山口勝弘はモホリ・ナジの『ヴィジョン・イン・モーション』 (Vision in Motion、1929年) や『ザ・ニュー・ヴィジョン』 (The New Vision) を読み、キネティック・アートに興味を持ち、《ヴィトリーヌ》を制作し始めた。ガラスの板を使用し、光学の原理を実践した。マルセル・デュシャンがカルダーの作品について提案した《モビール》に対しての、瀧口修造が提案した《ヴィトリーヌ》という名称は、その作品のシリーズを示していた。山口勝弘の《ヴィトリーヌ》は1952年3月に、タケミヤ画廊で行われた〈実験工房第三回発表会〉の際や、また同年8月、銀座の松島画廊において油絵と共に《モビール》と共に展示された。1953年に、大辻清司は北代と山口の作品の撮影を行い、瀧口修造の推薦によって、その写真を『アサヒグラフ』誌の「アサヒ・フォト・ニュース」の欄に掲載された。その後、〈実験工房〉の多様的な活動はより詳しく資料化することが可能となり、その意味で写真との出会いは大切な出来事になった。その新しいメディアは創造しようとしていた舞台装置にとって相応しいと考えられていた。1956年に山口勝弘は音楽芸術誌に『主張と実現・実験工房』という記事を掲載した↓
by CHRISTOPHE CHARLES/クリストフ・シャルル
from 『論文「現代日本の映像芸術」第六章 山口勝弘/6-1.初歩/6-1-2.芸術分野の相互作用、芸術とテクノロジーとの出会い』
赤坂にあるこの建物は、丹下健三によって設計された。地下には草月ホールがあり、コンサートや映画の上映に使われることになっていた。実験的なアートが、ようやく発表の場を見つけたわけだった。***勅使河原宏は、1953年に映画界にデビューした。瀧口修造がシナリオを書いたドキュメンタリー・フィルム、《北斎》の監督を任されることになったのだ。50年代に入ると様々なフェスティバルが開かれるようになり、<ヌーベル・バーグ>も出現する。佐藤忠雄によれば、初めての傑作と呼ばれるべき作品は55年に羽仁進によって撮られた《教室の子供達》である。ここには「自然な自発性」といったものが横溢している。谷川俊太郎は、鉛筆のように扱い易いビデオの特性について語る際にこの「自然な自発性」という言葉を強調してるが、谷川のその主張は、正に、羽仁の「映画万年筆説」を思い起こさせるものである。かわなかのぶひろ (1941年生まれ)は大変独創的な映画・ビデオ作家であるが、イメージ・フォーラムの教師でもあり、次のように書いている。「画面の上に、作家は「光のダンス」という抽象的、無形態的なイメージを作って試みていた。戦後の日本では、実験映画は、映画の新しいメディア学に於ける可能性の手探り、いわゆる「Frame by Frame」の研究に始まった」。1953年27の『キネマ旬報』では、羽仁の作品が一位となり、《北斎》は第二位であった。勅使河原宏は、青年プロにいたとき知合った井川浩三と一緒に、ホールの技術的な構想をたてた。このホールで初めて上映されたのは、1957年に行われた東京フェスティバルだった。その中には、<シネマ57>のプログラムに入っていて、同年の<ブッリュッセル実験映画祭>でも紹介された、羽仁進や勅使河原宏の作品もあった。
by CHRISTOPHE CHARLES/クリストフ・シャルル
from 『論文「現代日本の映像芸術」第一章 芸術の実験:映画、インターメディア、ビデオ/1-1. 実験映画の歴史と概要/1-1-4. 草月流の創始:いけばなと前衛』