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公開書簡コミュの書くこと

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執事様

 ご無沙汰しております。昨年の書き方講座では、お世話になりました。回数にすれば2回ほどでしたが、いろいろ学ばせていただいたように思います。ところが、いざ書く段になると、実践が伴わず困っております。書くというのは難しいものです。

 唐突な質問で申し訳ないのですが。
 執事さんにとって、書くということについて、どのようにお考えでしょうか。私はいつも、執事さんの書かれる文章の、内容はもちろんのこと、その文章量に驚いています。

 

コメント(20)

 私にとって「書く」という行為はきわめて単純なものです。
 つまりは、私は「伝言」しているだけなのです。たとえば「この木には美味しい実が成る」とか「このキノコは食べてはいけない」「この先には危険な獣がいる」「私は東に行く」というようなものです。それが、現代的になって「私にとってのグルメとムード」とか「食品添加物と健康」とか「格闘家は何故巨大マングースと闘ったのか」とか「サロンにはどうして人が来ないのか」というようなものになっているだけの話なのです。
 私は、自己顕示のための作品は書きません。書くものは、あくまで伝言を基本としています。こんなことを書く私って可愛いでしょ、とか、こんなことを書くオレは頭がよくて格好いいだろう、というようなことを主張するためには書かないのです。
 何故なら、私は私に忠実だからなのです。他人の評価を気にして「書く」ということはしません。それは「書かれたもの」は、私とは無関係の、ただの伝言だからなのです。
 この違いは、こうして文章で表現することが困難なことです。おそらく、会話なら、すぐに伝わるでしょうね。これもまた、私があえて「書く」理由なのです。会話なら単純に伝わることが「書けない」わけですね。ですから「書く」のです。何故なら「伝言」する必要があるからなのです。その必要は、今、こうして、あなたに伝言しようとして、それが伝えられずに私は困っているわけで、こうした事態のために、私は普段から会話ならすぐに伝えられることで文章化が困難なものを書いて伝える方法を模索したりしているのです。
 本当に難しいですが、その模索している「文章」も、また「伝言」なのです。
 これは未来の私に対する「伝言」です。未来に困った私がいるかもしれないので、その私に伝えておくわけです。こうすれば上手に伝わったということを。
 また、過去の私に対する「伝言」もあります。それは「記録」となります。過去の私は時間的問題でその「伝言」を受け取ることはできませんが「伝言」しておくことで、過去にその伝言を受け取っていたと仮定したところの将来の私の役に立つわけです。
 これがおおよそ私が「書く」理由です。
 他人に対する伝言。自分に対する伝言。そして記録です。

 この基本を忘れ、自分を着飾るように「書く」人は、結果、着飾ることにおいても失敗します。そうだなあ、それは、いい年齢の女性がピンクの服を着てオシャレするようなものかな。高級ブランドのスーツを着て、そのポケットにはパンパンにものが詰まっているような紳士のオシャレかな。
 ファッションの問題になると、また、話がややこしいので、このあたりで。
 ありがとうございます。
 書くという行為の目的の、一つ目は、他人に対する伝言。二つ目は、未来の自分に対する伝言。例えば、模索しながら書いている文章。三つ目は、過去の自分に対する伝言。それが記録ということですね。
 そして、それらは、書簡や日記のみならず、作品を書く場合も例外ではないと。そのように理解しましたが、間違っていましたら訂正してください。

 私は、自分の書いたものを読み返しますと、自己顕示欲が現れているなあと思うことが多いです。それは、読者(他者)が多いほど顕著です。自分に自信がないゆえの悪あがきのように、自分では感じています。すごくみっともないわけですが、書いてしまいます。
 この場合、執事さんが挙げられた書く理由の中の、「未来の自分に対する伝言」にあたるようにも思えるのですが、どうなのでしょう。また、自分に忠実に書くとは、どういうことなのでしょうか。
 読み手を決めたら、その人に向かってまっすぐに書くのです。読み手が過去の自分だったり将来の自分だったりするなら、その自分に向かってまっすぐに書くのです。
 嘘や誇張も読み手のために使うのです。
 自己顕示欲で嘘や誇張をしてはいけないのです。私は完全に嘘つきです。もう確信犯で嘘を書いています。たとえば、私は本当は一日に百通のラブレターをもらうほど女性にモテモテの青春をおくっていました。初体験はもちろん、美人の音楽教師が手取り足取りで教えてくれました。でも、そんな話、読んでいて面白くないですよね。だから、私はあえて、自分はモテなかったと嘘を書くのです。あまりにモテないので、もうセックスなんか諦めて同級生の下着盗んで、二重になった布の部分の小さなシミからそこに当たっていたものを想像していたんだ、なんてありもしないことを書くのです。そんなの嘘です。本当は、今は大女優となった元アイドルに犯されたというのが本当なんです。そのアイドルは川崎の工場跡でグラビアの撮影をしているときに、チンピラにからまれていたのです。スタッフはだらしなくて逃げてしまったので、私が助けたのです。もちろん、私は喧嘩は嫌いでしたが何しろ、空手での全欧チャンプだったので、まあ、相手は二千人いて戦車なども持っていたようですが問題なくやっつけたら、惚れられてしまって、それで、その人が実は私は月から来ましたって言って、月で初体験したというのが本当です。
 自己顕示欲が分かったでしょうか。
 記述にいらないものがありますよね。自分の初体験の相手が音楽教師だったとか、自分は空手をやっていたとか、やっぱり初体験の相手はアイドルだったとか、そうしたことはあえて書く必要ないですよね。それが自己顕示欲なんです。ただの情報のように見えて、実は、オレってモテモテだったんだ、だから、そんなモテモテのオレとつきあったほうがいいよ、何しろモテモテだったんだからセックスぐらいしても損はないよ、と、そうしたことを書いているわけですよね。
 自分の初体験の話で読み手に何か伝えようとしているわけではないのです。むしろ、伝えたいのはセックスさせて、オレを愛してであって、話は何でもいいことになります。話は何でもいいのですから、そんな、何でもいいものが面白いわけがありませんよね。
 自分に忠実に書くというのは、誉められたいとかバカにされたくないとか、モテたいとか、頭がいい人だと思われたいとか、そうした欲望を捨てて、今、確かに書きたいことだけを書くということなんです。
 だって、誉められたり尊敬されたりするために文章を利用したのでは、本当に伝えたいことなんか伝わらないじゃないですか。
 私はそう思うんです。伝えたいのは情報であって、私という人間ではないわけですからね。
 書くという行為のベースには、思いやりがなければならない。お返事を読んで、そう感じました。そうしますと、嘘や誇張は高度なテクニックということでしょうか。逆に言えば、自分に忠実に書くという意味においては、嘘や誇張は必ずしも必要ない、とも感じたのですが、いかがでしょう。

 「今、自分は、相手に何を伝えたいか。伝えるべきなのか」という部分が、自分でも分かっていないまま、感情で文章を書いていることが、私には多いように思います。冷静ではないのです。日記もそうですし、こうした書簡もそうです。そのため、大事なことが伝わらず、トラブルが発生することが多いように思います。そこで、大事な書簡では、頂いた手紙を、一晩寝かす、ということをよくします。そうすると、いくらか冷静にな気持ちで返信を書くことができるように感じます。
 褒められたい、尊敬されたいという気持ちは、あります。その気持ちを自覚できないまま、何かを書く時、文章に出てしまうようです。
 その点、執事さんは、即答されることが多いように私は感じています。それでも、冷静な文章が書けるのは、なぜでしょうか。何かテクニックがあるのでしょうか。
 失礼ですが、私はおもいやりを持って書いたことなど一度もありません。相手を思って書くということと、思い遣りを持って書くということは違います。私が言っているのは、何かを書くときには、それを読むだろう相手のことを想像して書くということです。思い遣りということではありません。
 そもそも、おもいやりを持って書くということですね、という、この文章は、本音ではなく、私は他人を思い遣ることのできる優しい女性なんです、という主張が読み取れてしまうのです。それは「書く」ということを純粋に述べているのではなく、こんな私の気持ちをみなに知ってもらいたいという無意識がはたらいています。

 では、こんなたとえをしましょう。

 山を歩いていると崖の先に熊の姿を見ました。ここから先は危険だと思い、そこで引き返すことにします。しかし、次に来るときには、このことを忘れてうっかり熊のいるところに足を踏み入れるかもしれません。そこで危険と目印をしようと思います。幸い、何か書くのに適した石板と書く物がありました。まず「この先危険」と、こう書きます。しかし、そこで考えます。これではどの程度危険か分からないので、何もなければいいが鹿や猪を追っていたら、多少の危険は、と、行ってしまうかもしれない。そこで「この先危険、熊」と書くわけです。ここまでは情報です。
 ここで考えます。自分はこれでたとえ大鹿を追っていても諦めるが、若い自分の息子はどうだろうか。熊ぐらいなら、と、先に進むかもしれない。そこで「この先危険、熊出没、崖崩れる」と書くわけです。これはもう嘘です。しかし、熊ならこの弓で退治できると考える若者も崖が崩れるのでは対処のしようがないと諦めるかもしれない。あるいは「凶暴熊」「手負い熊」と、そう書くかもしれません。これが誇張です。
 また、書いてみたら目立たないので、文字の周囲を赤く塗るかもしれません。これも誇張です。
 そのときに、これを書いた親切な自分のことを知ってもらいたいと感じて名前を入れること、これが自己顕示欲なのです。
 ありがとうございます。興味深い分析でした。思いやりという言葉を、私が理解していないままに使用した結果、生じた語弊かと思います。相手のことを想像して必要と思われる情報を提供するのは、思いやりではないということですね。了解しました。

 自己分析ではこんな感じです。先の私の文章、「おもいやりを持って書くということですね」は、送信直前に追記した文章でした。書かなくて良い文章を書いてしまう、書かずにはいられない性格上の欠点が現れているように感じます。それは、喩えれば、今は存在しない、過去生きていただろう妖怪への恨みのようなものに感じます。
 追記した文章に込められた心理は、「あなたは文章表現においても、とても思いやりのある方ですね、ということを私は理解していますよ。そんな私って、すごいでしょ」というところでしょうか。結果、いずれの解釈も、自己顕示欲ということになりますね。

 ご気分を害されましたら、もうしわけありません。全く悪意はありません。分析は、正しいかどうかではないと私は思っています。

 ところで、なにをもって「思いやり」というのだろうか、という疑問が、私の中にあります。執事さんは、どのようにお考えでしょう。
 
 文字の解釈や文章の解釈はいろいろで、何が正しいとは言い難いところもありますが、ここはシンプルに行きましょう。
「思い遣り」というかぎりは、相手のことを考え自らを犠牲にする精神をもって接することだと私は思います。それはつまり愛に近いわけです。
 私は、そもそもが、そうしたことが嫌いな人間です。マナーやルールは大好きですが、思い遣りとか優しさとか愛情というものが嫌いなんです。マナーとかルールというのは、自己の欲求に妥協を加えるかわりに、相手にも自分の欲求をそのまま出さないように要求することで、これは単純な取り引きであって、自己犠牲ではないのです。
 マナーのいい人というのは、いわゆる優しい人とか良い人というのとは少し違うわけです。
 きわめて似ているのですが違うのです。
 たとえば、車の運転中には道を譲ります。譲らない人、強引に車線を変更してくる人、渋滞の一番前まで右折車線を走って行って車線を変更する人、こうした人を私はマナーの悪い人だと考えて嫌います。しかし、車線を譲るという私の行為はマナーであって、思い遣りではないのです。私も割り込みをさせてもらう必要があるので、他車の割り込みも認めて妥協しているだけなのです。
 ですから、私は道を譲っても良い気分にはなりません。当然のことをしているだけだからなのです。

 私にとって「書く」という行為は車の運転と同じです。運転には運転をするための技術や知識の他に、そうしたマナーを知る必要もあります。それは「書く」ことでも同じなのです。しかし、運転の標語などには人に「思い遣り」を求めるようなものがあります。あれが私は嫌いなのです。何も良い人、善人だけが運転するものではないからです。

 タバコをやる人にもマナーがあります。道に吸殻を捨てられるのは困ります。ですから、タバコをやる人にマナーを守ってもらいたい、と、要求することはできます。それがタバコは煙を出すから、タバコをやらない人に煙を吸わせないような努力を、と、言い出すと、これはおかしな方向に行くことになるのです。
 善人ヒステリー現象とでも呼びましょうかね。私はそうした善行のヒステリーが嫌いなのです。
 このMIXIでも、やれSMとは、とか、恋愛とは、とか、コメントをつけられたのなら、とか、安全なプレイとは、とやる人たちがいますよね。バカバカしいのです。そうしたことを言ったり書いたりする人にかぎって、現実は見ていなかったりします。
 タバコは本当にどのぐらい害なのか、SMはどうしてやるのか、コメントをつけられたら本当に返す必要があるのか、と、そうしたことは考えたこともないのです。
 考えずに気分だけで書くことを私は「書く」と言わないのです。
「思い遣りを持って」という言葉は「思い遣りのある人ですね」と、使用すべきなのかな、と、私はそんなふうに思うわけです。
 たとえば子供にも「思い遣りのある人になりなさい」と言うのではなく「思い遣りのある人だねと言われる人になりなさい」と言いたいのです。
 小さな違いですが、私にとってはそうした深い深い意味になります。それがまさに「書く」ということだからです。そして、こうしたことは私たちは日々考え話す必要があるのです。
 ですから、あなたはしばしば私に不快にさせるとか怒らせると書きますが、私は不快でもないし怒ってもいません。どんな状況であっても、私は私の考えを主張する、堂々と主張する、それだけです。
 「思いやり」という言葉を、今まで私は安易に使っていましたが、お返事を読んで、少し考えさせられました。

 思いやり、優しさ、愛情という言葉が、自己犠牲の精神を含んでいるとしたら、確かに、それらは少なくとも、他の人への要求として、発する言葉ではないと私も思います。
 思いやりとは、ある時、ある状況で、ある人が、受け手として感じるものであって、「そう感じました」と、過去形で、自分の体験を伝達する場合のみ、言葉として使用する価値があるのだということですね。

 私は、つい最近、携帯電話を持つようになりました。まず初めにしたのが、マナーを他人に聞くということでした。その時思ったのは、マナーを知らないことは、人間として恥ずかしいことではないということです。マナーは必ずしも明文化されていませんが、学ぶことができます。つまり、知っているか、知らないかの違いに過ぎないわけですから、そこで携帯を使いたかったら、その方法を聞けばいいんですよね。

 そして、書くことに必要なものが、思いやりではなくマナーであるのなら、それは学べるということになりますね。それは、私にとって、とてもありがたく、救われた気持ちになります。ただし、書かなければ学べない、ということかもしれません。そのコミュニティの中で、という条件も必要かもしれません。おそらく、一人でたくさん書いていてもダメなんですよね。

 そんなことを思いました。

 書くという行為について、伝達、マナーの点からお伺いしたわけですが、他にどんなことに注意すればよいでしょうか。
 私は確かに相手の書いた内容から、その人の真意を深読みします。これは私の癖ですが、しかし、そうした癖は、長年、そうした職業にかかわってきたものの習性であり、いいことではないのです。
 書かれたものについては、まず、素直に読み、それに対して反論するなり、共感するなりすべきものなのです。
 あなたは、どうも、誰かが何かを書くと、必ず、それに対して自分なりの解釈を加えるようです。そして、その解釈は、必ずと言っていいほど外れます。それがもっとも他人を不快にさせてしまうのではないでしょうか。
 たとえば、私が「書くときには相手のことを思って書くのだ」というと、あなたは「それは相手を思いやるということですね」と、解釈します。冷静に客観的に考えて、この解釈が私に必要でしょうか。
 そして、それを書くということは、あなたは自分なりの解釈を表現しているのではなく、私の書いたものを補足しているのだと気づいているでしょうか。共感するということと、相手の気持ちを推測することは違います。

「思いやり、優しさ、愛情という言葉が、自己犠牲の精神を含んでいるとしたら、確かに、それらは少なくとも、他の人への要求として、発する言葉ではないと私も思います。」(あなたのママです、日本語として不正確ですがここはママ載せました)

 何が書いてあるのか私には分かりません。

 おそらく、その前の私の文章が稚拙だったからのでしょう。かなり間違ってあなに伝わってしまったようです。私は自分の至らなさに落胆しております。

 そもそも、どうして、思い遣りという言語の使い方など、ここで語らなければならなくなったのか、そこが私には分からなくなりました。私は、読み手を思う、つまり、読み手が誰なのかを意識して書くという程度の意味で書きました。その想像を気遣いとか思い遣りとかという意味だと解釈されたので、それは違うと書いたのです。そして、私は、他人を思い遣れる人になれ、と、子供に言うよりは、他人から思い遣りがあるね、と、言われる人になれ、と、そう言いたいと書いたわけです。これは他人に思い遣りを要求(おかしいですがママ採用します)する人になるな、という意味ではありません。おそらく私の文章があまりにも下手なので、あなたが補足して解釈してくれものと思われますが、これは間違いです。
 
 書くということにおける技術と、思い遣りという言葉の解釈は無関係です。そして、マナーという問題と書くということも無関係です。
 私は「思い遣り」という言葉に対して、そうした言葉は好きではなく、生活においては私は「思い遣り」ではなく単純に「マナー」とか「ルール」でやりたいと考えているという意味で書いています。
 それは、書くということについて尋ねられたことに、あなたが書く技術とは無関係な「思い遣り」という言葉を使用してきたことをうけて書いたものです。それが間違いの元なのかもしれません。その点は激しく自己嫌悪しています。
 あなたによって解釈され補足されなければならない程度の文章しか書けない私が悪いのだと思います。もっと、ダイレクトにものが伝えられたらいいのでしょうが、至らないのです。

 車を運転するのに必要なのは技術とルールとマナーであって、素敵な人格とか、他人の痛みが分かる人とか、思い遣りの心ではない、と、私は言いたいだけなのです。その運転の技術とかマナーについて言いたいわけではないのです。少なくともこの場では。そして、思い遣りがあっては運転はできない、などと言うつもりもないのです。運転という話をするのに、そうした不確かで人によって解釈の変わるようなもので話をすべきでない、と、そう言いたいだけなのです。

「書くことに必要なものが、思いやりではなくマナーである」などと言いたくはないのです。書くことについて話をするのに必要なことは思い遣りの話ではないのでは、と、そう言いたいのです。それだけなのです。
 失礼致しました。不快にされたかも知れず、申し訳なく思っています。真意は別のところにあります。私の解釈は補足のつもりではなく、自分の解釈が間違っていないかどうかの確認の為に書きました。私はあなたの考えに、共感はしていません。あなたの書かれたことについて、私の解釈を伝え、理解を修正して頂いているつもりでいました。書き方が稚拙な為に、誤解を招いた部分があったと反省しています。
 お尋ねします。書くことと、サロンのコンセプトとの関係を教えてください。
 答えに何を期待されているかが分からないのです。
 どうして鹿鳴館サロンというものと、書くことが一緒に論じられるのかが私には分かりませんし、それを論じる術もありません。
 鹿鳴館サロンというところは、そもそもがサロンであり、数あるマニアサロンとの違いを明確にするために文学派などといってはいますが、文学サロンというわけではありません。別に、鹿鳴館サロンには、書くことも読むことも好きでない人もいますし、いてもいいわけです。
 たまたま、私がスランプのときに、書けないという自分の状態を永遠と書き続け、それを面白いと感じた人たちが、書けない間にそこまで書けるというのはどうしてなのか、そこを聞きたい、と、集まるようになったのが「書き方講座」で、それが転じて今は「文章実験室」となったわけです。それは鹿鳴館サロンの、たったひとつのイベントの話であって、鹿鳴館サロンそのものの話というわけではありません。
 私は、書くということは慎重にあるべきだと考えています。なぜなら、どんな場所であれ、文章にするということは世の中に残る可能性があり、そして、伝わる可能性があるものだからなのです。たかだかMIXIと考える人は決して少なくないと思いますが、それでも、私は気分でものを書くべきではない、と、そう考えています。
 そこで、私から質問させてください。

「書くことと、サロンのコンセプトとの関係」について、あなたはどんな関係があると思うのでしょうか。たとえば、という想像でかまいませんから、それを教えていただけないでしょうか。
 書くことも、読むことも好きでなくていいと聞いて、安心しました。

 サロンのホームページにコンセプトが書かれていますが、それを拝読しました。サロンでは、自分の性を表現すること、殊に、書くことを奨励されているように、私には感じられました。もしそうなら、私のように、文学や芸術に疎い人間は、歓迎されないかもしれないと思ったのです。また、熱い思いを語り合える場所であってほしいとも、書かれていたように記憶しています。

 私は、この公開書簡をきっかけに、サロンに伺うことが出来ました。それは、単純に、mixi 上の執事さんと、実際にお会いしてみたいという気持ちがあったからです。おそらく、恐怖心よりそちらが、ほんの少し優った瞬間があったのだと思います。その後、何度か伺わせて頂きましたが、今のところ、私にとってのサロンは、リトリート以外の何物でもありません。帰り際、いつも思うのは、また来てもいいのかな、ということです。たまたま、書くことや読むことを教わるチャンスを頂きました。

 性に関しても、それ以外のことに関しても、自分の本当のところは話さない、話したくないという人も、そのままで居られる雰囲気を感じましたし、そうあって欲しいと願っていますが、その点について、執事さんはどのようにお考えでしょうか。
 ひとつ分かったことがあります。
 あなたは、会話を継続するということをしていないようなのです。普通の人は、会話というものは継続すると考えています。もちろん、私もそうです。この書簡は、この前のあなたの書簡を元に書かれてはいても、さらにその前の書簡のやり取りを継続しているものと考えているのです。
 ところが、あなたの会話は、そのひとつ前しか考慮していないようです。そのため、会話がチグハグになるのです。
 たとえば、この書簡のやり取りは、まず、書くということについての考察からはじまりました。書くということはどういうことで、その技術とは何か、そうしたことについて考えようとしていたわけです。ところが突然、思い遣りという人間の生き方の問題が飛び出します。そこで、私は、書くことと、そうした社会道徳のような話は関連させないようにしようと提案します。すると、今度は、書く人間の態度についての話に変わり、さらに、サロンとは、という話に変わってしまいます。
 あなたの中では、会話が反芻され、次に展開しているのかもしれませんが、私の中では、前の会話に結論を見ていないので、困ったことになるのです。
 さらに、それは私には、なんだかバカにされているような、そうした気分にもなるというわけです。
 ケーキは好きですか。はい好きです。ケーキを作るということはたいへんですよ。作るのですか食べることだと思いました。作るということは家でも機械でも同じなんです。あのケーキを食べる話だと思ったので。そもそもあなたは何なのために食べる話などしたいのですか。
 と、このように会話が進行してしまうわけです。
 これはからかわれていると感じてしまうのです。
 どうしてこうした会話になってしまうのか。
 それは自己顕示欲が書かせるということだからなのです。こんな質問をする私をみんなに、あるいは私に認めてもらいたい、という気持ちが、あなたに書かせているからなのです。では、私はどうしてこれを書いているのか。それは、私の中の疑問を解決したいからなのです。自分の書き方が誤解を与えたのはどうしてか、自分の答えに答えず別の話を摩り替えるのはどうしてか、質問の仕方に問題があったのか、あるいは、自分の文章の書き方に致命的な欠陥があるのか、そうした自分の疑問を解決するために書いています。
 そうした疑問が解決すれば、あなたとの会話が成立し、次に、同じタイプの問題について私が悩んだときに、解決の方法を私は素早く見つけることが可能となるからです。
 過去に書いた自分の書き方について考えるのが過去の自分に対する伝言です。それが解決するように書くことが未来の自分に対する伝言です。
 私は、ここで、読む人、あるいはあなたの印象を良くしたいとか、尊敬を得たいとか、あるいは、私が少しでも頭の良い人だと思われる努力をしたい、と、そうしたことは考えていません。純粋に疑問を解決しようとしているし、質問には、純粋に答えようとしているのです。
 会話は唐突ではなく、継続されているものなのです。小説もそうです。最初の一行目と最後の一行は継続されているのです。ぶつぶつと切れていたのでは読む人は、そこに何が書いてあるか分からないのです。書いた人は頭の中にストーリーがあるから分かるわけですが、読む人には分からないのです。そして、ぶつぶつと行に関連がなく切れている文章を書いていると、書いている人本人もやがて内容が分からなくなるのです。
 継続は力なのです。
 そうですね。私もそう思いました。では、書く技術について、執事さんの考えるところを教えてください。
 書く技術というものはあるのでしょう。
 たぶん、書く技術と同じように車を運転する技術もあるでしょう。あなたは運転ができますよね。では、私に運転の技術を教えてください。あるいは、料理をする技術というのもありますよね。では、私に料理の技術を教えてください。
 と、こうした質問をされたとき、あなたは「運転するためには、まず、ハンドルを」と、書くのでしょうか。料理をするためには、まず、材料をスーパーに買いに行くのですが、その前に何を作るかを考え、その前に何が食べたいかを考え、その前に食べたいかどうかを考え、と、説明しはじめるでしょうか。それとも、車を運転するための技術を教えてくれとか、泳ぐための技術を教えてくれとか、自転車に乗る技術を教えてくれと、尋ねられたら、それはその人が自分をからかっているのだと考えるでしょうか。
 私なら、当然、後者です。
 からかってはおりませんが、そうお感じなられたのなら申し訳ありません。
 では、少し具体的な質問をさせて下さい。以前、執事さんは、公開書簡では差し出した相手のみでなく読者をも意識して書くべきだと、書かれていたように記憶しております。mixi の公開日記も、同じように不特定多数の読者がいるわけですが、その場合、どのような点に留意するべきだと執事さんはお考えでしょうか。
 書簡ですから、相手は一人です。その一人がどう読むのか、どう読みたいのか、何を読みたいのか、そうしたことを想像しながら書くことになります。
 ただ、たとえMIXIという閉じた空間であっても、そこそこに公開されているという現実を忘れるわけにはいかないのです。私はある個人に宛てて書いた、と、主張しても、読もうと思えば不特定多数の人が読むことができる状態にあるわけで、それは常に考えます。ただ、公開書簡なら、その人たちが何を読みたいのか、何を求めているのか、そうした想像はあまりしません。むしろ、その人たちが何を読みたくないのか、そちらについて考えることにします。
 クローズしているのだから何を書いても自由、何を発言しても責任はない、読む側にこそ責任があるのだ、嫌なら読まなければいいんだ、という考えは子供の考えです。つまり、自宅から出ない子供の考えなのです。外ではそうしたわけにはいきません。電車の中で友人と話しているのだから、どんなワイセツな話をしてもいい、聞くほうが悪い、という主張は通らないのと同じです。

 おそらく、あなたは気分で書いているのです。この問題も、文章で表現するのが難しい問題です。文章は思考して書くものなのです。気分で書いてはいけないのです。しかし、気分がなければ書けないのも事実です。
 私は書くのが早いです。しかし、これは気分で書いているからではなく、常に書くことを思考しているからなのです。つまり、一日のたいはんを書くことを考えることに使っている結果として早いわけです。書簡を読んだら、すぐに気分でこう書こうと、それだけで書いているから早いのではないのです。ここを勘違いしてはいけません。
 もっともMIXIをはじめ、ネット慣れしている人は、とかく気分で書いてしまうようです。熟慮の習慣がないのです。思いついたことをそのまま書いてしまうのです。自分が何を書いたか、それが相手にどう読まれるかを再考していないのです。

 たとえば、あなたは立ち止まって、私が何ゆえに、からかわれたと感じる、と、書くのかについて考えていないのです。そうしたことを考える前に、そのときの感情だけで返事を書いてしまっているのです。書くことが気分なので、読むのも気分だけで読んでいるのです。
 学問はクイズではありません。早く回答できるのがいいのではないのです。そうした勘違いをしている人が多いようですが、まったく違います。クイズ王が頭のいい人、というわけではないのです。その人は知識量が多いのではなく、ただ、クイズ王なのです。それ以外ではありません。チャットやBBSの書き込みの早い人もそうです。
 相手の質問の意図や本意というものをじっくりと考え、それに正確に答えること、それが書簡の意味なのです。
 
 あなたは、会話をしているつもりかもしれませんが、この公開書簡が過去に一度として会話になったことがないということについて考えたことがあるでしょうか。あなたは、なんと、過去一度も私の質問に正確に答えたことがないのです。

 空のことについて教えてください、私は空が好きなので。
 どうして空が好きなのですか、私は嫌いなですが。
 分かりました、では、私は海が好きなので海のことをどう思いますか。
 海が好きかどうかの前に、どうして海のことをきくのか教えてください。
 海のことをきかれて不快に思ったようですね、ですみません、では宇宙のことを教えてください。
 宇宙のことは分かりませんが、そもそも、何をしたいのですか。
 話がかみ合わないので、空がどうして青に見えるかを教えてください。
 海が反射しているからですか。
 違います、それは科学的にいうなら……
 では、そうしたことを私に教えてくれるのですね。
 すみません、そうした意図に捉えられたことが残念です、そんなつもりはないのに。
 では、何の話がしたかったのでしょうか。

 と、こうしたやり取りになっています。
 お分かりでしょうか。
> 書簡ですから、相手は一人です。その一人がどう読むのか、どう読みたいのか、何を読みたいのか、そうしたことを想像しながら書くことになります。

なるほど。

> ただ、たとえMIXIという閉じた空間であっても、そこそこに公開されているという現実を忘れるわけにはいかないのです。私はある個人に宛てて書いた、と、主張しても、読もうと思えば不特定多数の人が読むことができる状態にあるわけで、それは常に考えます。ただ、公開書簡なら、その人たちが何を読みたいのか、何を求めているのか、そうした想像はあまりしません。むしろ、その人たちが何を読みたくないのか、そちらについて考えることにします。

このやり取りは読みたくないのではないでしょうか。

> クローズしているのだから何を書いても自由、何を発言しても責任はない、読む側にこそ責任があるのだ、嫌なら読まなければいいんだ、という考えは子供の考えです。つまり、自宅から出ない子供の考えなのです。外ではそうしたわけにはいきません。電車の中で友人と話しているのだから、どんなワイセツな話をしてもいい、聞くほうが悪い、という主張は通らないのと同じです。

同感です。

> おそらく、あなたは気分で書いているのです。この問題も、文章で表現するのが難しい問題です。文章は思考して書くものなのです。気分で書いてはいけないのです。しかし、気分がなければ書けないのも事実です。

あなたの文章から、具体的な質問を要求されていると想像しました。料理の仕方ではなく、包丁さばきについて、というようにです。

> 私は書くのが早いです。しかし、これは気分で書いているからではなく、常に書くことを思考しているからなのです。つまり、一日のたいはんを書くことを考えることに使っている結果として早いわけです。書簡を読んだら、すぐに気分でこう書こうと、それだけで書いているから早いのではないのです。ここを勘違いしてはいけません。

そうですか。素晴らしいですね。気分では書いていないわけですね。

> もっともMIXIをはじめ、ネット慣れしている人は、とかく気分で書いてしまうようです。熟慮の習慣がないのです。思いついたことをそのまま書いてしまうのです。自分が何を書いたか、それが相手にどう読まれるかを再考していないのです。

なるほど。

> たとえば、あなたは立ち止まって、私が何ゆえに、からかわれたと感じる、と、書くのかについて考えていないのです。そうしたことを考える前に、そのときの感情だけで返事を書いてしまっているのです。書くことが気分なので、読むのも気分だけで読んでいるのです。

なぜ、そうお感じになられたのですか。

> 学問はクイズではありません。早く回答できるのがいいのではないのです。そうした勘違いをしている人が多いようですが、まったく違います。クイズ王が頭のいい人、というわけではないのです。その人は知識量が多いのではなく、ただ、クイズ王なのです。それ以外ではありません。チャットやBBSの書き込みの早い人もそうです。

学問のお話ですね。クイズ王はだめということですね。

> 相手の質問の意図や本意というものをじっくりと考え、それに正確に答えること、それが書簡の意味なのです。

同感です。
 
> あなたは、会話をしているつもりかもしれませんが、この公開書簡が過去に一度として会話になったことがないということについて考えたことがあるでしょうか。あなたは、なんと、過去一度も私の質問に正確に答えたことがないのです。

それは私のせいですか?

> 空のことについて教えてください、私は空が好きなので。
> どうして空が好きなのですか、私は嫌いなですが。
> 分かりました、では、私は海が好きなので海のことをどう思いますか。
> 海が好きかどうかの前に、どうして海のことをきくのか教えてください。
> 海のことをきかれて不快に思ったようですね、ですみません、では宇宙のことを教えてください。
> 宇宙のことは分かりませんが、そもそも、何をしたいのですか。
> 話がかみ合わないので、空がどうして青に見えるかを教えてください。
> 海が反射しているからですか。
> 違います、それは科学的にいうなら……
> では、そうしたことを私に教えてくれるのですね。
> すみません、そうした意図に捉えられたことが残念です、そんなつもりはないのに。
> では、何の話がしたかったのでしょうか。

> と、こうしたやり取りになっています。
> お分かりでしょうか。

そうですね。
>なるほど。

 何が「なるほど」なのでしょうか。ずいぶんと無礼で乱雑な文章なので私が翻訳しましょう。
「なるほど、君はそうしたことが言いたいのか、ずいぶんと幼稚な主張だなあ」


>このやり取りは読みたくないのではないでしょうか。

 この「やり取り」とはどの部分のことなのでしょうか。他人の文章を勝手に引用し、その揚げ足を取るという部分でしょうか。そもそも、他人の文章を引用するのには、それなりの敬意というものが必要だと思うのですが、まあ、あなたは文章を書くことにおいての大家であり、私はいたらない生徒ですから、当然、引用され添削されるのは仕方ないのでしょう。私は、以前にも同じことを書きましたが、頼んでいません。どうか、私以外のもっと優秀な生徒に教えてあげてください。私は、もう、何かを学びたいという年齢ではないのです。本当に、ていねいに添削していただいて申し訳けないのですが、侮辱のようなこの書かれ方に私は耐えられそうにないので、もっと、お若い方をつかまえて、どうかあなたの豊富な知識をその方のためにお役立てください。

>同感です。

 同感していただき、嬉しく思います。私のようなものでも、先生のような方に同感していただける部分があったのかと天にも昇るうれしさでございます。

>あなたの文章から、具体的な質問を要求されていると想像しました。料理の仕方ではなく、包丁さばきについて、というようにです。

「書くことと、サロンのコンセプトとの関係」について、あなたはどんな関係があると思うのでしょうか。たとえば、という想像でかまいませんから、それを教えていただけないでしょうか。

 この質問に対する答えです。
 あなたの流儀で、不本意な引用をします。

>サロンのホームページにコンセプトが書かれていますが、それを拝読しました。サロンでは、自分の性を表現すること、殊に、書くことを奨励されているように、私には感じられました。もしそうなら、私のように、文学や芸術に疎い人間は、歓迎されないかもしれないと思ったのです。また、熱い思いを語り合える場所であってほしいとも、書かれていたように記憶しています。

 それはあなたの感じたことであって、私たちの主張するところではありません。あなたの感じたことを前提に、もし、と言われても困ります。あなたは私が感じたことは絶対だと信じて論理を展開していますが、その前提が不確かなのですからお話になりません。また、これは、書くこととサロンの関係とは無関係の話で、質問には答えられていません。
 その後も、どうして、書くこととサロンのコンセプトに関係があるのかについては答えられていません。そもそも、人がものを書くことと、鹿鳴館サロンに関係などあるはずもないのです。だって、書くことは、鹿鳴館サロンができるはるか以前にはじまっているのですからね。その関係の何をたずねているのか分からないので、それを私は質問しています。
 このように、あなたは私の質問には答えていないのです。
 その前に、どうして、読み手を思うことが思いやりという意味に解釈できてしまうのかについても答えられていません。

>それは私のせいですか?

 失礼しました。しかし、私は、前から、すべては文章力のない私のせい、、あなたの高尚な文章を解釈する力のない私のいたらなさだと書いています。ですから、こんなバカと書簡のやりとりをしないほうがいいのではないでしょうか。
 おそらく、これを読んだ人は、みな、ああ、山猫さんという素敵な人に執事というバカがからんでいるんだなあ、と、そう思い、愚かな私を知ることになるのでしょう。それはそれでいいのですが、それはせめて、私があなたに教えを請うたときにしていただきたいのです。

>そうですね。

 先生、ありがとうございました。

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