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公開書簡コミュの都市生活とは

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執事様

 ご無沙汰しております。お元気でしょうか。遠く離れた山奥に住みながら、こうしてネット上で、都会に住む執事さんと交流できることを、いつも幸せに感じております。

 私は、都会暮らしをしている人たちがとても羨ましく思えます。生活が便利で、教育システムが充実していて学力レベルも高く、女性が社会で活躍しやすい環境のように、私には見えるからです。
 その反面、たまに上京した時など、非常に不便な感じを受けるのも事実です。都会のシステムに慣れていないというのが原因かもしれません。

 それと同時に、実は、私にはここ半年ほどずっと、驚きと疑問を持って考えていることがあります。それは、都会の徹底したセキュリティについてです。あらゆるところに設置された監視カメラと、その多さ。過剰なほどのマンションのセキュリティシステム。田舎者の私には、実に異様な光景だったりするのです。

 統計上の犯罪は増えていないのに、なぜ、そうなっていったのか、とても疑問です。田舎もいづれはそうなるのかなあと、漠然と考えていたりします。それは、住み良い社会なのか。そんなことも考えていました。

 例えば、安全や便利さは消費や行動の自由は保障するかもしれませんが、逆に自分が管理されたり監視されたりする立場に立つことになるわけですよね。もしそうなったらと考えると、私は、なにか精神的な自由を奪われるような、抵抗を感じるのです。

 私は、今ある社会を変えたいとか、どうにかしたいというような、大それたことを考えているのではなく、どんどん変化していく社会に、自分が適応しきれないような気がしているのです。それは、アイデンティティの危機のようなものかもしれません。自分の感じ方、考え方が、根本から間違っているのではないか。そういった不安もあります。

 実際にそうした社会に住んでいる執事さんはどう感じていらっしゃるのかな、と、ふと疑問を抱きました。

 何かしらのヒントを頂ければ幸いです。

コメント(10)

 私はルールが大好きなのです。ルールをジャッジするレフリーがいるというのも、ものすごく好きです。
 次回、鹿鳴館サロンのイベントでバーベキューに行ったときに、もしかしたらやるかもしれないのですが、子供の遊び「だるまさんがころんだ」には正式なルールがあるのです。あの遊びは、実はレフリーがいないとできない遊びだったのです。今、多くの人は、あの遊びのルールを知らずに遊んでいるようで、ゆえに、あまり面白い遊びにはなっていませんが、あれは正式なルールで遊ぶと、人の記憶力と、それを錯覚させる心理戦の遊びなのです。ただし、それをするためにはレフリーが必要なのです。そして、あの遊びを面白くするのは、その正式なルールがあってこそなのです。

 都会での生活にもルールがあります。法律はもちろんですが、マナーというルールを少し軽くしたようなものもあります。その中で生活することは私は嫌いではありません。その中にルール違反、つまり犯罪まであることも私は嫌いではありません。
 去年は私もこの犯罪の被害者になりましたが、そうしたリスクも私は人生のひとつの楽しみだと考えています。
 これは、何も都会にかぎりません。子供の頃、私は山登りを趣味としていましたが、山には山のルールがたくさんあることを学びました。そして、そのルールにはたいてい意味があることも学びました。山では出会う人ととりあえず挨拶を交わすなどというのは、ただの励ましあいではない意味があるということで、山のルールも深いのだなあ、と、子供心に感心させられたのを覚えています。

 ルールのある都会で生活するわけですから、近代的なレフリーであるところの監視カメラに監視されることは仕方のないことです。車もそうですが、むしろ私は誇らしくカメラの前を通過します。ルールを守っているのですから正々堂々でいいわけです。ところが、車などは一瞬の油断でルールを破ることもあります。反則なわけです。見つかることもあれば、見つからないこともあります。がちがちにルールを守ろうとするのではなく、この少しのルール違反も、これもまた、ルールの中に生きるということなのだと思います。見つからないと正直、ほっとします。黄色信号の無視や進路変更では、そうしたことがあります。しかし、ルール違反して見つからないことと、そのルールが必要なことは別のことなのです。ルールは必要で、違反したという意識は必要なのです。
 それがルールなのです。

 最近は野球もサッカーもレフリーの目のほかにカメラの目がルールの監視に介入してきましたが、そうした時代なのでしょう。それはそれでいいと私は考えています。それでルールが正しく守られるなら、いいのではないでしょうか。
 都会のルール、それも含めて都会暮らしは楽しいのです。もっとも、私の夢は相変わらず田舎で暮らすことなんですけどね。それは実は私は広いところ暗いところが好きだからなんです。ただ、小学生時代には昆虫博士と言われたこともあるのに、最近は昆虫が苦手になりましたし、足も弱くなりました。ながい都会暮らしは田舎暮らしにむかない私を作ったように思います。田舎のルールに馴染めないのかもしれないのです。それは残念なことです。
 どちらがいいとかではなく、暮らしと生活は、そのルールとリスクの中、どちらにも楽しみがあるものなのではないですかね。晴耕雨読は私の中学生の頃からの夢でした。甘い夢ですが、今もその夢はかわりません。ルールはあるべきです。そしてルールの監視は仕方ないことです。ルールとレフリーを楽しむこと、それが私の人生の楽しみです。
 なるほど、ルールは非常に文化的なものですね。そんな感じがしています。しかし、ルールと監視の問題は難しいです。ゆっくり考えていきたいと思います。

 私も、社会にはルールが必要だと考えています。ルールのないところに本来の自由の楽しみはないと考えますし、芸術も文化の発展もなかっただろうと思うからです。
 また、その土地のしきたりなどは、おそらく都会のそれより田舎の方が、厳しく遵守することを求められるのではと、そんな感覚さえあります。田舎の場合、しきたりを守らなければ村八分となり、そこには住めません。その場合のレフリーは、概ね年配者ですね。

 初めてひとりで上京した時、とても驚いたことがあります。それは、不文律のマナーと、そのマナーの良さです。例えば、エスカレーターでの左側通行と右側追い越し専用通路、電車に乗る場合のきれいな並び方、公共での携帯電話の使い方の徹底などです。田舎では、電車に乗る時、横入りするオバサンは良く見かけますし、バスや電車の中で携帯電話で話している光景も時々見ます。都会の人は、マナーが良いんですよね。この驚きは、私だけではないようです。少なからぬ田舎の人の感覚のようです。
 法律で縛られるのではなく、自然に新しいルールが出来上がり、不文律のマナーとなる。それを多くの人が守ろうとする。それが都市生活の特徴の一つなのかなあと、当時の私は思いました。

 そういった経験がありましたので、監視カメラやセキュリティシステムなど都会の厳しい監視体制が、私にはより不思議に思えたのだと思います。

 今、思ったのですが、もしかしたらこういうことではないでしょうか。都会には、法律とは別の、「しきたり」といった厳格で絶対的なルールがない代わりに、社会が別の縛りを自ら作ろうとする働きがあるのではないでしょうか。それが新しくゆるいルール作りだったり、監視体制だったりするのかなと、思ったのですが、どうなのでしょう。
 そうしたゆるいルール、新しいルールは、田舎にも入ってきますが、それに関しては、田舎の方が違反者が多いという印象が、私にはあります。

 また、自覚的にルール違反をして見つからなかった場合、ほっとするのは確かですね。反面、違反したという意識は残るわけで、その罪悪感が、逆にルールを守ろうとする意識に変わるということもあるかもしれませんね。ルールを守ることの難しさを知っているから、みんなで守ろうとする。そんなパラドックスのようなものを感じます。もし見つかって、罰されることになっても、仕方ないなと私なんか思ってしまうのですが。

 「だるまさんがころんだ」は、私も昔よくやりました。しかし、いい加減なルールの中でやっていたように思います。レフリーはいませんでしたが、それに変わる年長者がいましたね。公平ではないと思っても、従わざるを得ない。子供時代は、年齢による上下関係が厳しかったように思います。記憶力の訓練、確かに「だるまさんがころんだ」は緊迫していました。誰がどこに移動したかを敏感に察知できなければ、最後まで鬼のままでしたね。
 こうして考えてみると、頭脳を使うところが、なんとなく都会的な遊びですね。私は、ほぼ毎日、山を歩いていますが、今日も突然の豪雨に見舞われ、逃げる場所もなく全身ずぶぬれで帰ってきました。私にとっては、こうしたことが、子供の頃に怒られながら密かに楽しんだ雨の日のずぶ濡れごっこのようで、楽しく感じることがあります。
 いくつか質問させてください。
 まず、田舎のほうが都会よりもルールにうるさいという、お話でしたが、それは、どういうところなのでしょうか。私は幼少の頃よりの都会暮らしの上、祖父母四人ともに都会暮らしなので分からないのです。
 また、村八分という風習については聞いていたのですが、今も、そうしたことがあるものなのでしょうか。そう聞くと、田舎にはとても行きたくありませんね。田舎のほうがのんびりと日々を過ごせると思っていたのですが、とても無理そうですね。自分の土地に暮らすことさえできなくなるような厳しい制裁がまだ残っているのですね。それは恐ろしいですね。
 もちろん、私も、旅行で田舎に行くことはあるわけですが、そのときに見せる土地の人たちの顔はもちろん、いつもの顔ではないのでしょう。旅人に見せる顔と、そこに居住しに来たヨソものに見せる顔は、きっと違うのでしょうね。
 また、都会の人が田舎の人よりマナーがいいというのも、私にはよく分かりません。都会に防犯カメラが多く付けられたのは、もちろん、都会の治安が悪くなったからだと思います。もうひとつ。防犯カメラが安価になったからということもあるかと思います。
 実際、私が車の窓ガラスを割られ、中のバックを盗まれたとき、私の周囲では、思いの他、同様の被害に遭った人が多く、驚かされたほどです。駐車場にタバコを捨てる人もたくさんいます。車のマナーは最悪です。強引な針路変更はもちろん、道を間違えて車線を変更しようとする車に対しては意地でも入れまいとする維持悪さを持つ人も多くあります。深夜には大音響で音楽をかけて走る車もあります。
 ファミレスやデパートにおける子供のマナーも最悪です。私は子供にコーヒーをこぼされたことがありますが、その親は私のコーヒーをこぼした子供は叱っていましたが私には謝りませんでした。
 電車の中で子供の靴で服を汚されたこともありましたが、子供なんだからという顔で睨み返されたこともあります。
 私はそうしたことは田舎より都会のほうが多いのかと思っていました。田舎の人のマナーの悪さとは、どういうものがあるのでしょうか。とても興味があります。教えてもらないでしょうか。
 これは、あくまで私の個人的な印象ですので、一般的にどうかは分かりません。こんなふうに感じています、ということで、少しお話させていただきます。

 村八分は、昔ほど多くはないかもしれませんが、場所によっては今も根強く残っている風習ではないでしょうか。

 私の住んでいる場所は、いわゆる入会地と呼ばれるところですので、特に厳しいのかもしれません。基本的に外部の人が移住することはできません。跡取りだけに、そこに住居を持つ権利を移譲できます。つまり、権利者は縦の血族で引き継がれ、その数を変動させないのです。また、この土地の掟は、権利者の代表によって決められます。公職選挙法とは一切関係なく選挙が行われますので、激しい選挙戦になりがちです。女性である私には選挙権はありません。必然的に、決め事が親族の多さで決まっていくところがあります。決められたことに違反すれば、権利を剥奪され、当然、そこには住めません。簡単な書類の手続きを怠るなど、軽い違反の場合は厳重注意で済むことも時にあります。

 しかし、これらのことは明文化された掟ですので、誰にでも分かりやすいと思うのです。多くの場合、そとから来た人たちは、明文化されていない「しきたり」に苦しむのではないでしょうか。それは日常の小さなことから、仕事、結婚や葬式などまで、実に多岐に渡るように感じます。つまり、そこでどうふるまうべきなのかという問題です。
 なにしろ、私自身が二十数年前に外から来たよそ者でした。家族に守られて、なんとかここまで生活してこられました。初めて来た当初は、理解に苦しむことが非常に多かったように思います。それは、旅人に見せる顔と、そこに居住しに来たヨソものに見せる顔が違うというより、旅人には、そこに住むということがどういうことなのか見えないのだと思います。常識の違いと言ってもいいかもしれません。

 例えば私の場合、義母から、髪の毛の長さをチェックされたり、外出の際の服装まで細かく指示されました。最初の一年間は対外的に特に注意するように言われました。
 そういった厳しさは、家の中の掟にも反映していますね。発言権や入浴の順番とかは厳しいですね。以前も書いたと思いますが、共同浴場でおばあさんたちがこんな会話をしていました。「うちの嫁は新聞なんか広げて読んでいるんだよ」 私はそれを聞いて、たしかにすごい勇気のあるお嫁さんだなあと思いました。私は、そんなことは、とてもじゃないけどできませんでしたから。せいぜい、古新聞で野菜を包む時に、何日も前の記事をこっそりと読むぐらいでした。家業に必要な資格を取りたいと申し出た時も、夫より前に出てはいけないと言われました。
 こうしたしきたりを身につけるのは時間も掛かりますし、なにより素直でなければなりません。こちらではよく「バカになれること」と表現します。

 しかし、これらのしきたりは内容の違いこそあれ、都会、田舎に関わらず、同じようにあると思うのです。ではいったい何が違うのか。私は思うのです。おそらく、その強制力ではないかと。都会の場合は、意見が違えば、お互いの妥協点を探ろうと試行錯誤する場合が多いのではないでしょうか。異文化の人たちの集合体であるがゆえに、共同で何かをしようとするなら、個人の考えを大事にするように私には感じられます。そうでなければ、そこに所属しないで関係を持たない権利もあると思うのです。田舎の場合は、それはおかしいと思っても、とにかく従うしか選択肢がないように感じます。

 なんだか、田舎に対してネガティブなことばかり書いてしまったような気がします。都会から移住してきた方は、確かにその土地に慣れるまでは非常に苦労されることが多いようです。しかし、みごとに信頼を勝ち得、先住の人たちと上手くやっていかれる方も大勢います。しきたりに逆らわず、その中で生きる術を見つけることができれば、田舎暮らしも楽しいものではないでしょうか。そうしためんどうなことを含め、メリットがあるから、そこに住み続けているのかもしれません。

 ここまで書いてきて、思ったのですが、こうしたことは、会社でも言えるのではないでしょうか。都会的な体質の会社、田舎的な体質の会社。良い悪いは一概には言えませんが、それぞれに存在意義はあるのだと思います。

 マナーと治安については、後ほど書かせていただきます。
 続きです。マナーと治安についてです。

 確かに、都会と田舎のどちらがマナーが悪いかは、私には判断できないことですね。私は都会で生活をしたことがありませんので、客観的な判断はできないのでした。都市生活についてはよく知りません。その部分は訂正させてください。

 マナーが良く感じたのは、おそらく、田舎にはない新しいルールを目の前にして、カルチャーショックを覚えたために、強く印象に残ったと言うことではないかと思っています。その内容は、エスカレーター、電車、携帯電話など、上述の通りです。特にエスカレーターには、初めて上京される方の多くが、戸惑われるのではないでしょうか。

 考えてみたら、マナーの良し悪しの判断をしている私たち自体が、その判断にあたって主観的な基準による部分が多く、同じ対象であってもその内容によっては、カルチャーの違いにより異なる判断をする可能性が考えられます。もっとも、他人のコーヒーをこぼしたら謝るといった基本的なマナーは、文化に関係なく共通かと思いますが。都会と田舎でどちらが多いかは、私には分かりません。

 また、私が住んでいるところも、車上荒らしやホテル荒らし、露出痴漢などの事件が時々あります。そういった事件をコミュニティで共有する傾向を感じますが、都会はどうなのでしょう。先日も無銭飲食をされた店から、犯人の容姿と注意呼びかけのFAXが流れてきました。

 私が、地元で特にマナーの悪さについて感じていることは10代の若者についてです。コンビニの前でしゃがみこんで、夜遅くまでたむろしていたり、電車の中で大声で話していたりします。都会でもそうなのでしょうか。
 子供に関しては、放置する親が多いですね。これは都会から来る人たちに感じます。親の精神年齢が低下しているのか、少子化のためか分かりませんが、子供が王様のように育てられているのではと思うこともあります。

 ところで、都会の治安は実際にそんなに悪くなったのでしょうか。それとも執事さんの主観的な印象ですか? 私は、その部分がとても不思議なのです。
 まるで時代小説のような田舎の状況には驚かされました。私のようなマイペースな人間には、とても暮らしていける環境にはないわけですね。そこまでの厳しい掟に自由がないようなら、私は、都会でひっそりと生きていくしかありませんね。何しろ、人間関係は得意ではありませんので、周囲の人とあたかも家族のように密着して生活することには耐えられそうにありません。
 そうした中を生き抜いてきた山猫さんは、本当にすごいなあ、と、思いました。
 新聞を読んでさえ白い目で見られるということですが、当然のことながら女が本を読むなんていうのは、もってのほかなのでしょうね。生活に必要のない知識を身に付けることは禁断の遊戯にも等しいのでしょう。蔵書狩りなども家族単位でありそうで怖いですね。
 私も哲学や文学をはじめるときに、親に、そんなものではなく、数学や法律を学べと叱られたものです。蔵書を捨てられたこともありました。きっと、そんなものじゃないのでしょうね。
 ところで、そうした環境において、子供の、とくに娘の勉強ということに関してはどのように考えるのでしょうか。やはり、そうした地域の老人たちは、女には学問はいらない、と、考え、学校の成績などは悪いほうがいい、という昔ながらの考えを持っているのでしょうか。
 また、もし、そうした思想があるのだとすれば、子供たちは学問についてどう考えているのでしょうか。
 女が学問をやりにくい、というのは明治の頃の日本ではあたりまえにあり、昭和の時代でも、まだ、女は少しバカなほうが可愛らしい、というようなことが言われていました。ただ、それは男の傲慢さで、都会の母親の多くは女の子にも学問をすすめ、学校の成績もいいことを喜んでいたようですが、そうした地域ではどうなのでしょうか。
 そして、山猫さん自身はそうした中、子供の学問というものに、どのような姿勢で取り組んでいらしたのでしょうか。
 疑問はつきませんね。
 執事さんが驚かれることも、私なりに理解しているつもりです。ですが事実です。本はもちろん読みませんでしたし、そんな時間もありませんでした。蔵書なんて持っていきませんでしたね。唯一、密かに保管してあった何冊かの本は、見つかって燃やされました。

 それと、私はこの村民としては失格者なんです。案の定、13年目に精神を病んで家出をしました。その後、別居を条件に家に戻り10年以上たちました。今、再度、同居をしています。両親の肉体が弱ってきたからです。別居中の10年間は夢のような生活でした。人生バラ色という、あれです。その時に大学の勉強を始め、むさぼるように、いろんな本を読むようになりました。
 今は、本が置いてあっても何も言われないですね。人は変わるものです。体が弱るということは、いろいろな意味で大変なんだなあと思いました。自分が面倒を見てもらう立場になるわけですからね。
 もちろん、堂々と本を読むことは、今もありませんが、やろうと思えばできますよ。まあ、しかし、ケンカを売っても仕方ないので、夜は自分の時間をなるべく作るようにして、見えないところで読むようにしています。もうね、20数年も経つと女もずうずうしくなるんです。ダメ嫁でいいと開き直るというか、何を言われても聞こえないふりができるようになります。私もずいぶん強くなったものです。

 ちなみに、この地区にはうち以外に5軒の同業者がいます。そのうち3軒は、県外からお嫁に来ています。東京から来た1軒は離婚(原因は夫婦関係ではありません)、神戸から来た1軒はストレス性の病で実家に戻り、東京から来たもう1軒は初めから別居です。長持ちしているのは地元からお嫁に来た2軒だけです。さすがですよね。私もその方たちには、頭が上がりません。

 勉強について、老人達がどう考えているか。これもうちの場合ですので、地域一般のことは分かりません。ただ、うちだけではないのは確かです。
 まず、女の子は手に職をつけさせろと言います。高校は行ったほうがいいが、大学は必要ないと言います。専門職になる為に大学教育が必要だと言えば、もしかしたら納得してくれるかもしれないですね。それよりも問題は長男のほうです。頭が良いのは困ると言われました。跡継ぎと決めているからです。もし、頭が良かったら、出て行ってしまうというのです。自分は、息子(私のダンナ)を長男として育ててきたんだと言いました。つまり、私にもそうしろということです。ですので、長男は幼少の頃から、祖父母から、おまえは跡取りだと言われ続けてきました。恐ろしいことです。私は反発から、密かに、あなたの好きにしていいから、と、息子に言い続けました。塾は行ったこともないし、もしかしたら見たこともないかもしれません。

 私自身は、自分が大学に行きたくても親に反対されたという経験がありましたので、子供たちに対しては、本人が進学を希望するのであれば、親としてもできる限りの経済的協力はしたいと考えています。
 息子が大学進学を希望した時、親としてこのことだけは伝えました。助けてもらいたいことがあれば、何でも話してほしいこと。ただし、できるかどうかは分からない。経済的援助は、現状ではこのくらいならできる。しかし、2年後、3年後は分からない。援助が減ったり途絶えたりした時、もし私立なら、退学せざるを得なくなるかもしれないこと。それだけは覚悟しておくように、と。結局、私立は受けませんでした。息子は常に安全な道を選ぶタイプなのです。

 学力に関しては、それはできた方が親としては嬉しいですよ。ですが、親はどうしようもないでしょう。なにかできることがあるのでしょうか。
 なにしろ、うちは二人とも小学校低学年から不登校でしたからね。正直、学力どころではなかったですね。何年も全く勉強していないことは分かりきっていましたので、そういうレベルの悩みではなかったのです。当時は、不登校への理解も偏っていて、教師もドクターによっては、人間として失格者扱いですからね。二人とも、実は入院歴も長いのです。最近、ようやく不登校の親を卒業させていただきました。本当に長かったです。

 学問は、その楽しさを教えるのは教師の役目だと私は思います。親は、子供が援助を求めてきた時、できることをしてあげればいいのではないでしょうか。それ以外にできることは、情報を提供することぐらいではないのでしょうか。違いますか。
 学校の勉強が好きな子も、別の勉強(小説を書くとか、朗読が得意とか)が好きな子もいますから。うちの娘はたぶん後者ですね。もし娘が大学に進学したいと言ってきたら、もちろん反対はしないつもりです。その時点で、私ができる協力が何かを伝えるだけです。
 なるほど、そこまでの非人道的な状態では、まともには生きていけそうにないですね。私なら、一ヶ月で逃げ出していたところでしょう。
 その中で、子供に学問をさせるというのはすごい苦労だったでしょうね。しかし、学問は情報と訓練が必要だと思うのですが、情報も訓練の方法もないところでは、どのようにそれを補うのでしょうか。
 また、どのようなビジネスであれ、学問はないよりあったほうが有利かと思うのですが、そのような地域の老人たちは、そうしたことをどのように考えているのでしょうか。たとえば、狩りでも、民宿でも、農業でも、陶芸でも、炭焼きでも、学問はあったほうがいいと思うのです。今なら、インターネットなどの知識も必要となりますよね。そうしたことも田舎暮らしなら必要ない、と、老人たちはそう考えるのでしょうか。
 もうひとつ。
 子供というものは放置されれば学問には向かわず、本人が勝手に学問と主張するところの遊びに走るものだと私などは思うのですが、そのあたりはどう誘導したのでしょうか。
 私は都会の脆弱な子供ばかり見ていますから、放っておけば、文学だと言って携帯小説を読んだり漫画と漫画やゲームに関連する書籍を読んだりばかりする子供しか知りません。しかも、今の親は、漫画は理解できても、文学書と携帯小説やゲーム小説の違いは分からないようです。私は幸い自分も子供以上のマニアですから、そのあたりは見抜きます。そして、どちらの文学が優れているか、本当に面白いのはどちらなのかを子供と議論します。いえ、ケンカします。私を負かすようなら、携帯小説を読もうがゲーム小説を読もうがいいわけです。しかし、今のところ、たいていの子供は私とケンカしている内に、文学のほうがはるかに面白いことに気づいて行くようです。
 そうしたことは田舎でもできるのでしょうか。
 老人たちが本を捨ててしまうような環境では、なかなか難しいのではないでしょうか。そんな過酷な環境の中、子供をどのように学問に導いたのでしょうか。
 たいへん興味があり勉強になります。
 追伸

 もっと、もっと、教わりたいことはたくさんあるのですが、今、不幸なことに、私はこの老齢に鞭打って勉強しなければならないことがたくさんあるので、残念なのですが、このお勉強は、このあたりで、終わりにしてもらってもよろしいでしょうか。
 短い間でしたが、本当に多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。また、何か分からないことや、道に迷ったら、いろいろとご指導ください。
 こちらから、質問しておいて、勝手に終了し、本当に申し訳ありません。鹿鳴館サロンの運営がたいへんな時期にあり、私が自らの興味によって勉強していい余裕がどうしても作れないのです。将来、田舎暮らしをと考えていた私には貴重な勉強だったのですが、ここは断腸の思いで、鹿鳴館に関連したところの勉強にはげもうと思いますので、お許しください。
 お忙しいところお付き合いいただき、感謝申し上げます。ご縁のあるうちに、サロンに伺えない理由を説明させていただきたいと思っておりました。私も執事さんのように、実績で勝負していけるよう頑張ってきたいと思います。長い間どうもありがとうございました。またご縁がありましたらよろしくお願い致します。

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