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哲学・思想 読書ノートコミュのHegel ” Phaenomenologie des Geistes ” 'Vorrede'誤読の会

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 タイトルどうり,Vorredeを理解するべく努めて誤読を結果するであろう営みのトポス. Suhrkamp,Felix Meiner,長谷川訳,金子訳を適宜参照――
おそらく手抜きのため長谷川訳に寄りかかると思います.

コメント(9)

S.1
Abs.1 
 書物の冒頭に,著者の意図と思想史的影響とを記するのは慣例化しているが,哲学書の場合不必要どころか不適切ですらある. 哲学史の中での自己の「傾向と立場」を位置づけたり,内容と結論を概説したり,”eine Verbindung von hin und her sprechenden Behauptungen und Versicherungen ueber das Wahre"(他者の諸説を繋ぎ合わせて自己の主張の希薄さを糊塗することか?) といったやりかたは,哲学的真理の表現ではない.
  *――別に,Vorredeにいきなり哲学的真理の表現なんて結論が書かれていな
  くたって,糾弾されるに値することじゃないきがするけど・・・
 他方,哲学は,個別を含む一般論を語るから目的や結論に内容は凝集され,その過程は重要でない,という誤解が存する.確かに,自然諸科学においては一方で部分に分解され観察された個別の議論とより普遍の議論との差異は>普通は<区別されていないが,哲学では両者には格段の相違が存する.

Abs.2 そこから,同一の対象を扱うある哲学が他の哲学とどのような関係にあるか,といった事柄に,自然諸学とは異なる関心が哲学に生じ,それはむしろ哲学的認識を曇らせる. 真と偽とは対立するものだ,と信じられると,既存の諸哲学体系についても真か偽かの二分法にしか興味をもたなくなる. 哲学体系の違いは,真理の発展段階〔認識の発達過程ともいえるかも〕としてではなく,あれかこれか,に偏執する. ところが,あれ・これ・あれ・それと流転するたとえば蕾・花・実は,そのいずれかのみが絶対的に真なのでhなく,有機的統一体のそれぞれ不可欠な一契機を構成する. だから,哲学でも,対立する諸哲学の矛盾を統一的な全体への不可欠な契機間の対立とみるべきなのに,矛盾する一方を真と固執し,この甲と乙の媒介運動を看過し,それらが不可欠な構成要素であることを認識しそこなう.


Abs.3
 体系の真偽をはっきりさせる説明の要求を満たすことは重要であり,かつ,哲学書の核心は,目的と結論とにおいて明示されている筈であり,また,同一主題を扱った他の同時代の哲学書との比較において最も明らかになる筈だから,これらの事をあつかう種の序言は重要だ,という意見もあろう. しかし,これは,単に端緒に過ぎないとではなく,それ自身で十分な認識に至っている,と考えるとするならば,過ちだ. 
 まず,目的と説明こそが重要だ,という見解の過ちを論じよう.
 なぜなら,事柄は目的のうちにではなく過程のうちにくみ出されるものであり,把握されるべき全体は( 単なる結論や目的ではなく )生成過程から結論へと至る現実総体なのだからである. 単にそれとしての,目的は生命のない一般観念であり,目的への衝動は現実性を欠いた意欲にすぎず,結論は衝動をとりさられた残滓にすぎない. いいかえれば,総体としてみられれば,目的は生き生きとした衝動をともなった結論への運動方向であり,衝動は目的により結論へと方向づけられることによって現実性に向かい,目的は衝動によって生き生きした運動性を,それぞれ内包する核心である,ということができる.
 次に,他の哲学体系との異動を示すことが重要だ,という見解の問題点を論じよう. 違いとは,事柄そのものではない,事柄の外で起こるものだから,ちがいを示すことは,事柄そのものにではなく,事柄の境界線上に身をおくに過ぎない――つまり,核心から自己をそらすことなのだ. 
 だから,目的や結論への専心や,諸哲学間の異同の検討は,実は,事柄そのものを扱わず,自己は事柄へと沈潜するより自己自身のうちにとどまる行いだから,より容易なのだ. なぜなら,内容と実質(事柄)について,評価を下すという外的行為は(事柄の外側をうろつくにとどまるから)最もたやすく,それらについてどんなものかを把握することは(自己から出て事柄へと沈潜せねばならないから)より難しく,それらを表現へと齎すすなわち統一する事は,(いったん十分に事柄へと沈潜した上で得られたその内容を伴って自己へと還帰せねばならないのだから)最も難しい. 〔つまり究極においてはWissenschaft? absolute Wissen?へと至ることが,さしあたっては悟性の段階,知の段階等々より高次の諸段階へ止揚することが最も難しいのである.〕

〔感想〕
 目的と衝動より過程が重要という話は,数学において,定理だけ示されてもあまり意味はなく重要なのはむしろ証明である,というのに似ているのかな?
 諸哲学間の比較と自哲学の定位よりその体系内容が重要だ,という話は,なんだろう? 絵画にとって,美術史的位置づけや他の画家との比較より,その絵画そのものの美の方が本質的だ,というのに似ているのだろうか? 少なくとも,影響や比較は外的で,それ自身としての学説における重要性は学説内容それ自体だ,というのは自然科学でもいえることかも. ここでは学説内容を証拠だてるデータこそが決定的なのであって,だれのアイディアを受け継いでるとか,だれの説とはここが違う,なんていうことは,二次的な話しでしかない,とか.
 ただ"zu verweilen""dich in ihr zu vergessen "なんていわれると,事実が泥沼でその中に沈みこんでいってしまいそうだけど,おそらくは,哲学が思惟している事実そのものに直接且つ専らに関わるのではなく,あれこれの諸事実の上っ面をなでるだけで,本質的には自分の認識を変革させないままに留まっているだけだ,といいたいのかな?
Abs.6
真理が現に明らかに現れる真実のあり方は,学的体系における真実以外にない. 哲学を「現実的な知」としての学的体系に近づけることが,ヘーゲルが努力したことである. 知Wssenは学問Wissenschaftに他ならない,その内的必然性は,知の本性に含まれている. そして,その説明は現に哲学を展開してみせる以外にない. 対して,外的な必然性も,その普遍的な観点から捉えると,結局,内的な必然性を問うのと同じである. というのは,普遍的な観点とは,時代が諸景気を必然性の名の下になぜどのようなものを必要としているか,ということだからである. だから,哲学を学にすべき時代が到来している,という指摘こそ,なぜ哲学を学にすべきなのかを正当化する唯一の方法である.  それにより,ヘーゲルの目的の必然性は明らかになり,その目的は実行にいたる.

〔コメント〕
 学問以外では真理はぼんやりしているらしい(宗教). 内的必然性と外的必然性の違いや,いつのまにか後者が前者に化ける理由がわからない. 時代が実用としている云々からすれば,時代が変わると知が学問という形をとらなくなることもあり得るのだろうか? 
 とにかく,ヘーゲルの認識では,それ以前の哲学は学問とはいえないらしい. 哲学を学問として提示すれば,哲学的な問いの解答である真理が示されるわけだから,その知へと至ることとして目的の成就であるけど,先にわからないといった故に,それが目的の必然性を明らかにする理由もまたわからない.
Abs.4
 日常の哲学的思惟を欠いた状態から教養ある自己へと成長していくために必要な諸条件とは:一般的な原則と視点に立つ知識,限定された諸事柄のみではなく事柄一般を考える思考力,根拠をもっての真偽判断,具体的で内容豊かな対象の明晰な把握とその言明化との能力,真摯な判断,これらの獲得である.
 教養涵養の始まりの段階では,「日常生活の充実の中で事柄そのものと真剣に取り組むこと」が,また,より高次の段階においても事柄の深層にある概念の検討の披露の場としては日常会話の場が,重要である.
〔感想〕
 まず前半は当然な感じ. 思考力と知識と思惟内容を適確に言い表す原語運用能力,真剣さこれらが知的成長に不可欠というのだから.
 後半は,いまいちよくわからない. 教養涵養の初期においては日常生活において事柄と取り組め,というのは,いきなり抽象的だったり普遍的だったりすることに取り組む諸能力が足りないのだから,目の前にある慣れ親しんだ事柄から出発しろ,というのなら,そうだろう. けど,より高次の段階でも知識や評価を披露する場は日常会話だ,というのは,理由付けを欲しい. 先にかいてあるのかな?

Abs.5
真理が現に明らかに現れる真実のあり方は,学的体系における真実以外にない. 哲学を「現実的な知」としての学的体系に近づけることが,ヘーゲルが努力したことである. 知Wssenは学問Wissenschaftに他ならない,その内的必然性は,知の本性に含まれている. そして,その説明は現に哲学を展開してみせる以外にない. 対して,外的な必然性も,その普遍的な観点から捉えると,結局,内的な必然性を問うのと同じである. というのは,普遍的な観点とは,時代が諸景気を必然性の名の下になぜどのようなものを必要としているか,ということだからである. だから,哲学を学にすべき時代が到来している,という指摘こそ,なぜ哲学を学にすべきなのかを正当化する唯一の方法である.  それにより,ヘーゲルの目的の必然性は明らかになり,その目的は実行にいたる.

〔コメント〕
 学問以外では真理はぼんやりしているらしい(宗教). 内的必然性と外的必然性の違いや,いつのまにか後者が前者に化ける理由がわからない. 時代が実用としている云々からすれば,時代が変わると知が学問という形をとらなくなることもあり得るのだろうか? 
 とにかく,ヘーゲルの認識では,それ以前の哲学は学問とはいえないらしい. 哲学を学問として提示すれば,哲学的な問いの解答である真理が示されるわけだから,その知へと至ることとして目的の成就であるけど,先にわからないといった故に,それが目的の必然性を明らかにする理由もまたわからない.
Abs.6
 真理の真実のあり方は学であると,つまり概念として存在する,と主張される際に,ヘーゲルは,流行の思想やそこからの帰結が矛盾することをわかっている. この矛盾について説明しておく.
 いま流行の思想によると,真理は「直観,或いは絶対者の直接知,宗教,存在」等々と呼ばれるものに専ら現実的にあると,したがって,それらを語る哲学も,概念的把握によってではなく感じられ直感せられたものが述べられるべきなのだ,という.

【コメント】
 ヘーゲルの,概念――われわれなら論証というかもしれない――による哲学体系に対して,感情や直感内容の記述こそ真に価値あるそして真理がそこに述べられた哲学体系だ,という流行思想があることをヘーゲルは指摘している. もちろん,これに反対するのが引き続く論述だ. 
 ただ,興味深いのは,概念による体系的論述が真理の一つの正しい語り方であるとしても,唯一の語り方であることまで,ヘーゲルが論証できるか否かだ.
『精神現象学』は驚くほど面白く、示唆に満ちあふれた本ですね。
読んでいる最中です。

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