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唯識コミュの『唯識三十論』を学ぶ

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ヴァスバンドゥによる『唯識三十論』とそれに対するスティラマティによる注解を皆さんと共に学ぶトピです

よろしくお願いします

m(_ _)m

コメント(15)

まず初めに『唯識三十論』が説かれる目的が書かれている

それは人無我と法無我を教えるためである

では、人無我と法無我を教える目的は何か、が次に説かれる

それは煩悩障と所知障を滅するためである

次に煩悩障と所知障を滅する目的は何かが説かれる

それは悟りの自由を体得し、一切知者であることを体得するためである

以上を第1説として、さらに第2説、第3説が解説される
『唯識三十論』が説かれる目的に関する第3説は次のようなものである

ある人々は認識する識も認識される対象も共に実在すると考える
また、ある人々は認識される対象も認識する識も共に世俗的存在に過ぎず、勝義としては存在しないと考える
この2つの極端論を否定するためである

前者はアビダルマ哲学、後者は空観哲学でしょうか?
皆さんはどう思われますか?


人間についても、その他の存在についても、さまざまな言語表現の対象となり、さまざまな仮構存在がある
自我とか、人間とか…
色とか、受とか、想とか…
これらは第一義的な物自体として存在するわけではない
ただ、〈その時その時に変化しつつ生成する識(=識転変)〉に根拠づけられて世俗的に存在するに過ぎない
勝義としては存在しない

これに対して、存在根拠としての〈その時その時に変化しつつ生成する識(=識転変)〉は勝義として存在する
なぜなら、かかる存在根拠が勝義として存在しないとするとこれを根拠とする世俗的存在は世俗的に存在しえないことになってしまうからだ

したがって、「認識される対象も、認識する識も、共に世俗的存在に過ぎず、勝義としては存在しない」という考えは間違っている


上のような唯識派の考えは明らかに空論者=中観派と対立するものであり、中観派への批判がはっきりと述べられていますね

中観派は中観派で2つの極端論を排して中道を説くことをうたっていますが、唯識派もまたアビダルマ哲学あるいは説一切有部と中観派の2つを極端論として自分たち唯識派こそ中道だと訴えているようですね

両派の対立・論争の激しさをうかがわせますね

ひと口に〈その時その時に変化しつつ生成する識(=識転変)〉と言っても、それは三層構造を持っている

1)無始以来の過去世において行なって来た善業および悪業が蓄積して来た潜勢力にもとづいてすべての衆生の根底に成熟した果報としてのアーラヤ識

2)人間に自我を構想したり、その他の存在に自体を構想したりする汚染された自我意識(染汚意)

3)今ここで眼などの6種の認識能力にもとづいて対象を現象させている知覚し思考する識(六転識)

三界、六趣、四生、もろもろの種性、そのどれであろうとすべての衆生の根底にはアーラヤ識がある

アーラヤ識を主体として見るならば、それは統合する働きとして現象している
何を統合するのか?

1)自我を仮構する潜勢力と自体を仮構する潜勢力とを統合する働き
しかしその働きは「ここのこれだ」というようにはっきりと認知できるものではない

2)今ここにある迷いの自己存在において物質的要素(=色)と心理的要素(=名)を統合する働き
しかしその働きは「ここのこれだ」というようにはっきりと認知できるものではない

アーラヤ識を客体として見るならば、あらゆるものが共存する器世間として現象している
しかしそれは「ここにこれがある」というようにはっきりと認知できるものではない

はっきりと認知できないような対象の姿をもって現象するような識というものが果たして存在しうるだろうか、と経量部は唯識派を論難するが、

識のきわめて深い層にある苦楽などの感情や概念を構想する働きなどがすべて滅し尽してしまった滅尽定などの瞑想の諸段階においても、識がまったく存在しなくなるというわけではないのである

アーラヤ識は常に5種類の心所と一体となって働いている

1)触(=様相把握)
認識される対象と認識能力を原因として認識する識という結果が生じる時、これら3条件が共存しながら認識能力の様相が楽なる感情を生じるものか苦なる感情を生じるものか確定されること

2)作意(=思惟)
一つの定まった対象に向かってひたすら心を集中させ、その対象を心にありありと現前させる禅定における思惟

3)受=感情
今ここにある対象についてこの身体で経験する苦なる感情、楽なる感情、あるいは苦でも楽でもない感情

4)想=概念的構想
今ここに知覚され思考されている対象のそれぞれをそれぞれとして理解させる概念をはっきりと確定すること

5)思=意思
知覚され思考されている対象に向かって心を働かせること

アーラヤ識と一体となって働いている感情(=受)は楽なる感情か、苦なる感情か、あるいは楽でも苦でもない感情か?

楽でも苦でもない全く平静な感情である
なぜなら、楽なる感情や苦なる感情は個々別々にはっきりと認知できるような対象の姿をもって顕現するが、アーラヤ識は個々別々にはっきりと認知できないような対象の姿をもって顕現しているからである

アーラヤ識そのものは倫理的に善性でもなく悪性でもなく無性である(=無記)

また、根本無知などにもおおわれていない(=無覆)
なぜかと言うと、確かにアーラヤ識はあらゆる迷いの存在をあらしめる根拠ではあるが、それがあるがままにアーラヤ識として明らかになるのは根本無知などがなくなってあるがままの如性を悟った所においてであり、アーラヤ識そのものは自我や自体を構想する自我意識にあるような非本来的に付着したもろもろの煩悩におおわれていないからである

アーラヤ識は瞬間瞬間に生じては滅し生じては滅しながら断絶することなく相続し存在し続ける川のようなものである

福業や非福業や不動業などにもとづくもろもろの潜勢力によって濁りながら、

触や作意や受や想や思を漂流させながら生々流転し存在し続ける

アーラヤ識は止滅させうる

阿羅漢という最高の聖者が占める修行道の位において。

阿羅漢においては滅尽智と無生智の二知を体得することによって、アーラヤ識を根拠に存在し続けていた迷いの存在の有限性が余す所なく無くなってしまい、アーラヤ識そのものが止滅してしまうのである

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