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哲学・思想 読書ノートコミュの「奔流」ギュイヨン夫人著

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ギュイヨン夫人著,村田真由美訳,「奔流」,『キリスト教神秘主義著作集 第15巻』,135〜264,ページ所収
dite Mme Guyon, Jeanne-Marie Bouvier de La Motte, " Les Torrenes Spirituels ",1682

コメント(17)

第一部 
告白師に充てた著者の手紙

 書くことを薦められたものの書くことはわかってないから,神様の導きにゆだねようと思う. 書くことが自分にわかっていないのだから,その中の善い事はすべて神に由来するはずだ. 「内容について考えを抱くことがあれば,それはかえって気が散っているしるし」だ.

 さっそく,自分を空無に化して,神をして自分を満たさしめよう,というキエティスムの一つのパターンが出ているように思われます. 果たしてこの主張が神学的テーゼからきた装いなのか本音なのかは興味のあるところですが,註によるとギュイヨン夫人は自動筆記状態で著述をしていたのだそうです. だとすると,他のキエティスムとの関連が気になります. 神秘家も大抵は執筆の際には神秘体験からこの世に戻ってきてその理性の基で著述をするのだから. また,プロテスタントのキエティスムや敬虔主義に,この没我がどう関連しえるのかにも好奇心を抱いてしまいます.
第一章
1 魂が神に出会い,改心し,告解と悔悛とによって第一の浄化を経験する.
すると,神はその魂に,神に立ち返りついに合一したい,との望みを与える.
すると,その魂は,私はこの世の享楽のためにではなく,戻ろうと努めねばならない中心や目的がある事それ以外の場所では本当の安らぎを得られない,と感じるようになる.

 神への出会い,回心,悔悛は魂の行うこと,対して魂をして神を希求せしめることは神の行うこと,という半ペラギウス主義だろうか. いずれにせよ,立ち返りは神に相対する信仰ではなく神との合一をもって至上のものとされる.
 この神への希求から,魂の真の目的と場所とを魂は見出す.

2 この望みは魂の中に刻み込まれるが,神の計画によりその深浅が人によってある. しかし,何れの魂も,川が海へと流れ下るがごとくに,神へ魂のある場所へと流れ下ろうとする. 川は三種に大別され,重々しく流れる,より早く流れる,奔流のように激しく流れいかなる流れの妨げも止め得ない,この三種である.

 神の計画は,魂の中に神への希求・魂のあるべき中心に戻ることの希求をも含むのか,その希求を持ったと時の人によるその希求の深浅の差異についてだけ定められているか不明である. 
 また,三種というのも,決定的な理由があって三分しているのか,便宜上三分しているのか,この段階では不明である.

3 三種の川の流れのように,三種の魂の完徳への前進がある. 
 ゆっくり進む魂は,目的地に到達しなかったり,他者に依拠しつつ進み目的地に到達するのに時間がよりかかったりする. より早く進む魂は,自らの魂をより早く進めるのみならず,「心地よく役に立」ち沢山の「小川」をも目的地(たる海)へ連れて行く.
奔流のごとき魂は,猛々しくて容易に航行しえず信頼を寄せることもできないまま急速に目的地へ流れ下る.

 第一の魂は,他人に頼ることがあることと,目的地に到達できない可能性があることとをのべる. 不定成性のようなものだろうか.
 第二の魂は,自ら速やかに目的地に至るのみならず,他の信仰者の手引きや指導者としても有益なのであろう.
 第三の魂は,最も早く目的地に到達するものの,その目的のための手段や過程の過激さの故に,他者の手本や指導者には容易にはなり得ないのである. 正受老人を思い出させる.
第二章
 黙想と名づけられる能動的な第一の道について

1 第一の道を歩む人々 
 回心後,黙想・隣人への愛徳行為・苦行に励んで身を清め,大罪・小罪とも拭おうと努める. 
 ただし,これらの努力は本人の力にだけより頼んでなされる.
 よって,「その歩みは弱弱しく,微々たるもの」である.

 なんか人によってはペラギウスの臭いを感じとるかもなぁ. そもそも,「本人の力にだけより頼んでなされ」ているのか(それとも神/キリスト/聖霊の力によって或いはとともに共働でなされているか)どうかという事実は,本人が自分の力だけによってそうしている/彼らの力に頼っているの何れの認識・自覚を持っているかとは別物ではないのか? だとすると,この分類は,事実に従ったものなのか,それとも自己認識に従ったものなのか.

2 この魂は「水源があまり豊かでない川のようなもの」だ. 日照りで水量が減り乾季に流れが干上がり勝ちであり流れが細る. この川はそのままでは他人からあてにされず,利用の必要の際には改修工事を行い「幾つかの川筋をいっしょにすることによって」「かろうじて小さな船の航行」を,第二の魂の川のように可能にするだろう.

 つまり,自分により頼んだ行を専らに行う人は,僅かな試練でもその行ないしはその成果はやせ細り変動が激しい. だから,そのままでは他者は彼女を師父とすることはできない.「幾つかの川筋をいっしょにする」とは,共同生活のようなものを考えているのか,幾つかの行を纏めた総体を人為的に構成することを考えているのかよくわからない. が,いずれにせよ,彼女のような魂のあり方の人も,魂か行かその結果かに加工をすることによって,幾分かは有益であり得る.
3 第一の魂は,内面的信仰生活には熱心でなく,働きは外に向かい黙想より先すすまない事が多い. よって,偉大な業にむいていないので,人から頼りにされることは少なく,人に分け与えることが出来る〔霊的な〕ものも持っていない. 
 それでも,彼らも有益である. 
 第一は,神が,「恩寵の池をいくつか空にする」事によって,施しのようなささいな事柄に用いうるから.
 大には,「宗教という名のもと何人か寄り集う」ことにより,「わずかばかりの小船なら支えられるような力」を手にする.

 まずキエティスムスの価値観に従って,働きが外に向かうことをより小さなこととする. また神への接近の第一段階である能動的精神行為である黙想どまりだ,とする. すすんで,そのような魂の人は,他人に頼りにされず他人に分け与えるものもない,といわれるが,これはキエティスムの価値観からは,という限定がかかっているであろう.
 それでも,おそらくは,神の働きがその素質の上下に関わらず普く乃至は少なくとも多くに行き渡ることを念頭におき,また,この人々も全く魂の向上に背いているわけではないことからして,彼女らも多少は神の支援により多少は外的な行為等において有益であり得ることを認める.
 とともに,これが何を意味するか知りたいが「幾つかの川筋をいっしょにする」という先の比喩の内実であろう「宗教の名のもとに何人か寄り集う」ことによって,多少より強力な宗教的助力の(おそらくは内的な)力を手にすることを認める. この「寄り集う」とはどのような形態を考え,それがどのようなメカニズムで有益と考えているのだろうか?
4 
この道をたどるものでも魂は聖なる所へ近づきうる. 
それどころか,こうした道すらたどらなくても,「大変徳が深い」という評判を手に入れる魂も数多くある.

彼女たちは,美貌で信徒から賞賛されることが多い.
彼女たちの中には,死の際に「与えられた立場でそれなりに立派に努めた」褒美として「受動的光」を与えら得るものもある.
しかし,多くは自分たち自身の枠から外に出ようとしない,また,「与えられる恩寵や光も,被造物のレベルにとどまった」能力相応で人にとまる華やかなものであることが多い.
そして,このような恵みの華やかさは,魂をしてその恵みに魅了され,この世のより重要なものを看過する.

まず,第一の道をたどるものは聖なる所へ近づきうる,好ましさがあることが肯定される. 次の言が肯定的か否定的か判別こんなんなのだが,第一の道すら歩まぬ者についての「大変徳が深いという評判を手に入れる」とは,現に徳がそれなりに深いという肯定なのか,評判倒れで中身が伴わない否定なのか,これが不明である.

何れかの者たちは,美貌を兼ね備える,とされる.これは,美貌がより深い道へと人が深化することを阻害する要因であることを逆説的に表現したものだろうか?

彼女たちの中には恩寵を与えられ,「受動的光」というより深い段階へ死に際に深化しさえし得る,とされる.
だが,そのような人は一部であり,多くは能動的で自己的に内閉してしまう.神が彼女らに与える恩寵や光も,浅はかな彼女らに相応しい浅はかで華美なものに過ぎない事が多いとされる. これは,神への批判的なコメントにも思えるのだがどうだろうか?

いずれにせよ,被造物のレベルにとどまり,人目にとまりやすく,華やかな恩寵や光は,(おそらく,それほど魂の深化していない人を魅了するが故に)彼女たちの魂をその恵みのとりこにしてしまう. その結果,表層的な水準の恵みを越えて自己の魂を深化させることを恵み自体が阻害してしまうのだ,とされる.

この批判的な口吻は,上記の人々に具体的な誰か(または集団・階層)を念頭に置いているのではないか,と思わせる.
5
 <水源があまり豊かではない川>即ち「回心のあと,黙想や隣人への愛徳の行為に熱心に励み,苦行にも進んで身をさらす」が「完徳を目指してゆっくり前進する魂」のなかでも,つまり,回心し完徳を目指す三派の中でもっとも劣る効率の魂でも,「最も恩寵に恵まれ」た者は徳の高い行いに挑戦する.
 彼女らは,神の意を迎える工夫をし,神へ向かい神にとどまるための努力をする. が,これらのことを,<<神の助けや協力を頼み>>はするものの<<あくまで彼女たち自身の力でやりとげよう>>とする.
 「これらの魂たちの内部では,彼女たち自身のわざが神の御業に優先し,神は魂の協力者の地位しか与えられない」.

 自我の努力に重きを置くタイプの回心者のあり方についての記述(とその行き先への暗示.) 仮に,以下では「彼女たち自身」を(自己・Selbst全体から切り離された「自我」,意志的自我,等とみなして読んでみようかと思います――露骨に八木流(笑). それでも,自我の業で全てがまかなわれるとはいわれず,自我の業の協力者としての神がいる,とされている.
 なお,「彼女たち自身」と「(彼女たちの)魂」の関係が今のところ不明.両者は同一なのか,「魂」は彼女たち自身の自我なり神の働きなりが働いたり場所を占めたりするトポスなのか,そのあたり今後の記述をまちたい.
6 
 「完徳を目指してゆっくり前進する」が,「回心のあと,黙想や隣人への愛徳の行為に熱心に励み,苦行にも進んで身をさらす」魂の中の最も恩寵に恵まれた魂を,もっと段階の進んだ祈りに導くことは不成功に終わる. その理由は:
 第一に,彼女たちが神の光を受けるのは神のための働きをしている間に限られるから.(したがって,神のための働きをしない祈りの段階に導けば,神の光自体を失ってしまう:ここでは,神のための働きをしない祈りが高次の祈りであることが前提されている.)
 これらの魂は,論理や自己救済の偏重,「張り詰め力みかえった活動力,」「何か新しいことをしていないと気が済まない性癖」や「信仰の日でり?? に陥った場合の,そこから逃れたい,欠点を免れたいという焦燥感など」が他の特徴である.


6 では, 第一の魂の優れたものですら,それは常に信仰的活動によって神の光を受けているため,受動的に神の光を受けることの不可能性が語られる. さらに,それらの状態としては,自力救済思想とそこから派生する論理・活動,さらには活動していないことができない「性癖」すなわち落ち着きのなさや非正常な渇望が,好ましくないものとしてのべられている.
 くわえて,「信仰の日でりに陥った場合」というわかりにくい事例がのべられている.その際には,「そこから逃れたい,欠点を免れたいという焦燥感」を感じるとされていることからして,具体的欠陥を持った事態なのであろう.( つまり,単に恩寵を感じられないとか空疎な思いがするというのではなく,何か不道徳なことを思い乃至は行う等の事態なのではないか. ). いずれにせよ,おそらくギュイヨン夫人の力点は,第一の中の優秀な魂は,「信仰の日でりに陥」る事を特徴としてあげたいのではなく(おそらくそれは第二以降の魂にも経験されうることではないだろうか,と推測する:宿題),その際にそこからの脱出への「焦燥感」にかられる,という活動の空転性の心的顕現を問題にしているような気がする. これも宿題.

 当然,受動的な信仰にこそ信仰の深みはあるのだ,という方向にギュイヨン婦人は行きたいのだろう.
7
(1) 「完徳を目指してゆっくり前進する」が,「回心のあと,黙想や隣人への愛徳の行為に熱心に励み,苦行にも進んで身をさらす」魂の中の最も恩寵に恵まれた魂は,色変わりが激しい,つまりその性質の変化が激しい. 「ある時は光り輝き,ある時はうち沈んで呻吟し,絶えず揺れ動」いている.
(2) 彼女らの祈りの特徴は力強さである,そしてその〔力強い祈りの?〕支えである力の喪失は,(その原因が魂の努力の不足であるにせよ神の働きかけの不足でああるにせよ何れであれ)「勇気を失」うとか,「なくしたものを自分の手で探し出すために極端な峻厳さや行過ぎた努力に走って自分自身をだめ」にする結果を齎す.
(3) この魂は(他の魂と異なり)気晴らしが心の平和を失わせる,さらに,気晴らしを敵として不平をいう.
(4) また,この魂は,些細なことにこだわりがちであり,「しっかりした理性的精神なしには」進むべき道を見失いやすい.

(1)
 もっぱら自らの自我の努力に黙想的行為が基礎付けられているから,自我の心的状態如何で活発になったり沈鬱になったりという状態の変化が,この種の魂においては激しい,のであろう. というのは,自我の心的状態というのは,それ自体不安定なものであるから. すなわち,人のあまり頼りにならぬ心に基礎付けられた信仰的魂であるから,心の頼りなさや不安定さに応じて行いや表出も頼りなく不安定なものにとどまるのである.

(2)
 「力強さ」の意味はいまひとつ不詳である. あるいは,自我の営みであるだけに,自我の高揚に身を任せる一方で同じ自我が感じ取る不安を押し隠すためにも,ひたすら声高に熱心に「祈る」という状態を指摘したものだろうか.
 「支えとなっている力が涸れる」と二つのいずれかの途で魂は劣化する. その第一は「勇気を失う」ことである. これはわかりやすい. 自我の高揚を支える力が失われたとき,自我は高揚そのものを失い基盤のない不安定の中に放り出されるのであるから. 第二は,喪失から直ちに失望・不安に落ち込む代わりに,なんとしても喪失したものを回復しようと,必死の努力をするが,そのあまりの厳しさのゆえにかえって自分をだめにしてしまう,途である. このだめにしてまうのは,それが自我の営みだからかえって自己全体との乖離を深めるからか,単にその峻厳さに肉体や精神が耐え切れないからか,は不明である.

(3)
 この魂にとっては,常に積極的な宗教的行為を行っていることそれ自体によって自我を満足させている. したがって,気晴らしのような行為は,自我の宗教的完全性を損なうものとして,敵視する. 熱心な信徒によくいるタイプのひとつに思われる.

(4)
 なぜ,細かなことにこだわり勝ちにすぎるのか不明. あるいは,信仰の大道が見えていないので,鳥瞰的視野からの評価なくして各個別箇所の十全たることにのみこだわる,と考えられているのかもしれない.
 「しっかりした理性的精神なしには」との条件は,さらに不明. そもそも,ギュイヨン夫人が考える「理性的精神」自体が,少なくとも今の段階では不明である.
8
 「完徳を目指してゆっくり前進する」が,「回心のあと,黙想や隣人への愛徳の行為に熱心に励み,苦行にも進んで身をさらす」(魂の中の最も恩寵に恵まれた)魂を,受動的祈りの方に向けてはならない.
 なぜなら,そのような魂を受動的祈りに向ければ,神に向かう手段を取り上げ彼女たちを破滅に導くだろうから. 
 彼女たちにとっては,力強い祈りこそ唯一の神に向かう手段であり,他の諸手段をもたないのだから.
 彼女たちにとっては,船も馬車もない歩く旅人にとっての足にあたるものが,>>活動<<なのだ.

 ゆっくり進む魂は,気晴らしを持つことができず常に能動的に活動することによってのみ,>>ようやく<<神に近づきうるのであるから,そのような人から活動(的な祈り)を取り上げ,代えて受動的祈りを強要してはならない. という,わかりやすい忠言に思われる. 
 著者の著述の当時に,誰彼かまわず>>受動的祈り<<を強要しようと言う運動なり傾向なりがあったのだろうか?
9
 最近,祈りの道を歩む人の間にしばしば論争が起こる.
 その原因は,この点における対立である.
 一方で,受動的道を行く人は,「この道が優れていることをよく知っているので」皆受動的道を行けばよい,と考える.
 他方で,黙想の道を行く人は,皆が黙想の道を行けばよい,と考える.
 どうすればよいかというと,中庸を行くのが一番である.
 そして,個々の魂がどちらの道に向いているかをよく見極めることが重要だ.


 よくわからないパッセージ.
 祈りの道を歩む人々に,受動的道と黙想の道があって,それぞれが自己の道を唯一至上のものと考えているらしいことが読み取れる. しかし「この道がすぐれていることをよく知っているので」という理由付けが受動的道の側にのみあることは,受動的道が黙想の道より,より高次のあるいは「優れた」ものであることを著者自身は認めているように思われる.
 この解釈は,直前の受動的祈りではなく活動に向いた魂は存在するが,にもかかわらずより優れているのは受動的祈りである,という叙述と整合的である. 実際,「このグループに属する魂は,普通,内面的信仰にはあまり熱心ではない. 彼女たちの働きは外にむかい黙想より先には進まない.」(?-3)という文章と一致する. が,黙想が活動的,とはどういう事だろうか.
 
 さらに,ギュイヨン夫人は,中庸を行くのが一番だ,という. ならば,活動乃至黙想と受動的祈りの間を選ぶべきではないのか. しかるに,つづいて個々の魂がどちらに向いているか適性を見極めることの重要性を主張する. したがって,活動に向かう道も,受動的祈りに向かう道も個々人に対しては肯定され得るのである. とすれば,ここでいう「中庸」は,どちらか一方の道を万人に適するものとして押し付けるのではなく,個々人にあったもののほうを選択する乃至させる,という意味での中庸でなければならない. 
10
 体験豊かな霊父は,魂の無為や過ちや欠点や,巧みさや固執などから,それぞれの魂の適性を見極めることができる.
 とはいえ,こうした〔黙想の段階に通常適する〕魂も「一生理性の段階にとどまっていなければならない」とは限らない. 
 優れた霊父〔の導き〕によっては,通常黙想の段階にしか適さない魂も「最高の完徳にまで」行き着きうる. 
 〔このように〕「特別な恩寵に恵まれた霊父は,魂の成長を妨げることがな」く,「とても役にたつ存在」である. しかも,「個々の魂に対する神のご計画を見抜き,そちらの方向へ魂を導くすべを知って」いて,それにもかかわらず,「恩寵に先んじることなく,恩寵に従い,恩寵に協力し,恩寵と助け合う」.
 だがしかし,「普通の恩寵しか与えられていない」霊父は,「魂の歩みを滞らせ,成長を妨げ,神のものである魂を彼らの自身の私物にする」.

 四つの事が主張されている.
 一は魂は,通常それが属する段階より上の段階まで向上することが可能であり,それは霊父の導きによってである.
 二は,霊父は魂の属する段階を判別することができること,である.
 三と四とは,優れた霊父は神に魂をゆだねつつ魂を成長させるが,普通の霊父はむしろ成長を妨げ私物化することである.
 
 ここで注目したい事の一は,「劣った霊父」ではなく「普通の恩寵しか与えられていない霊父」は魂に有害であり成長を妨げるといっていることである. これは,大部分の司祭は,魂にむしろ有害だ,という(司祭が魂の益のために存在するものである筈の理念からすれば)かなり強烈な教会批判を内包している.
 とともに,意外ではないが,優れた霊父は,神の計画を見抜くとはいえど,神の恩寵に先んじるのではなく,従い・協力し・助け合うとされている点である. ここでは,霊父のよき指導は,あくまで神の元での指導であって,神を出し抜いたり無視しての指導ではない,という穏当なことが述べられている. むしろ,「協力」「助け合う」という恩寵との並列化に,優れた霊父の指導力に期待された地位の高さにむしろ驚くべきかもしれない.
11 >体験豊かな霊父による理性中心から愛中心への移行<
 体験豊かな霊父ならば,普通の恩寵しか与えられていない魂に,理性をではなく愛の心を支配的にさせようとする. その結果,それが実現するならば,つまり愛の心を好み味わい,理性への依拠が減少するならば,普通の魂にも何か助ける事ができる兆表である.
12 >理性への依拠の減少が愛への執着によらない場合――理性から行為への転換<
 普通の魂が,理性への依存を減らす場合に,その原因がその人の弱さにあったり,その結果が無為に向かう場合には,魂を行動に向けることが求められる. 魂は,「悟性の働きによっては重い腰をあげないかもしれないが,愛の心と意志によって励まされるのを覚える」であろう.
*とすると,「愛に向けるのではなく行為に向ける」のではなく,「愛にむけさせつつ行為を実行させる」なのか?
 すでにこの状態の魂は,恩寵に導かれて,虚飾を捨て始めている. そういう魂は,捨て去る事によって,不完全になるのではなく,自分に克己するために自分を求め,「光を見つけ出し光に従うために光の後を追おうおとする>>無意識の<望み<を与えられ」ているのだから,愛の心と意志とによって励まされるのを覚えるのである.
*つまり,理性に代わり愛の心と意志/行為が占める魂は,自己を超越するものへの感受性を隠蔽するものを取り除かれつつあるのだろう.
 それゆえ,この魂は,単に無一物になることを援助するのではなく,理性ではなく意志の支配が成就するよう援助するべきだ.加えて,この状態の魂はまだいわば「細く弱弱しい流れ」だから,「海にまで導く広く大きな河」に出会うまで休ませてはならない.
* 休ませるとどうなるのか? また,元の状態に戻ってしまうのか?
13 
 祈りについての本が批判を巻き起こし、,祈りについて著述・発言する人は非難を浴びている現状がある.
* そうなのか.

 だが,(自ら破滅を求める魂――そして,この種の魂は何からでも害を受けるのであって特段祈りによってではない――を除けば(A),――少なくとも「謙虚で完徳を心から願っている魂には」(B――祈りについての本や発言は害を齎さない.
*条件Aと条件Bとの間には随分大きな差があるのだが,著者は無視しているようだ.

 祈りを理解したり実行したりすることは,「特別の賜物なしに」は魂に不可能である.熱心な読書のみによっては,人間の想像力を超える事,そして体験だけが実体を教える超自然状態を(実体ではない)描像の表象する不可能だ.
* 祈りの実行は,超自然状態へと到達する.賜物のない人はそれへ達し得ない.

 自分を偽り孫引き表現で口先を繕おうとしても,優れた霊父は質問により虚偽を暴く.
* 非難の一つに,偽造された神秘体験に基づく言説の蔓延を恐れる声があったのか?_ギュエンヌ夫人はそれに対して,霊父による喝破を対抗させている.ここでも,良き霊父の重要性が指摘されている.

 「魂が進んで行く段階には,その段階に付随した要因がすべてあらかじめ定められており,祈りの成長は,当然徳の完成と共に進んで行くはずだ」
  魂の進歩の過程には,それぞれの段階にそれにふさわしい徳の習得が付随的に対応している.従って,祈りによる魂の進歩は,徳の完成への接近と,共に進んで行く.
* 祈りとそれによる魂の進歩が,徳の獲得と必ずや相関する事が指摘されている.かくして,霊的に成長しつつ,徳において放埓という密教やある種の禅の覚者にありがちなパターンの存在の可能性をギュエンヌ夫人は封じる.

 だからといって,祈りの進んだ段階にある魂は,普通の多摩市に比べ,より大きな>表面上の<??過ちを犯さない,とはいえない.
 但し,その過ちの性質や在り方は,前者と後者とで異なる.
14
 救いや祈りについての本が魂のつまずきにならない第二の理由.
 この主題の本の主たる内容は,「死とか分離」であり,それらは「征服したり破壊してしまわなければならない」性質のものを多く含む.だから「内なる思いが真実のものでない限り」魂はこの種の本の教えに従い得ない.
* うん?教えに従い得ないから魂の躓きにならない,って,その種の本は教えに従えるなら躓かせる,悪い内容なのか?

 仮に,この主題の本の教えを真似ても,(黙想と同様)身を滅ぼす方向に向かう.
* やはり,悪い内容なのか?

 この違いは,魂が,神への真剣な思いと美徳への憧れとのいずれに突き動かされているかによる.体験豊かな霊父はこの違いを見分け得る.
* 神への思い →魂が段階を踏んで進んでいく:良い
  美徳への憧れ→身を滅ぼす :悪い
  この差異を>>体験豊かな<<霊父は見分け指導できる.

 13・14を読む限り,祈りの本は害毒をも善への指針をも持つように思われる.そして,その分別・指導をできるのが体験豊かな霊父だと思われる.すると,「祈りについての本」が「害を及ぼすことなど全くあり得ない」理由が一見わからなくなる.が,13での限定「喜んで身を滅ぼそうとする一握りの魂を除」くところにポイントがありまそうだ.一握りというが,実際は13で「特別な賜物なし」14で「美徳への憧れに突き動かされ」と呼ばれた魂一般で,その範囲は結構広いのではないか,と思われる.ただ,そうだとすると,祈りについての本が世論を沸騰させ,祈りについて書いたり語ったりする人が受ける非難を不当とする主張がおかしくなる.少なからぬ魂は,それによって害を受けるからだ.それとも真に善良な「謙虚で完徳を心から願っている」「神への真剣な思いに突き動かされている」魂は害を受けないからそれでいい,残りの魂が害を受けることはどうでもいい,と考えているのか,それらの善的な魂の数が圧倒的に多いと考えているのか?


15
 魂の動機を見分けられるのは体験豊かな霊父だから,魂は霊父の指導を仰ぐべきで一人で歩んではならない.
 「現在指導を仰いでいる霊父とは別の霊父を探したいと願うのは,自ら望んで道を踏み外すようなものである.
* 現在指導を仰いでいる霊父が,体験の少ない霊父である場合にはどうすべきなのか.その霊父と別な霊父を代えず魂の成長を抑制すべきなのか?

 結論は,霊父には「救いの道に最も明るい人を常に選ぶ必要がある.」
* どうやら,選び間違ったり,この本を読む前に体験の少ない霊父を選んでしまった人は諦めろ,ということのようだ.

 救いの道に最も明るい霊父は,どのような段階の魂をも上手に導く「すべを心得ている」.自然を超える事物を少しも仰ぎ望もうとしないあなた達をも,体験豊かな霊父を通じて,神はよりよりものを与える.

* やはり,一旦選び間違ったらアウトということみたいだ.

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