明も無効なのである. 〕

其れ故,我々は,キリストの「私は,私の平和をあなたがたに残し,私の平和をあなたがたに与える.・・・私はこれを世が与えるように与えるのではない.」という言葉は注意して受け取られねばならない. 〔なぜなら,上記ニ事例から明らかな様に,キリストが与えると言われた「平和」は,その語で,われわれが屡表象しがちな自己の欲求・願望の充足状態を,つまり「身体的で外的な平和」を,意味しているのではないからである. 〕

〔 そうではなく 〕キリストは内的な平和を言っている〔弟子たちに残している〕のである. この内的な平和は「人があらゆる誘惑や苦境,苦難,悲惨,または恥辱あるいはこれに類するものにおいて快活で忍耐強くいられるように,このようなものすべてを突き破り,突き通る」もの〔つまりこの世の苦しみに打ち勝つ力〕なのである. 
この状態に,キリストの弟子たちと同様,全ての出世間的な神の友,キリストに真に倣い従う者もあった. 
この状態を愛し,熱心であり,真剣であるものは,「神自身である真の永遠なる平和( ewigen friede, der do got ist )」を被造物に可能な限り十分認識できる.

[ Capiturm 13 : Wie der mensch den bilden etwas czu frue vrlaub gibt. ]
XIII 
タウラーは言う,真理を〔感覚的な:山内〕像*1から受け取らないうちに「早々と像を棄てる人が世の中にはかなりいる」(タウラー説教集)と.
彼らは,〔早々と像を棄てることにより〕自分自身をたるませるが故に,殆ど/全く真理に達しない. 其れ故,人が熱心に心がけるべきことは,神の業とその要請,励まし及び戒めであり,人間の業,要請〔or 人間の業の要請〕または戒めではない*2.

*1 像が何を意味するか不詳.
*2 単に神に由来するものを求めるべきで,人に由来するものを求めるべきではない,というだけの戒訓か. それとも「人間の業,要請,または戒め」で特定の事柄が想定されているのか,不詳.

[ Captiturm 14 : Von dreyen graden, die den menschen furen czu volkommenheit. ] XII

XIV 
人は,予め浄化・純化・脱却しているのでなければ*3,霊的な照明を与えられ得ない. 加えて,人は,霊的な照明を受けることなしには,神と一にされることはありえない. 〔 従がって,人は,予め浄化・純化・脱却しているのでなければ,神と一になることはありえない. 〕
この神への合一のための「三つの道( drei voreynunge )」*4がある,浄化・照明・合一 である.

*3 照明は神が与えるとして,浄化・純化・脱却は神の働きか,それともこの準備は人の働きか.
*4 三つの段階の意であろう.

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