「『この人』たる自我が「このもの」があることを確信するのは,自我が意識として発展を遂げ,さまざまに思考をめぐらすからではない. また,わたしの確信する事柄がさまざまな性質を持つものとしてみずからゆたかな関係を作り出したり,他のものと多様に関係したりするからでもない」――自我も対象も純粋な「これ」性以上の何も持たない以上,当然のことであるが,したがって,「自我も事柄もさまざまな媒介関係をもつことはない( weder Ich, noch die Sache hat darin die Bedeutung einer mannnigfaltigen Vermittlung. *1)」.
この本質と付随例(長谷川: Beispiel ),非媒介性と媒介という相違は,認識主観の構成にのみ由来するのではなく,感覚的確信に於いて既に見出されるべく存在しているのである. ここで,単純・非媒介的・即自的・本質なるものは,対象である,対して,自我もしくは知は,媒介的・対自的・依存的である. なぜなら,対象は,自我がその対象を知ろうと知るまいとお構いなしに存在するのに対して,自我・知はその知る対象が存在しなければそれを知ることができないからである.