S.1
Abs.1
書物の冒頭に,著者の意図と思想史的影響とを記するのは慣例化しているが,哲学書の場合不必要どころか不適切ですらある. 哲学史の中での自己の「傾向と立場」を位置づけたり,内容と結論を概説したり,”eine Verbindung von hin und her sprechenden Behauptungen und Versicherungen ueber das Wahre"(他者の諸説を繋ぎ合わせて自己の主張の希薄さを糊塗することか?) といったやりかたは,哲学的真理の表現ではない.
*――別に,Vorredeにいきなり哲学的真理の表現なんて結論が書かれていな
くたって,糾弾されるに値することじゃないきがするけど・・・
他方,哲学は,個別を含む一般論を語るから目的や結論に内容は凝集され,その過程は重要でない,という誤解が存する.確かに,自然諸科学においては一方で部分に分解され観察された個別の議論とより普遍の議論との差異は>普通は<区別されていないが,哲学では両者には格段の相違が存する.
〔感想〕
目的と衝動より過程が重要という話は,数学において,定理だけ示されてもあまり意味はなく重要なのはむしろ証明である,というのに似ているのかな?
諸哲学間の比較と自哲学の定位よりその体系内容が重要だ,という話は,なんだろう? 絵画にとって,美術史的位置づけや他の画家との比較より,その絵画そのものの美の方が本質的だ,というのに似ているのだろうか? 少なくとも,影響や比較は外的で,それ自身としての学説における重要性は学説内容それ自体だ,というのは自然科学でもいえることかも. ここでは学説内容を証拠だてるデータこそが決定的なのであって,だれのアイディアを受け継いでるとか,だれの説とはここが違う,なんていうことは,二次的な話しでしかない,とか.
ただ"zu verweilen""dich in ihr zu vergessen "なんていわれると,事実が泥沼でその中に沈みこんでいってしまいそうだけど,おそらくは,哲学が思惟している事実そのものに直接且つ専らに関わるのではなく,あれこれの諸事実の上っ面をなでるだけで,本質的には自分の認識を変革させないままに留まっているだけだ,といいたいのかな?