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公開書簡コミュのやり直しです

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執事様

 ご無沙汰しております。ここのところ、お金にならない仕事がやたら入って参りまして、少々睡眠不足ぎみです。失礼な文章になりましたらお許し下さい。

 私は最近、鹿鳴館のコミュの皆さんの書き込みに刺激を受けて、少し少し小説を読むようになりました。と言っても、ほとんど課題図書だけなのですが。しかし、子供の頃から本はほとんど読まない生活をしていましたので、我ながらこれはものすごい進歩です。今でも漫画は苦手なのですが、課題図書で挙げられてから、少し読んでみようかなと思うようになりました。

 執事さんは、文学書を読むことを、多くの人に勧めていらっしゃるように見受けられますが、そうした思いはやはりお持ちですか。

コメント(19)

 意外に思われるかもしれませんが、私は小説が嫌いです。おそらく私がこれまでに読んだ小説の数は、これまでに読んだ文学論や文体論の数の半分にも満たないかと思われます。一人の作家について書かれた評論を五冊読んで、仕方なくその作家の小説を一冊読むという程度です。
 私が明治以前、あるいは昭和初期の文学にこだわるのは、そうした時代の作家について書かれた評論のほうが現代作家を扱った評論よりもたくさんあるから、と、それだけの理由です。
 最近、私に小説を薦めているのは、むしろ、サロンに来る人たちのほうで、サロンに来る人たちによって、私は、これまでには絶対に読まないであろう、たくさんの小説を読まされ、そして、ずいぶんと勉強させられているのです。
 これも意外かもしれませんが、この一年で私が読んだ小説の数は、それまでの人生で私が読んだ小説の数と同じぐらいかもしれません。それだけたくさん読んだということではありません。それほど私は小説を読んでこなかったということなのです。サロンにはずいぶんとたくさんの読書家が集まりました。そうした人たちの前では、私の小説読みとしての経験など幼児のそれに等しいほどでしょう。
 しかし、いろいろと読まされてみると、小説もなかなかいいものです。

 そうそう、どうして私が小説をあまり読まなかったのかですが、これには理由があります。私は、会話しない学問は身につかない、という強い信念を持っています。これは学問だけではありません。料理の本をいくら読んで料理を作ったところで、それを誰かに食べてもらわなければ料理は上手になりませんよね。スポーツでも本やビデオで学んで、いくら一人でトレーニングしたって上達しませんよね。独学はダメなんですよ。
 これまでの私の人生には研究家はたくさんいても読書家はあまりいなかったのです。ですから会話する場所がないので小説はあまり読まなかったのです。読んでも、それを会話にしないと忘れてしまって、結果として読書はただの暇つぶしになってしまいますからね。今は、サロンで小説の話がいくらでもできるので、いくらでも読めるわけです。読んで語れば身につくからです。
 
 そして、せっかく読んでも、身につくことない人のために、最近は、自分の知識や趣味にないものも読むようにしているのです。話を聞くことができるからです。私が話を聞ければ話をした人の読書が無駄にならないからです。そのぐらいのサービスは年寄りとしてやってもいいのかな、と、そう思っているのです。幸い、普通の人よりは読書のスピードが早いので、読書量に関しては、あまり苦にならないというのもあります。
 
 ただ、私は、文学作品が他の作品より優れているとか、特別に面白い、と、感じているわけではありません。マンガはやっぱり面白いし、何よりも私がもっとも好きな小説は「ロードス島戦記」ですからね。ここで明治文学とか、フランス文学を持ってこれればいいのでしょうが、そうはいかない自分がいます。ですから、子供たちと論争するときには、少しばかり演出しています。ディベートです。本音はゲーム小説が大好きなわけですが、明治や昭和初期の文学を薦めているのです。その理由はかんたんです。子供たちが明治や昭和初期の文学を私には薦めないからなのです。
 もし、私の前に国語の先生が立って、私にそうした文学がいかに素晴らしいかを語るなら、私は自信をもって、現代ファンタジー小説がいかに素晴らしいかを語って対抗します。そのぐらいのひねくれは、年寄りなので許されるかと思うからです。
 つまり、こういうことでしょうか。
 いろんな本を読んだほうがいいですよ。あなた、読み方がちょっと偏ってませんか、と。目の前の人に、何か問いかけをしていらっしゃる。そんなふうに感じました。これが、執事さんの言うサービスであると。もしかしたら、本を読むことさえ、特別にすすめていらっしゃるわけでもないのかもしれない。そんなふうにも感じました。本ばかり読んでる人には、外に出ましょうよ、と、おっしゃるんじゃないかなあ、なんて想像しています。すみません、単なる想像です。

 ふと不思議に思ったことがあります。
 やはり執事さんは、ものすごくたくさんの本を読んでいらっしゃると思うのです。否定されるかもしれませんが、私にはそう感じるのです。違うかもしれませんが、もしそうだとして。なぜ、読書家でないふりをするのかなあと、不思議でなりません。田舎に残る風習についても、私がサロンに行けない理由についても、そんなことは私が書かなくても、初めからよくご存知だったろうと思うのです。想像がつくというか。
 私の思い違いでしょうか。失礼を承知で、勇気を出して書かせていただきました。
 私は本はあまり読まないとは書いていません。小説は読まなかった、と書いているのです。本はたくさん読んでいます。おそらく普通の人の何倍か何十倍かは読んでいるのではないでしょうか。
 しかし、そのほとんどは研究書だというだけのことです。
 理由は、書きましたが、研究所は読めば、それについて話のできる人がいたからです。書きましたね。
 また、私は、子供たちがゲームの本に熱中しているから、明治昭和初期の文学を薦めているのです。書きましたよね。その理由は、原点を知るべきだと思うからです。今の小説の原点には、そうした文学が絶対にあるのです。さらに言うなら、その後には古典だって読んでみるべきだと思っているわけです。
 ですから、私はあらゆる本を読んでいる人に対し、外で元気に遊ぶべきだとは言いません。家にだけいられる人は幸福だと思います。私は経済的に許すのであれば家にいて、本を読み、勉強し、書いて生きていたかったですね。それができるほどの才能も恵まれた経済もなかったので、生きるために私は外に出ているだけなのです。
 ただし、どんなに本を読んでも、会話しなければ意味がないのです。家にこもっていても、たった一人の編集者と話せるなら、それでも意味はあります。ところが、誰とも話せなければ読んだ知識は消えて行くのだと主張しているのです。

 ひとつだけ、あなに警告しておきましょう。

 あなたの環境について私は興味がないのです。どうしてか。それは実のところ、あなたが思っているほど特殊ではなく、よく聞く話だからなのです。そして、同じ苦悩はたくさんの小説で、すでに読み飽きた話だからなのです。
 あなたは「教えたがり」なのです。しかし、おそらく、多くの人はあなたに教わることを好まないと思うのです。どうしてか。それはあなたが「教えたがり」だからなのです。
 あなたは、この書簡でもそうですが、毎回、私に「教えて欲しい」と、はじめますが、三往復目には「私はこう思います」と書きます。それは「私の考えを教えてあげます」ということなのです。しかし、誰があなたの考えを知りたがったでしょうか。
 自分の考えを述べるには、まず、相手に自分の考えについて興味を持ってもらって、相手に、あなたはどう思うのですか、と、尋ねさせて、それから述べるべきなのです。
 このことも何度も書きましたよね。
 さて、どうして、あなたは何度書かれても、私の言わんとすることを勘違いするのかですよね。
 それはあなたが会話をしていないからなのです。おそらく、この書簡を読むサロンの常連の人たちの多くは、とっくに気づいていることなのです。かんたんに分かることなのです。理由は、私と会話をしているからなのです。
 私は違うものは違うと言うし、相手が自分の話に熱狂すれば沈黙します。あまり相槌も打たなくなります。そうして、もうそろそろ別の話にしませんかというメッセージを送るわけです。そうしたことは誰もが無意識に行うことなのです。そして、そうしたメッセージを受けて、人は会話を成立させているのです。それが分からない人は人に嫌われ、結果として会話の相手が減り、さらに会話が下手になって行くのです。そして、嫌われ体質になってしまうのです。嫌われれば、そこから逃げ、別の場所を探しますが、そこでも嫌われることになります。それを繰り返します。居場所は見つからないはずです。

 あなたがどうして私の書簡を記憶できないのか。それも私が何度も書くように会話をしていないからなのです。あなたは私の書簡を読みながら自分は次に何を書こうか、何が書きたいか、そればかり考えているのです。そこに何が書いてあるのか、その人は何が本当は言いたいのか、そうしたことを考える暇なく、さあ、自分は何を書こう、どう書こう、と、それを考えてしまっているのです。書きたくてうずうずしているわけです。
 その理由は会話が足りてないからなんです。

 そして、あなたは、会話の場を求めて、間違ったところに行くのです。教わりに行くのです。ところがあなたはどこで何を教わっても、教わる間中、自分はどこで話そうか、質問の時間はないのか、あれば何を質問しようか、そのとき、自分をどう表現しようか、と、そればかりに熱中しているのです。教わりに行って教えたがっているのです。
 同じことがこの書簡にもあるのです。私は、あえて、この書簡では必要のない謎やレトリックを用いています。それをあなたが発見するのを待っているのです。そうしたことをあなたが発見したとき、ああ、この人はようやく読むために読んだのだ、と、私は思うことができるというわけです。

 あのね。あなたがきちんと他人にものを教わり、きちんとものを学べば、そのときには、きっと、あなたより若い人たちが、あなたに、ものを教えてほしいと言ってくると思うんですよ。あなたにたくさんの質問をしてくるし、あなたの苦悩や苦労について聞きたがると思うのですよ。でもね。それまでは、一度ぐらい、教わるということ、学ぶということをきちんとすべきなんです。

 あなたの嫌いな話で申し訳ないが、私は古武術をながくやって空手に転向しました。そのときは、自分より年齢が下の人たちに頭を下げて必死に習いました。空手ではそうなんだ、古武術ではね、なんて私は一度も言いませんでした。空手からキックボクシングに転向したときも私の師匠は私の大学のはるか後輩たちでした。その人を先生として、必死に教わりました。空手ではこう蹴るんですよ、などと言ったことは一度もありません。
 他人にものを教わるとは、そうしたことなのです。これに慣れなければ誰も本気でものを教えてはくれないのです。私はお金をもらって子供にものを教えるということをしていましたが、お金をもらえるのは嬉しいので、相手がどうでも、教えますよ、漢字の読みとかね。でも、教わる態度がなければ、そんなものは身につきませんよね。ですから、私は子供たちには、まず、会話をさせるのです。聞き手になること、話し手として求められること、それを教えるのです。会話ができるようになると、子供たちは勉強が必要なことを理解するのです。
「私はね」「私の場合は」「私は思うんですけど」「私の考えたところでは」「間違ってたらすみません私は思いました」
 これらは相手に求められて発する言葉で、自ら言うものではないのです。
 私があなたについて分析しているのは、仕方なくなのです。会話が成立していないからなのです。
 一度、何を書こうか、と、考えずに、もう、返事なんか書けなくてもいいから、とにかく何が書いてあるのかを、じっくり読んでみよう、と、そう思ってください。
 そうそうサロンではたいていの男の人はもてたいと思う内はもてないみたいです。もてたい、という気持ちを捨てて、ただ、女性の話を聞いてみよう、と、そう思うようになると、突然、もてはじめるようですよ。もてたい男の人は、女性の話を聞きながら、自分の魅力をいかにアピールするかばかり考えてますから、実は女性の話は聞いてないわけですね。しかし、そうして自分をアピールしても、それに魅了されるのは頭の悪い女性だけで、それこそ魅力的な女性にはアピールできていないわけですよね。そして、サロンに来るような女性たちは例外なく頭がいいので、そんなものは見抜いてしまうというわけなんです。
 書きたい間、話したい間は、魅力あることは書けないし話せないのですよ。読みたい、聞きたい、と、本気で思ったとき、周囲の誰かが向こうから、読ませてください、聞かせてください、と、言ってくるものなのです。実際、私も、サロンでは、しばしば、書いたらいいのに、と、言っています。興味があるからなんです。その人が何をどんなふうに書くのかにね。私の書き方講座とは、そうしたイベントなのです。私が読みたい講座なんですよ。
 私はねえ。これも何度も書きましたが、作家じゃないんです。話し手でもありません。一人の熱心な観客になりたいんですよ。それだけなんです。自分の書くものなんか面白くないんです。自分より素敵なものが書ける人がたくさんいるのに、その人たちは書かなかったりするから、私は書かせたいんです。読みたいからです。自分アピールしかしない人の書くものは読みたくないんです。だから、そうした人には、書いたらいいのに、と、一度も言ったことがないんです。たとえその人が小説や詩をたくさん書いていたとしてもね。逆に面白いものを書く人が、しばらくサボっていると、私は不機嫌になりますし、執拗に書くように言います。
 作るとは、そうしたことなのです。求められて作るのです。
 ありがとうございます。私が他人と会話ができる場所を持てないのであれば、書簡の継続は無意味ですか。
 私は常にねばり強く、あなたとの書簡をやっております。一度も無意味だと言ったことはないし、止めなさい、と書いたこともありません。読むことを読み、書くべきを書くことを、あなたに知ってほしい、と、それだけを願っているのです。
 あなたには、あなたにしか書けないことがあり、あなたにしか教えられないことがあるのです。しかし、それは、今、やるべきことではないのです。たくさんの学問をするのは素敵なことです。しかし、やるべきときにやるべきことをしなければ、それこそが無意味になってしまうのです。
 今、あなたのやるべきは学問というものの基礎体力をつけるべきときなのです。その上で、あなたのやるべき学問の技術を磨いたり、新しい技術を習得したりすべきなのです。
 私は、この書簡では、常にそれを書いてきました。教わるべきは教わるに徹するのだとね。
 先日より、私はあなたに教わる立場で書簡を書いていました。おかしいと思われたでしょう。別にあなたをからかったわけではないのです。他人にものを聞くとはこうした書き方ですよ、というメッセージだったのです。聞くべきときに主張したのでは、それは相手に失礼だし、主張したいなら尋ねる形式を止めて、ただ一人、孤独に主張すればいいのです。それが会話というものなのです。
 カラオケになってはいけないのです。他人が歌っているときに自分は次に何を歌おうかと本をめくるのに必死になってはいけないのです。他人が歌っていたら、きちんと聞くことが礼儀なのです。
 これは何もあなたに限定して、言っているのではありません。カラオケブーム以来、そうした傾向の人が増えました。それを言っているだけなのです。
 他人の話を聞けない人の話は面白くありません。
 サロンでも、自分の話ばかりしようとする人は少なくありませんが、話し上手は聞き上手より人気がないようです。理由は聞き上手の人のほうが本当は話も上手だからなんですよ。
 自分をそんなに主張しなくても、押し殺していても、だいじょうぶ、自分を主張しなければならない事態はまわってくるものなのです。かえって主張しないほうが自分を見失わなかったりするものなのです。
 自己を主張した作家の小説は面白くないですよ。客観的なものを丹念に描いてくれた小説のほうが面白いです。だから、ときどき作家は、自分の話だと嘘をついて他人の話を書いたりするんですよ。
 自分の話だとして書いた嘘は他人の話だと嘘をついて書いた自分の話なんかより面白いものなのです。
 なぜ、私は話すことができないのでしょうか。以前、カウンセリングを受けていた時も、毎回、1時間、無言でした。筆談というか、日記を渡すことしかできませんでした。主張どころか、話せないんです。なぜか分かりません。嫌われてもいいから、話せるようになりたいです。書簡で直りますか。
 話ができないことと、会話ができないことは違います。実際、話はしているのでしょう。
 また、カウンセリングというのは会話ではありません。
 話が本当にできない、というのであれば、これは別の問題です。ただ、こうして書簡をやりとりしているかぎり、話はしているわけです。私の印象では、むしろ、あなたは自分の主張ばかりを繰り返しているという感じなのです。
 質問をして、回答があると、それに対して自分の話をするのです。それなら、いっそ、質問せずに、最初から、自分が書きたいことを、どうぞ日記で自由に書いてください、と、私は思うわけです。

 このたとえでは分からないかもしれませんが。

 野球をやろうとした少年がいます。彼は野球に必要なランニングをして、壁にボールをぶつけてはグローブで捕球していました。彼は野球はやっていませんよね。それだけで上手になれるとは思えませんよね。やはり、野球をやるためにはどこかのチームに入って皆と練習するしかないわけです。
 
 カウンセリングは高級な壁打ちです。壁は自分を傷つけません。しかし、キャッチボールでさえ、もしかしたら、自分は捕球しそこなってケガするかもしれないのです。それが会話です。
 私はこれからも何度でも同じことを書くでしょう。まずは読みなさい、と。読むときには徹底的に読みなさい、と。

 美味しい料理を食べているときに、この料理は私が作るなら、もう少し塩をきかせて、焼き加減はレアにして、なんてやる人は下品なのです。料理を食べるときは作ることを忘れて、ただ、ひたすらに楽しむのです。
 私が言うのはそうしたことです。

 自分のことを語らずに話をできるようにならないかぎり、書簡だろうと、実際の会話だろうと、いずれは相手を不快な気持ちにさせてしまうことになるでしょう。自分のことを話すな、ではありません。自分のことでない話もできるようにならないとだめだ、と、私はもう何年も言いつづけているのです。
 ありがとうございます。話ができないのが別問題であれば、それはそれで取り組んでいきたいと思います。

 私は文章での会話ができるようになりたいと思っています。これほど丁寧にお返事を頂いても、何も分かっていないのかもしれません。何回も読み返しました。自分がなぜ分からないのかが、分かっていないのかもしれない、というところに立っています。今、なぜ言われていることが分からないのかを考えています。しばらく一人で考えたほうがいいのか、このまま書き続けたほうがいいのか、悩みながら、また書いてしまいました。
 例えば、この文章も自分のことを話しているので、自己主張になっていて、会話になっていないということでしょうか。
 違います。
 この文章は私が書いたことについて、書かれているのです。
 こうしたことを繰り返すのが書簡というものなのです。
 もう少し教えてください。悩んでいます。上記の私の文章は、自分を晒していることにもなるのでしょうか。
 恋愛論のところで、書簡では自分を晒すことが大切だ、と、執事さんにご指摘いただきました。自分なりに晒すとはどういうことかと、努力してきたつもりだったのですが、どうも間違っていることが分かりました。自分の考えや感じたことや経験を書かないことが、自分を晒すことなのでしょうか。自分の何を晒せば良いのでしょうか。
 もうひとつ、教えて下さい。
 書簡の途中で、立場を逆転させて、執事さんが教わる立場で書いてくださった文章は、良い例として、こうしなさいという意味で書かれたのでしょうか。それとも、あなたは教わる立場なのに、こんな風に書いているんですよ、するとこうなっちゃうでしょ、という意味で書いて下さったのでしょうか。

 私だけが分かっていないようで、ものすごく恥ずかしいです。
 質の異なる問題がいくつかありますので、きちんと整理しましょう。
 まず、私が書簡では自分を晒す必要がある、と、書いたのは、何も自分の過去とか年齢とか家族構成とか、あるいは過去の性体験とか、恋愛体験について書かなければならない、と、いった意味ではないのです。
 自分を晒すとは、気取りのない文章ということなのです。
 気取りがないとは、すなわち裸の文章という意味なのです。では、どうして私はそんなことを言う必要があったのでしょうか。
 それは、あなたの書簡はダブルスタンダードだからなんです。
 ひとつは、私は素直で優秀な生徒です、というスタンス。もうひとつは、私はバカじゃない、本当なら、もっとみなに尊敬されるべきなのだ、少なくとも他人に軽蔑されるべきではないんだ、というスタンス。この二つのスタンスは矛盾します。ゆえに、どちらかのスタンスを止めるべきだと私は言う必要があったわけです。
 人が人を嫌うのは、この分からなさによるものなのです。親はしばしば子供に、しっかりしなさい、これはお前の将来のためなんだから、と、言います、同時に、私はここまでお前にしてやったんだから、とも言いますよね。これはダブルスタンダードなんです。あなたのため、と言っておいて、私はここまでしてあげたんだから、あなたは私に感謝し見返りを与えるべきだ、と、言っているわけです。
 こうした矛盾した言い方はたくさんあります。これを人は嫌うのです。
 嫌う理由はかんたんです。人は分からないことが怖いからなんです。子供が親を嫌うのは、こうしたところにも原因があるのです。人に嫌われ、しばしば、いわれのない攻撃や無視を受ける人の中にも、このタイプの人が多いものです。
 もちろん、私もダブルスタンダードの人が嫌いです。ですから、本当は頭がいい自分とか、私だっていろいろ勉強しているんだとか、私も教えられることがあるとか、そうした鎧は脱ぐべきだ、と、私は言ったのです。
 あなたは何か質問し、それに相手が答えると、必ず、私はこう思う、と、やるのです。これは私とのやり取りだけでなく、すべての人にそうしているように思われます。それは相手に不快感を与えることがあるので、私は止めるべきだと何度も書くわけです。今、あなたに何のトラブルもなかったとしても、そうした癖はいつかトラブルを起こし、人間関係を悪化させる原因になるかもしれないからです。
 質問したら、まずは、相手の答えを理解するまで教わるのです。質問の回答に回答で返すのは失礼極まりないことなのです。

「ねえねえ、このパン美味しいと思わない」
「そのパンどうして美味しいと思うの」
 これは質問に質問で返した例です。
「私、ジャムが好きだからこのジャムパンを美味しいと思うの」
「ジャムの出来でいうなら、このパンより、あのパンが美味しいんだよ」
 これは回答に回答で返した例です。

 どちらもケンカの前段階です。

 さて、ほぼ、まとめてしまいましたが、私が教わる立場で書いたのは、教わるということの手本を示したのです。教わるときには自己を主張しないものなのです。自分の考えを披露したいなら、自分に教わりたいという人の出現を黙って待てばいいのです。必ず現れます。間違っても、それは自分の子供ではありません。

 私は自分の生徒であるところの子供には本一冊教えたことがありません。面白かったという話はしても、薦めはしません。もし、子供がこうした勉強をするのにはどんな本を読めばいいか、と、尋ねてきたら、そのとき、はじめて教えます。それ以外で本を薦めることは相手が生徒であるところの子供であっても失礼なのです。
 そうした違いが分からないことは人間関係において危険なのです。
 
 と、そんなことを私は書いているのです。
 たしかに、子供に本を薦めたことはありません。どんな本があるか聴かれて答える程度です。

 いくつか疑問があります。私は、会話でも、文章でも、常にダブルスタンダードなのか。自覚はまったくありません。もし、文章のみで顕著な傾向が出るのであれば、それはなぜで、どうすればよいのか。なぜ、自分で分からないのか。大問題です。

 もう一つ、気になっていることがあります。例えば、読書感想会の課題図書の感想を求められて、書き込みしたことがあります。やはりあれは失礼だったのでしょうか。不快に思われた方が多かったのでしょうか。書くべきではなかったのでしょうか。

 かなり混乱しています。人は誰でも自分の考えについて他の人がどう思うか知りたいとは思わないのでしょうか。先のジャムパンの例がおかしいのは分かります。私はそれと同じことを文章でしているということですよね。文章化されたすべてにおいて。
 少し時間を下さい。もう一度よく読んで考えてみます。気取りのない文章とは、どんな文章なのかも、考えてみます。今は、全く分かりません。
 この書簡が顕著な例です。私は、私の話を書きました。私は子供に本を薦めたことすらない。つまり、私はそうした他人に対して見下すようなことは子供に対してすらしない、と、書いたわけです。
 それに対するあなたの冒頭
「たしかに、子供に本を薦めたことはありません。どんな本があるか聴かれて答える程度です」です。

 そんな当然のことは、あなたに指摘される前から分かっています。
 と、答えたわけです。たしかに、と、使って書き出しているのですから、そのたしかに、という語は、あなたと同じように、もしくは、あなたに指摘されるまでもなく、という意味になりますよね。これは私に対して失礼なのです。ただ、たいていの人はこうした失礼を受けても、それを指摘できないのです。それはこれを指摘することが私があなたに対する失礼となってしまうからです。

 この一文が象徴しています。せっかく私は自分を例にして語っているのに、いきなりが、たしかに私もそんなことはしません、ですからね。ここで私が不快な気持ちにさせられるわけです。

 私が回答したことに、回答で返す。いきなり、いつものあなたの失礼なやりかたがここに出ているわけです。これ以上、何を指摘する必要もないのではないでしょうか。

 では、失礼な返事をしましょう。

 気取りのない文章とは、どんな文章なのか分からないことが分かりません。私も気取りのない文章は全く分かりません。おそらく私もダブルスタンダードなのでしょう。自覚はありません。そもそも、この問題はどこからくるのかといえば、それはジャムパンの例でしか分かりません。私も精神分析など勉強していますから、そうした学問から答えることはできますが、私も、そうしたやり方は違うと思うので、ここではしません。
 考えてみます。何しろ、あなたの言うことは分かりにくく読みにくく、学問的にも劣ってみえるので、私のほうでよくよく考えて、それから返答しようかと思うのですが、返答できるかどうかも分かりません。全く分かりません。

 こうしたことを平素あなたは書いているのです。だから、私は不快な気持ちにさせられるのです。おそらく、私でなくても、多くの人は不快な気持ちになるはずなのです。




 すみません。最初からやり直しさせてください。後日、あたらしいトピックで書かせていただきたいと思います。
 と、思ったのですが。

 私の未熟さゆえに、これ以上、同じことを繰り返すのは、執事さんや読者の皆様に申し訳ないような気が致します。たくさんのお時間と労力を費やしていただいたことに感謝しています。その真意をお察しすると心苦しく、大変申し訳ないのですが、書簡は、一度、中断させてください。
 ここでの経験を大切に反芻し、いつの日か改善を持って、その後接する多くの人を通してお返ししたいと考えております。中途半端な形で終わらせていただくことをお許し下さい。
 では、終わりにしましょう。
 しかし、本当に、最後の最後の一通まで、とことん失礼で無礼な人でしたね。そして、ながきにわたって、結果、何ひとつとして相手を認めることのない、底なしに頑固な人でしたね。

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