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哲学・思想 読書ノートコミュのHegel ” Phaenomenologie des Geistes ”

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コメント(13)

I DIE SINNLICHE GEWISSHEIT : oder das Diese und das Meinen
「感覚的確信――もしくは「〔眼前に現前する者である〕これ」と「思念」」

para.1
まず最初で無媒介的である対象の知とは,無媒介的な知,即ち無媒介的なるもののもしくは存在者についての知に他ならない. 人は,無媒介的に受容的に〔知について〕振舞わざるを得ない,姿を現したものに変容を加えたり〔無媒介的に〕把握したものを〔前了解的〕解釈( Auffassen )によって歪曲し(>遠ざけ)てはならない.

* つきあわせると,長谷川訳が全く役に立たないことがわかる.
樫山訳か金子訳を入手する必要があるなぁ. それと「悟性論」までは,原意を犠牲にして,長谷川訳で一回要約を進めたほうがいいかもしれない・・・
para.2
感覚的確信の具体的内容から判断すれば,一見それこそ最も豊かな認識に思われる. なぜなら,認識内容の時空的制限を欠くように思え,認識内容の部分を無限分割可能に思えるからである.
また,感覚的確信は,最も正しい認識に一見思われる. 対象から何も取り去ることなしに,そのまま眼前に現前せしめている当のものであるから.
しかし,実際には感覚的確信における真理は最も内容に乏しい. なぜなら,感覚的確信が,知る対象について与えるのは「それが在る」ということだけだからである. 
だから,感覚的確信の真理が有するのは,事柄が在るということだけである. 同様に,意識は,純粋的自我として在るに過ぎない.−−そこでは,自我はただ「この人」というだけ〔以上の何の規定もなく〕であり,対象も純粋な「この物」というだけ〔以上の何の規定も受けない〕なのである.

「『この人』たる自我が「このもの」があることを確信するのは,自我が意識として発展を遂げ,さまざまに思考をめぐらすからではない. また,わたしの確信する事柄がさまざまな性質を持つものとしてみずからゆたかな関係を作り出したり,他のものと多様に関係したりするからでもない」――自我も対象も純粋な「これ」性以上の何も持たない以上,当然のことであるが,したがって,「自我も事柄もさまざまな媒介関係をもつことはない( weder Ich, noch die Sache hat darin die Bedeutung einer mannnigfaltigen Vermittlung. *1)」.

*1 純粋自我と純粋事柄との媒介も在りえないのだろうか? それとも,両者の媒介はmannigfaltigでないからという理由で退けられているのだろうか?

自我が多様な観念や思考を持つことも,事柄が多様な性質を持つこともない.−−純粋にして単純な自我と事柄にそれらは留まる.
「事柄は ア ル のであり,ア ル から ア ル 」のだ.
感覚的知にとって,ア ル ( ist )そのことが本質的である,感覚的知の真理とは,純粋・単純・直接的な ア ル  そのことである. 同様に,対象との関係〔についてのもの〕である〔感覚的〕確信も,直接かつ純粋な関係である. 意識は自我――すなわち純粋な「この人」――である. この,純粋且つ単純な「この人」が,純粋〔かつ単純〕な「このもの」――すなわち単なる「個物( Einzelne )」を知る〔ただそれだけのことなのだ〕.
(3) 
 この確信の本質は純粋な存在である. また確信の真理として言明されるものも純粋な存在である. その純粋な存在は,我々がそれを見つめるとき,それ以外にさまざまな他が絡み付いている. ある現実の感覚的確信は,この純粋な非媒介性のみではなく,その実例なのである. 現に生じる無数の相違には,およそ見出される主要な相違が在る: すなわち,純粋な存在から,二つの既に名指されたコレ,つまり,自我としてのコレと対象としてのコレが現出する. この相違を反省すれば,感覚的確信の中で〔自我と対象という〕一方も他方も非媒介的に存在するのではないことが判る. そうではなく,〔自我と対象の両者は〕同時に媒介されたものであることが判る. 自我は,確信を他,即ち,事柄( Sache )を通じて得るのである. 事柄は,他,即ち自我を通じて,存在するのである.

 確信の本質は純粋な本質であるが,だからといって,純粋な本質そのものとして,感覚的確信を構成するのではなく,他なるものが関係する. その中で重要な,非純粋性即ち相違は,自我としてのコレと対象としてのコレである. 両者は相互に他を媒介して存在するのであって,非媒介的に存在するのではない. 
(4)
 本質と実例,非媒介性と媒介,という相違は,ただ我々が作り出すのではなく,感覚的確信それ自身に於いて我々が見出すのである. そして,上記の記述によってでなく,その相違が感覚的確信においてある,その形式において把握されねばならない. 単純で非媒介的な存在者,即ち,本質として措定されたもの,それは対象である. 他は,非本質的にして被媒介的なるものとして,つまり即自的にではなく他によって〔対自的に〕存在するのが,自我もしくは知なのである. 知は対象がある故に対象を知る,〔それゆえ〕存在することも存在しないことも在り得る. しかし,対象は〔それへの知の存在の有無に関わらず〕存在し,真なるものであり、本質である. 対象は,それが知られていようがいまいが,同様に存在する. 対象は,それが知られていないときにも,〔存在〕し続ける. しかし,知は,対象が存在しない際には,存在しない. 

 この本質と付随例(長谷川: Beispiel ),非媒介性と媒介という相違は,認識主観の構成にのみ由来するのではなく,感覚的確信に於いて既に見出されるべく存在しているのである. ここで,単純・非媒介的・即自的・本質なるものは,対象である,対して,自我もしくは知は,媒介的・対自的・依存的である. なぜなら,対象は,自我がその対象を知ろうと知るまいとお構いなしに存在するのに対して,自我・知はその知る対象が存在しなければそれを知ることができないからである.
(5)
 感覚的確信それ自身がそれを本質とするという対象が,実際に,そのようなものとして存在するのかどうか,つまり,本質であるという思念が,対象の現存の仕方に相応しているのか,が考慮されるべきである. その際,我々はこの問題について最後まで反省しぬき,真実には何であるかのかを思慮しぬく必要はなく,感覚的確信が自らに於いて対象を所有するそのあり方を考慮するだけである.

 では,実際に対象は,感覚的確信において,即自的で本質的な存在として存在しているのかどうか,が考えられるべきである. もっとも,この問題は徹底的に追及される必要はない. ここでは,感覚的確信が対象を持つその仕方において,果たして対象は即自的・非媒介的・本質的であるのか,それだけに限定されて考えられてみれば十分である.
(6)
故に,「何がコレであるのか」と,感覚的確信は自問すべきである. 我々がそれを存在の二重の形姿において,即ち,今なるものとココなるものとして把握するならば,コレの基にある処の弁証法は,コレ自体がそうであるのと同様に理解しやすい形態をとる.
だから,「イマなるものは何か」という問いに面して,我々は例えば「イマは夜である」と答える. この感覚的確信の真理性を試すためには,単純な試行で十分である. 我々はこの真理を書きつける. 一つの真理は書き付けにおいて失われはし得ない. 同様に,われわれがそれを保存することによっても殆ど変わらない. 我々が,昼に書き付けられた真理を再び見るならば,その真理は気が抜けたものになってしまった,と我々は言わざるを得ない.

 感覚的確信において即時的に真理であると分かったコノモノ〔対象〕について,「このものがある」という確信内容をイマ在るとココに在るに分ける. こうして,「イマは夜である」と夜に書き付け,翌日の昼間にでもその書付を見直すならば,昨晩は真理であったものが,いまや「気の抜けた真理」(≒虚偽)に変じている. 真理と言うものは,書きつけたり書付を保存したりしたところで,その真理性に変容はないはずなのに.

*ここでヘーゲルの誤謬であるかもしれない点は,真理は「書き付け保存してもその真理性に変化がない」筈だ,という想定である. この前提について,ヘーゲルはなんら論証を与えていない. むしろ,ある時点で書き付けられた真理は,書き付けによってもしくはその保存によって真理性を失い得る,と考えるべきではないのだろうか?
(7)
夜である処の,イマは,保存されている,即ち,それはそれ〔イマ〕として扱われているが,存在者として詐称されているのである. しかし,それはもはや非存在者として示されている. イマそのものはなるほど持続している,しかし,〔持続している〕そのものとしては,非=夜である. 同様に,それは,昼に対しては, イマは非=昼であるところの或るものとして,もしくは総じて否定者として,持続している. このように持続するイマは,非媒介者ではなく,被媒介者である,というのは,それは,継続し持続するとして,他なるもの即ち昼であり夜であるのでない処のものによって規定されるのであるからである. その際,それ(=イマ)はカツテと同様単純にまさに未だにイマである,そして,この単一性において,なおもイマと共にそこでうごめいているものに対して無関係である*1.; 夜も昼もかくも〔イマの:樫山〕アルではない,とはいえ同じようにイマは夜でも昼でもある; イマはこの自身のホカノモノデアル( Anderssein 他在:樫山 )ことによって全く〔その特性を〕冒されない. 否定を通じてあるところの,コレでもアレでもないもの,一つのコレでないもの,しかも,またコレであることにもアレであることにも無関係な,一つのそのような単一者を,我々は一つの普遍者と呼ぶ; かるが故に,実際には,普遍者が感覚的確信の真(理)*2である.

*1 文意不明
*2 コレ,アレは変化し,時に真,時に偽だから,常に真なるものとしての真そのものではない. 対して,それに通底する普遍者は,コレ,アレでないから,常に真であり得る. だから,普遍者こそ,感覚的確信の真(理)だ,という議論のようだ. 既にのべたこととともに,真が時刻と相関的なものではない,永続的なものだ,ということをヘーゲルはこれまでに論証していない. 従がって,この暫定的結論は全くの独断だ,ということになると思われる.

夜であるイマは,イマとしては保存されているが,最早夜でない以上,もとの形で保存されているのではない. 昼についても同様である. 従がって,夜や昼に対して,イマは非=夜,非=昼として,一般的には否定者として持続している. だから,持続するイマは,非=夜,非=昼という否定者による,被媒介者にすぎない. とはいえ,イマは常にイマであって,共にあって変化するものとは,無関係である. 夜も昼もイマではないが,両者ともイマでありえる. ということは,イマは自己が非=自己でもあるような外在化によって犯されないのである. コレでもアレでもない,否定を通じてあることが示唆されるところの,単一者そのものが,普遍者である. 全ての感覚的確信において,〔その内容がいかに変化しようとも,この普遍者はその全てに通底して存在するが故に〕,普遍者こそ感覚的確信の真なのである.
(8)
一つの普遍者として,我々はまた感覚的なものをも言い表す.; 我々が言うところのものは,〔下記である〕: このもの,即ち経辺的なこのもの; もしくは: それがある〔ということ〕; 即ち,アル一般である. その際,我々は,もちろん普遍的なこのもの,或いはアル一般を表象しているのではない,しかし,我々は,その普遍者を言い表している; 或いは 我々はそれ(=このもの)を感覚的確信において虚念( meinen )*1 している通りに,正しくは話してない. しかし,その言葉は,我々が見るように*2,〔虚念より〕より真実である; その〔=言葉〕中で,我々は自ら非媒介的に我々の去年を斥ける,そして,普遍者たるものがこの感覚的確信の真なるものであり,言葉はただこの真を表現( ausdrueckt )するのであるから,我々が虚念しているところのある感覚的なアル〔もの〕を我々が言い得る,ということは全く可能ではない.

*1 おう(りっしんべんに意)見としたかったが,その字に変換できないので,仮に虚念とした.
*2 現在形をとっているところを見ると,既述でもこれから論じられるわけでもないであろう. すると,言葉は虚念より真である,というのは何故わかるのだろうか. 我々はそのような事を見て( sehen )いるだろうか? そうではない,言葉は極めて屡我々を哲学的幻惑に陥らせる源の一である,と私は考えるので,ヘーゲルのこの主張には全く同意できない.

感覚的なものの語りにおいても,我々が現に言い表すのは普遍者をである. 確かに,我々は感覚的確信に於いては個別者を語っていると誤解しているが,現にしていることは,そうではなく普遍者を言葉で語っているのである. そして,言葉こそ虚念より真である. よって,我々が言い表し得る処の全ては,普遍者であって,感覚的存在という個別者ではあり得ない.
(9)
そのコレの他の形式の〔状態で〕も,〔即ち〕>そのココ<についても,同じ事情である. そのココは,例えば,〔一本の〕木である. 私は向きを変える,そうすると,この真状( Wahrheit )*1消滅する,そして,反対者へと逆転する. >そのココ<は,〔一本の〕>木<ではない,そうではなくて,最早〔一軒の〕>家<である. >そのココ<自身は,消滅しない; そうではなく,その家,木等々の消滅の内に,とどまって(=存続して)いる,そして,木,家に無関係である. 故に,>そのコレ<は,またもや媒介された単一性として現出している;若しくは普遍性として〔現出している〕.

*1 Wahrheit, wahrをどう訳すかには未だためらいがある. 「真」は通常の日本語では「真である」といういいまわしで用いられ,対象を指さないであろう. 「真理」というと「ことわり(理)」からして,単なる対象よりは命題や倫理規則の語感がある. 「真実」は,漢字自体は問題ないのだが,日本語では「虚偽」と対比されて,言述の知られていなかった事態に限定して用いられるニュアンスがある.「真物」「真事」ではDing,Fallの何れかをしか指し得ない. 仮に,「真状」としてみたが,今後,かなりこの訳語は揺れるかもしれない.

イマ同様,ココについても,時間の経過と共に,所与の個的対象者らしきものは,変化する. ために,ある時点で真状であった個的対象は他の時点ではもはや真状ではない. だが,イマそれ自体は,その各時点で真状である所与の個的対象者らしきものの変化に関係なく,存続し続ける. 従がって,コノものは,他在である――すなわち木にとっては家のような――他とは関係ない(非縁起的な・自存的な・非媒介的な)個別者・単一性としてではなく,あくまで――木にとって否定媒介的に家でもあるような――媒介された単一性,即ち普遍性として,現れる.
(10)
この感覚的確信は,そのなかで感覚的確信がその対象の真状が普遍者であると自らにあって表明しているのである,それ故,その(=感覚的確信の)本質としてのその>純粋なアル<は,非媒介的なものとしてではなく,そうではなくて,〔それにとって〕その否定と媒介とが本質的である処の一つのものとして持続している;その本質としてのその>純粋なアル<は,我々が>アル<のもとで虚念しているところのものとしてではなく,そうではなくて,それがその抽象若しくはその純粋な普遍者であるという規定の姿でのその>アル<として,存続している; 我々がその>アル<を虚念しているところのものとしてではなく,それ(=アル)がその抽象或いはその純粋な普遍者であるという>規定<の姿でのその>アル<として,保持されているが,感覚的確信の真状が普遍者ではないという>我々の虚念<は,空虚な或いは無関係(gleichgueltig 何でも受け入れる:長谷川)なイマとココに対立して,そのまま持続する.

だから感覚的確信は,実のところ,一見そう思われた個別者をではなく普遍者を自らの真状の対象としている. だから,感覚的確信の本質としての純粋なアルことは,(非媒介的・直接的ではなく)否定と媒介とを本質的に含みつつ,持続しているのだ. だから,感覚的確信におけるアルは,(無規定なもしくは個別的な規定を伴ったアルとしてではなく)実のところ,抽象もしくは純粋的普遍者という規定を伴ったアルとして,持続しているのだ. だが,我々の虚念はこの真状を認めない. なので,我々の虚念においては,アルは,実質的な規定を持たない代わりに(夜と昼,家と木のように何でも入れ替えられる)イマやココに対立したまま,(矛盾して)了解されたまま放置されてしまうのだ.  
>>[001]

ぼくは樫山先生の訳で読ませていただいてます。
>>[002]

この辺のことは、ぼくは大変面白く読ませていただきました。仏教においてすごく大切にされている感官知とかサティとかがどういう位置づけのものなのか、とても考えさせられました。
>>[003]

>純粋な存在から,二つの既に名指されたコレ,つまり,自我としてのコレと対象としてのコレが現出する. この相違を反省すれば,感覚的確信の中で〔自我と対象という〕一方も他方も非媒介的に存在するのではないことが判る. そうではなく,〔自我と対象の両者は〕同時に媒介されたものであることが判る. 自我は,確信を他,即ち,事柄( Sache )を通じて得るのである. 事柄は,他,即ち自我を通じて,存在するのである.


ここの記述は、本当に惚れ惚れするものだと思います。

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