ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

公開書簡コミュの子供への期待

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
執事様

 ご無沙汰しております。再度、お付き合いいただければ幸いです。以前、サロンでの話題で、 私には、ちょっと引っかかっていることがあるんです。

 たしか、私を含め4〜5名の方がいらっしゃった時と記憶しています。その時、こんな会話がありました。「親は自分の子供に、自分の叶わなかった夢を託すべきではないと思う」と。 育児の話だったのか、何の話だったのか、定かではないのですが、話の流れで、ある方がそうしたご意見をおっしゃったんです。私はその方に、なぜそう思うのか、と、即座に尋ねたと思います。なぜなら、その時の私は、そうは思わなかったからです。そして、私以外の全員が、その方のご意見にイエスと表明しました。その後、会話は別の話題に流れていきました。私の記憶では、執事さんもその会話に入られていたと思います。

 実は、私は、今でも同じ考えを持っているんです。まるで無責任な言い草になるかもしれませんが、私個人としての考えはこうです。

 我が子に、自分のなしえなかった夢を託すこと、それを子供に伝えることは、大事なのではないだろうか、と。さらに、こうも思うのです。それを否定するということ。それは結果的に、「親は、実は子供に期待しているのに、期待していると表現してはいけない、そのそぶりを見せてはいけない」という葛藤に陥り、時に「貴方のためだから」という言葉を使ったりして、親は表現と気持ちが一致していない状態に陥っているのではないか、ということです。 その状態は、子供にとって、どうなのかなと、私は思ったりもするんです。
 また、子供にとっても、親に何も期待されてないのは、寂しい限りではないかとも思ったりします。期待に沿って生きるかどうかは、本人の選択になりますが、やってみたけどダメでした、でいいのかなあと、私は思うのです。例えば、子供が受験に失敗すれば、親としては落胆しますけど、それも表現してしまった方がいいんじゃないかなと。

 しかしながら、個人的な経験から思うのは、小さい頃からの期待は、暗示になりやすいようにも、私は感じています。その点は、良いのか悪いのかの判断は、私にはつきませんが、「ねばならない」的な思考に支配される可能性があるかも知れず、将来、苦悩が待っているかもしれないとも、考えたりします。

 前後の文脈を断ち切り、こんなに話を単純化してしまって、お叱り頂くのも必死なのですが、もし、私がここに書いた範囲内で、何かしらご意見をお持ちでしたら、執事さんのお考えをお聞かせ下さい。

コメント(6)

 話がまったく違います。
 そして、この文章においても話が違うものになっています。話というものは筋があって、それにともなって段階というものがあります。右に左に、その場、その場で、自由に自分の道を選んで、さあ、私の後について来い、と、命令されても、後を行く人はいません。

 まず、親が子供に期待をするという話と、親が子供に自分のなし得なかった夢を実現させようと強制するという話は、まったく別のことです。
 サロンでの会話は、後者です。
 ゴルフやプロボクシングの話題から、そうなったのだと思います。さらに、サロンでは、それがいけない、と皆が言っていたのではなく、それは危険だと言っていたのです。禁止と危険は違います。
 私たちは、たまたまスポーツになどにおける成功を見ていますが、世の中にはその背景にたくさんの失敗があるということを忘れてはいけない、と、そう言っていたのです。
 もし、ゴルフのプロにすると子供の頃からゴルフしかさせていなかったらどうでしょうか。成功すればいいのですが、失敗すれば、その子供の他の可能性は失われることになるのです。
 もちろん、たいていの子供は親が好きですから、親がプロだと、それに見習うことはあります。これは環境ですから、そんなものも誰も否定していません。そして、それが失敗することもあります。
 ただし、それは子供が選んで失敗したのであって、親が強制して失敗したのではありません。

 この問題と、親が子供に期待するという問題は別のものですし、そもそも、期待するでは、会話として成立しません。
親が子供に健康であることを期待するなら、これは普通のことです。しかし、親が子供に医者になれ、と、期待するなら、これは少し違います。
 子供はどんなに小さくても、ひとつの人格で、ひとつの人格にはひとつの人生があるのですから、親はその人生を勝手に導き、そして、人格を踏みにじっていることになるからなのです。
 子供には、いろいろなタイプがあります。親は子供の成長をひたすら願えばいいのであって、その子供がどんな人間になるか、どんな職業を選択するかまで願う必要はないのです。

 もう、ひとつ。もし、無意識に親が子供に過度な期待をしていると、子供は社会性が育たずに、学校や会社でうまく人間関係を維持できなくなったりすることもあります。理由は、他者を自分に何ごとか無理な強制、期待をしてくる抑圧と考えてしまうような習慣ができてしまう場合があるからなのです。
 これは、あくまで、ひとつのケースであって、必ず、そうなるというわけではありませんが、そんな可能性を子供には与えたくないものです。

 そもそも、親が自分のなし得なかった夢を子供に託すというのは、親の人格に問題があります。その人は、自分の人生が素晴らしく、そして、それなりに満ち足りていると考えていないことになるのです。
 自分の人生に不満足な人をどうして子供は認めなければならないのでしょうか。

 自分はサッカーが大好きだったがプロになれなかった、だからおまえはサッカーのプロになれと強制されても、子供には、自分がただの道具にされたとしか考えられません。
 逆に、プロでなくても、ものすごくサッカーが好きな親がプロではないけど、サッカーのある人生にものすごく満足していたとすれば、不思議と子供はサッカーが好きになったりするものなのです。そして、サッカーが得意になるものなのです。
 子供に何かを託すというのは、親が自分の人生をきちんとやっていないという証なのです。
 子供になんか期待せずに、親は自分の人生をきちんと楽しむべきなのです。そして、そうした人生を楽しむ親の背中を見て、子供ははじめて、大人になりたいと思うのです。なぜなら、自分ももっと楽しみたいと思うからです。
 夢を託すということは、成功を願うということです。しかし、成功なんかしなくても、人生は十分に楽しくなければいけないのです。そうでなければ、世の中は一部の成功者とその他、多くの失敗者で形成されていることになってしまいます。そんなくだらない世の中なら、私はひきこもりになってパソコンゲームにでも熱中しますね。
 お返事をいただきありがとうございます。

 おそらく私の記憶違いだったのでしょう。失礼いたしました。 そのことについては、こだわる理由も必然性も私には感じませんので、執事さんが書かれたお返事に沿って、お話をつづけさせていただければありがたいです。お返事を 拝読して、なるほどこうした考え方もあるんだなあと思った次第です。

 お返事に、期待と強制についての2つのお話があったかと思います。まずは、強制についての私の見解について、まだ書いていませんでしたので、ここで少し書かせていただきます。

 執事さんが、現実としてどのような状況をもって強制と書かれたのかは分かりませんが、私は、こちらについては、あまり問題視していません。スポーツにしろ勉強にしろ、嫌がる子供に無理矢理させることは、基本的にできないと思うからです。嫌がり泣き叫ぶ子供をひっぱたいてでも従わせるような親の実力行使は可能かもしれませんが、それは虐待であって躾けやトレーニングとは別物かと思いますので、ここでの問題から除外して考えたいと思います。 また、いまどき、巨人の星に出てくるような家庭もないと思うのですが、仮にあったとしても、お話にあったサッカーの例えのように、子供には親の望みが分かりやすいと思うです。ゆえに、時に子供のモチベーションが保たれることがあるのかもしれないとは思います。先に無意識の期待についてはほんの少し触れましたが、そういった意味において、親の無意識の期待よりは、こちらのほうがマシだと私は考えています。

 また、ゴルフのたとえ話についてですが、子供がそれで失敗したからといって、その子供の別の可能性がすべて断ち切られるとは、私には考えがたいのです。そう考えるのは親を含めた大人側の感覚であって、子供の側から見れば、けっこうへっちゃらなのではないかと、思ったりもします。もともと、強制されたことですし、むしろ、やっと解放されたと思うかもしれません。これは、私の想像に過ぎませんが。
 そして、初めから強制されなければ、たしかに別の人生があったでしょうが、それは、すべての人の人生において言えることかと思います。親の離婚さえなければ、とか、この家庭に生まれなければ、とか、あの時、判断を間違えなければ、など、自分にはどうすることもできない分かれ道はあるように思います。

 あと、親がプロで子供が習う場合、子供が自ら選択したということもあると思いますが、そこには親の期待も過分に含まれている場合が多々あるのではないかと私は想像します。自分で選択した、という中には、実質的に親の期待を含んでいると思うのです。それとは別に、親が好きで楽しんでいるものを、子供も好きになる、得意になるということはあるだろうと、私も思います。

 後半の、親の期待について執事さんの書かれたことについてです。
 子供の人格を尊重するべきとか、成長だけをひたすら願うべきとか、親が自分の人生をきちんと楽しむべきとか、親の人格に問題があるから期待を押し付けるのだとか、それらは確かに理論としてはそうなのかもしれません。正論なのでしょう。それはちょうど、子供の健全な成長の為に母親は母性愛と優しさを持って子供に接しましょう、的なものを、私は感じなくもありません。
 親も人の子ですから、完璧ではないわけで、様々な問題を抱えて生きていますし、果たして、人生半ばで、自分の人生に十分満足している人が本当にいるのかどうかも、私には疑問の残るところです。もっとも、人生に後悔することを、私はネガティブに捉えていませんので、その辺りで、執事さんとは見解が違ってきているのかもしれません。

 私の考えとしては、理想の親像に縛られるよりは、成功を願ったり、子供に夢を託したいのなら、そう表現したほうがいいと思いますし、成功したら一緒に喜び、失敗したら一緒に悲しんで苦しめばいいと思うんです。親と言えども、所詮は、子供の気持ちなど、分からないのですから、親は自分の気持ちに正直に従う方が、子供にとっていいのではないかとすら、最近の私は感じています。
 その過程で、自分を含め、人生は失敗することがあってもいいのだと、ようやく府に落ちるのではないかと。そんな風にも思うのです。それは、親は子供によって育てられる、という言葉の、実感でもあります。もちろん、必ずそうなるというものでもなければ、それがベストということもなく、そうであってもいいのでは、という程度で、私は思っています。


 (コメント2は、文章訂正のため、削除させていただきました。)
 それなら、それで、私には何も言うことはありません。
 限りない愛でもって、世界を鳥瞰されている執事さんに、敬意を表します。
「黄色信号はとまるべきですか」
「そうですね。やはり、黄色ならとまるべきだと私は思います」
「では、どうして、黄色信号などあるのでしょうか。私は黄色信号は必ずしもとまる必要がないと思います。そもそも、黄色というのは」
「そうですか」

「すみません。話をかえます。今度は質問です。バナナは好きですか」
「私はバナナはカロリーが高いと思うので食べません」
「バナナのカロリーが高いと考えるのは間違いです。バナナというのは、そもそも栄養があり」
「私は、その話に興味がありません」
「どうしてですか。逃げるのですか、栄養の話は人生の話ですよ」
「栄養にも、人生にも興味がありませんし、あなたに教わる必要もないのです」

「私は教えようなどとは思いません、どうしてそうしたことを言うのですか」
「その質問に答えても、きっと、あなたは自分の意見しか述べないし、私の話は聞かないからです」

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

公開書簡 更新情報

公開書簡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング