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公開書簡コミュの恋愛論

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執事様

 ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。
 こちらのコミュで交わされる皆様の書簡を、いつも楽しく読ませていただいております。気持ちが動くことも、考えさせられることも多く、いろいろな意味で勉強させていただいています。
 そうしたやり取りの途中で入るようで、申し訳ない気持ちもありますが、恋愛について執事さんのお考えをお伺いしたく、今回、ペンを執った次第です。

 と書きながら、突飛な質問になります。実は、執事さんがか書かれる文章で、少し、気になっていることがあるのです。それは「女の子」という言葉です。「あのお店の女の子」とか、「サロンの女の子たち」という表現を、よくされているような印象が私にはあります。特に多い頻度ではないのかもしれません。「男の子」という言葉との比率かなあと思ったりもします。まあ、私が気になるということなのだと思います。

 性風俗のビジネスなどに長く関わっていらした執事さんにとっては、特に意識されてはいらっしゃらないかもしれませんし、何の違和感もない言葉なのかもしれません。しかし、もしかしたら何か意図があるのかもしれないと思いました。
 そのあたりは、何かお考えをお持ちでしょうか。

 くだらない質問ですみません。いつともなく、こうした突然の手紙にも誠実にお返事を下さる執事さんに、感謝の気持ちと、お手間を取らせてしまうのではないかという申し訳なさと、お返事を期待してしまう自分を感じながら。

コメント(23)

 私が男性を男の子と書かず、女性を女の子と書くことには理由があります。
 まず、こうした公の場では、読み手の男性が私より年長であるか否かが分かりません。もし、私より年長の方に対し、私が君たちのような男の子が、と表記したらどうでしょうか。私なら気分がよくありません。
 SMの世界でも、相手も分からずに縛りとは、と、言う人があります。私はSMの世界には三十年います。その私に縛りとは、と、説教してしまう方があります。おかしいですよね。たかだか十年かそこらの経験の人が三十年の経験に対して何か言うわけです。実際の技術がどうかではなく、経験を重んじるのは日本的な礼儀なのです。ですから、私は年長の方が読んでも失礼のないように男性には男の子とは表記しないのです。
 さて、では、女性はどうでしょうか。女性の場合は逆に、私より年下の女性に敬語を用いることが失礼になることがあるのです。つまり、私はあなたには自分より年長だと見えるわけですね、と、叱られる可能性があるからなのです。
 ある女性を他人に紹介するときに、私はしばしば二十年の付き合いですから、と、言っていました。二人はそれだけ永いときを信頼しあって仕事をしてきた、と、私は言いたかったのです。ところがその女性に「付き合いが永いと主張しないでください。まるで、私がもういい年齢だと言われているようじゃないですか。相手は私の年齢を知らないんだから、もし、二十代だと思っていたらどうするんですか。私たちは幼年の頃からの付き合いではありませんよね」と、叱られたのです。
 私は、なるほどと思いました。
 女性は幾つになっても、女の子でいいのです。私が年長の女性を年下扱いしても、それはあまり失礼にはならないのです。いえ、むしろ、よろこばれるわけです。

 私は、年下の男性に男の子と言われて平気な男性と、年下の男性に女の子と言われて不快になる女性とは付き合いたくないのです。
 私が表記を使い分けるのは上記のような理由です。
 お疲れのところ、丁寧なお返事をいただきありがとうございます。

 そうですね。70、80を過ぎて、女の子と呼ばれるのはどんな気持ちか、経験してみないと分からない部分はありますが、こうして50近くになっても女の子と呼ばれるのは、ある種の快感ではあります。だからと言って、女性と呼ばれるのが不快かと言えば、私の場合はそうでもありません。普通に受け入れられます。ただ、まとめて「女の子たち」と表現された場合、そのグループに自分がいても、除外されているような感覚を持ちます。おばさん根性でしょうか。

 ところで、最後に書かれたことですが。年下の男性に男の子と言われて平気な男性と、年下の男性に女の子と言われて不快になる女性とは付き合いたくないとお考えなのは、どういった理由によるものでしょうか。
 どうという理由もありません。私の好みです。
 考えてみたら、性別や年齢の違いだけではなく、同じ言葉でも発言者によって、受け手である私の印象もずいぶん違うなあと思いました。
 風俗産業では、そこに勤める女性のことを、経営者やお客さんが、女の子と呼ぶことが多いような印象が私にはあります。実際はどうなのでしょう。別の産業でも同じでしょうか。
 私は風俗業界のことについても、その他の業界についても、なんら詳しくありませんので、そうしたことについては分かりません。実際、風俗店では遊びませんし、風俗店を経営したこともありませんので、その風習については、正直、よく分かりません。
 また、女性を女の子と呼ぶことが、どうして、そこまでこだわらなければならないことなのかが私には分かりません。それこそ、何か意図があるのでしょうか。もし、意図があるなら、そちらを先に提起してもらえないでしょうか。
 私はマクドナルドはマックと呼びますが、そのことに意図はありません。どうしてマックと呼ぶのか、東京では皆がそう呼ぶのかと、関西の人に尋ねられても私には答えられません。なんならマクドと読んでもいいのです。あえて、マクドナルドはマックでなければおかしいなどと主張するつもりはないのです。
 同じように、私には、女性と呼称しようが、女の子と呼称しようが、女子と呼称しようが、おなごと呼称しようが、どうでもいいことなのです。バラを薔薇と書くかどうかも、子犬を小犬か仔犬と書くことも、彼をその人と人称するかどうかも、私にはどうでもいいことで、ただの気分です。
 何を尋ねられているか分からないのです。この質問の本当の意図について教えてもらえないでしょうか。
 
 今回の質問をさせていただいた動機は、私のちょっとした違和感でした。執事さんのお考えは尊重します。繰り返し質問させていただいたことは、失礼だったと思います。私の側で、違和感を解消したいという気持ちが出てしまったのだと思います。申し訳ありません。真面目な恋愛論のお話に入る前の、導入のつもりでした。
 違和感ということは、何か心にひっかかるものがあったのだと思うのですが、どういった違和感だったのでしょうか。また、最初の答えで、その違和感が払拭されなかったのはどうしてなのでしょうか。
 恋愛論の導入に、私の人称における癖を用いられた理由は、何なのでしょうか。
 恋愛論といえばロラン・バルトかな、と、思うのですが、それ以外は、私は恋愛というものに、あまり興味がありません。それでも、問題を提起してくれれば、話はできるとは思うのですが。論理を構築できるほどのことはないかと思います。しかし、自分が食べた食事の話を書く人に興味がないように、私は自分の恋愛について語る人に興味がないのです。理由はかんたんです。食事の感想も他人の恋愛体験も、自分の参考にはならないものだからなのです。
 私がキムタクに女性の口説き方を習っても、それには意味がないですからね。また、パリの高級レストランの食事がいかに美味しいかという話も、私には意味のないことです。
 恋愛とはそうしたものだと私は思っています。
 まず、一つ目のご質問についてです。この違和感は、私にとって重要なものです。その私の違和感について、ここで執事さんと対話をすることに、少々抵抗を感じています。いくらか安全ではない感じがしますので、この場でのお返事は、控えさせ頂きたいと思います。

 二つ目のご質問の答えです。執事さんが、人称の使い分けを意識的にされているのかどうかという疑問が、私にはありました。それは上述の理由によるものです。恋愛論とは直接には関係ありませんが、私たちがこれから対話をするにあたって、単純な人称の使い方の違いで語弊を生むことがあったなら、それは残念なことだと思ったからです。

 3つ目のご質問についてです。私は、ロラン・バルトは存じ上げません。執事さんが、恋愛論についてはその方にしか興味がないということでしたら、ここで執事さんにロラン・バルトの恋愛論について教えていただけることも、私には興味深いことです。しかし、もし、そんなことも知らないようでは、話は出来ないとおっしゃるのなら、私には何も書くことはありません。
 また、私が、ここで、わざわざ「恋愛論」という言葉を使ったのは、私個人の体験を書くつもりはないという意味でした。他人から聞いた話を比喩として使うことはあるかもしれません。

 執事さんのお返事から、恋愛の話はあまりしたくないということではないだろうか、と、私には感じられました。もしそうでしたら、別の話題でお話させていただければと思います。
 この書簡における私は優しくない、というお叱りをうけたので、一度書いた書簡を破棄することにしました。
 そして、書き直します。

 塩を入れ過ぎた玉子焼きは食べられたものではありませんよね。でも、玉子焼きに塩をたくさん入れると、鮮やかな黄色になり、なんだか、ものすごく甘そうで美味しそうに焼けますよね。
 食べられたものではないほうが本当は美味しい玉子焼きより、はるかに美味しそうに見えるのです。

 人間も同じなのです。よーく本質を見ないと、外見に騙されるのです。一見、頭がよさそうに見えたり、一見、正しそうに見えたりするものは疑う必要があるのです。
 逆に、どんなに稚拙な意見でも、どんなに出来の悪い日本語でも、それを言った人、それを書いた人が本質的に素敵だ、ということもあるものなのです。

 何が違うのか。
 他人と会話するときに、自分をよく見せよう、自分がたくさんの知識のある人であるかのように思わせよう、自分が鋭い論客であるかのように思わせよう、そうしたことを考えれば、それは塩を入れすぎた玉子焼きなのです。知らない人には美味しそうに見えるかもしれませんが、知っている人が見れば一目で、ああ、これは塩辛くて食べられないな、と、分かってしまうのです。

 自分をよく見せたい、という気持ちの裏には、激しいコンプレックスがあります。自分の欠点や本質的な劣等を指摘されたくない、という強い思いです。
 
 私がこの公開書簡で、何度も何度も繰り返し指摘しているのは、この一点です。別に公開書簡だけではありません。日常のビジネスでも、家族関係でも、友人関係でも、ご近所付き合いでも、何でも同じです。信頼は、自分を晒すことからしかはじまらないのです。

 今回の書簡も、何だかよく分からない趣旨ではじまりました。私が使う人称の癖について指摘、それは何故か、意図があるのか、そうした質問からはじまりました。
 本当は、書簡というものは、自分にはこんな癖があります、その癖はよくない癖ですが、あなたはどう思いますか、と、そうしたところからはじまるものなのです。あなたにはこんな癖がある、それは何でだ、というところからはじめれば、これはケンカのはじまりなんですよ。
 どんなに知識を身につけたところで、人は賢くならないのです。むしろ、何の知識もない人、本など読んだこともない人でも、この本質を身につけている人のことは、人は賢い人だと思うものなのです。そして、その人に対しては信頼して自分を預けるものなのです。
 
 あなたの癖には意図はあるのか、と、尋ねられた私はそれでも誠実に答えているはずです。それはこうしたことです。あなたは人前でよくおならをするけど、それにはどんな意図があるのか、それとも無意識でそうした失礼をしているのか、どちらですか、と、尋ねたようなものなのです。それは、もう、その質問の内容ではなく、質問をすること事態が相手に失礼であり、相手をバカにしている態度なのです。それでも、私は誠実に答え、自らのあまり他人には晒すことのない考え方を晒して答えました。そして、その質問の真意を尋ねると、今度は、それはここでは答えたくない、と、言われるわけです。
 あなたは平気で人前でおならをするけど、それにはどんな意図があるんですか、と、尋ねられ、それに対して私はおならを恥ずかしいと考えていない、そうした貧乏で下品な家庭に育ったからです、と、答えて、その後で、でも、どうしてそうした質問をするのですか、と、質問したら、それには答えたくない、と、言われたわけです。
 
 これではケンカを売っているとしか思えないのです。

 私は人前でおならをしますが、そうした人はやはり下品に見られてしまうものですよねえ、と、そうした質問からはじまるなら、同じ話しでも、これは会話として成り立ちます。難しそうな言葉を用いても、あたかも学問をしているかのような文体を用いてもだめなんです。
 それは塩が多すぎた玉子焼きにしかならないのですから。
 失礼はしてみて、相手の感情を逆撫でしてみて、そして、対処して、対処がめんどうになって、そうした対処をしないやりかたが、自然と身につくものなのです。対人というのは、その関係がたくさんあればあるほと得意となり、少なければ少ないほど苦手になります。
 失礼はしていいのです。
 人は失礼を繰り返して、いつしか、失礼なことをされる側になるものなのです。その頃には、自らはあまり失礼をしなくなります。これは運転に似ていると思います。最初の頃は周囲の車に迷惑ばかりかけていたのが、気がつくと迷惑な車にイライラしている自分がいて、その頃には自分は、もう、あまり迷惑かけなくなったりしているものなのです。
 もっとも、最後まで迷惑な運転をする人というのも、いないわけではありませんけどね。
 自分を晒すとはどういうことかについて考えていました。疑問があって、それを質問をする時に、自分に引きつけて書くということかなと思いましたので、ちょっとやってみます。恋愛論からは離れます。

 これは、何度かお伝えしたことがあると思います。私の悩みは沢山あるのですが、その中でもけっこう大きいのが、人の顔を覚えられないということです。これは現実生活で本当に困っています。客商売ですので、とても失礼になることが多いのです。特に、一度お会いした人と待ち合わせするのは恐怖です。目の前にずっといたのに分からないことが多かったからです。目が見えていないのかと思ったと言われたこともありました。先日は病院で、作業員の方に「さっき、私、この病室に入りましたっけ」と聴かれて、冷や汗が流れました。但し、付き合いが長くなると、顔ではなく、服装の趣味や仕草や体の動かし方でなんとなく分かるようになりますので、あまり問題は感じません。
 これは前に書いたと思いますが、昔、目が合ったという理由でよく殴られていたからかもしれません。

 私は、どうしてもこれを克服したくて、最近、いろいろ考えるようになりました。いつまでも、現実を避けているわけにはいかないなと思うようになったからです。それで、発見したんです。ある条件で、記憶できる場合があることを。それは、楽しく食事を共にできた場合です。1回より2回、2回より3回のほうが記憶が刻まれるように感じます。次の食事との間隔は短い方が覚えやすいようです。もっとも、これが出来るようになったのは、ごく最近のことですけど。他にどんな方法があるでしょうか。いろいろやってみたいです。

 もう一つ。先日、行方不明になっていた兄に、十数年ぶりに会うことが出来ました。一生会えないと思っていたので、本当にびっくりしました。ここ半年ほど失業状態で困っているようでした。兄は人を殺していますので、刑法に引っかかることでなかなか雇ってもらえないようでした。あ、これも前にどこかで書きましたね。
 そんな時、「じゃあ、少しの間でもうちで働いたら」と言うべきところなのかもしれません。でも言えませんでした。彼は帰っていきました。死ぬまでもう二度と会えないかもしれないと思います。ふと、そんな気がしました。薄情な人間だと思いますか。これが赤の他人だったら、違ったかもしれないなあと思いました。会えなくても、兄弟がいるだけで幸せなのだと言われるかもしれませんが。

 公開で書くようなことではないかもしれませんが、書簡の練習になればと思い、書かせていただきました。
 書くべきを書き、尋ねるべくを尋ねる、ということがたいせつなのだと思います。

 これは、もっともかんたんで、もっとも難しいものです。踊りをやる人たちは、最後にはただそこに立つことが困難になる、と言います。つまり、立っているだけで踊りが上手か下手かが分かってしまうのだというわけです。立つのは人として基本の所作です。それが名人の所作になるわけです。
 普通のことを普通にするというのは難しいものなのかもしれません。

 この話は、このまま横に置いてください。しばらく棚の上に置いてもいいでしょう。

 さて、問題が三つあります。まず、顔を認識する能力について、それについてのいいアイディアのこと。次に、実の兄にとった態度についての感想。三つ目として、どうして自分の書簡は普通の人のような書簡にならないのか、という問題。

 かんたんなので、一つ目の問題から考えさせてください。私も他人の顔の認識ができません。もっとも、猿とか犬になると、その識別はもっと困難ですから、私はそのことをあまり気にしたことがありません。幼少の頃には両親の顔さえ分からず、しばしば、他人について行って危険だったそうです。その他、建物の認識、風景の認識など、いくつか識別能力において決定的に劣っているところがあるようです。
 しかし、そうしたことは人の特徴なので、私は気にしていません。サロンでも、そうした私の欠点が笑いになることがありますが、笑われて悪い気分はしません。むしろ私の人生の愉快さのように自慢してさえいます。顔を覚えられない欠点があるということが常に晒されていれば、そう不自由はありません。その欠点は私が補うべきものではなく、周囲が補えばいいものだからです。
 その分、力が弱い人の代わりに私が荷物を持ったりできます。太っている人の代わりに買い物に行くこともできます。人の欠点というのは個人が修正するのではなく社会的に保護し合えば、それは愉快な特徴になるものなのです。
 直すのではなく、楽しむということです。ケンカが強い子供はケンカをするという欠点を持っていることになりますが、おだやかな性格に直すということはせずに、その能力の使い方を教えればいいように思います。
 私は人は直せない、ということを考えています。病気は治せるかもしれませんけどね。直すのではなく、欠点と付き合う、周囲もその人の欠点と付き合うことを決めればいいのです。それが社会というものではないでしょうか。

 二つ目。兄弟の問題は他人でいいと思うのです。私は家族をたいせつにしていません。友人もあまりたいせつにしません。サロンはたいせつにしています。私にとって守るべきは空間であって人ではないからです。この考えは危険ですが平等です。どんなに好きな人でも、どんなに美人でも、どんなにたくさんのお金を使ってくれる人でも、サロンにマイナスになるようなら私はその人を排除します。もし、そこに友人や昔の同僚や家族がいたとしても私の態度は同じです。
 だって、政治家の家族だから法律は守らなくてもいい、なんて法治国家はないでしょ。同じだと思うのです。小さな集団は小さな社会ですから。
 さて、三つ目の問題。あなたの書簡はどうして相手を不快にさせてしまうのかです。
 今回のものには、一見、読み手を不快にするようなものはなかった、と、私以外の読み手は考えたかもしれませんね。しかし、あるのです。
 この文章には主語が極端に少ないのです。その理由は二つあります。ひとつは癖なので、これは日本語の特徴もあって、それでいいでしょう。もうひとつは、主語がないので、しばしば、読み手が複数に設定されてしまうという欠点なのです。これは書簡です。基本的には私とあなたが会話しています。それが公開されているだけで、その基本は変わらないはずなのです。ところが、主語がないので、しばしば、あなたの書き方は、皆さんは、と、なってしまうのです。私という個人に向けられた質問になっていないのです。ですから、私という個人の年齢や経歴がしばしば無視されます。
 さらには、主語がないので、あなた、皆さん、が混乱して、最後には私が私と会話をはじめてしまうのです。つまり、日記になっているのです。自分で結論を持っていることを、わざわざ質問するのは学校の先生ぐらいのものです。
 さあ、ひとつのリンゴを三人で分けるにはどうしたらいいかな、分かるかな、ってやるやつです。あれって子供心に嫌じゃありませんでしたか。分かってるならきかずに言えよって、私は思ったものです。
 出かける準備があるので、ざっと思いつくまま乱暴に書かせてもらいました。
 主語を意識することは相手を認識することにつながりますよ。これは文章の基本です。誰にむかって書いているのか、これがはっきりすることが文章の良し悪しなのです。難しいですけどね。そう書いている私にしたところで、まだまだ、この基本の所作で悩んでいるところです。
 ありがとうございます。1時間以上かけて書いた文章が、全文消えました。もう一度書く気力は失せました。すみません。しかし、書いたものが誰にも読まれることがなくとも、無駄ではなかったように今は感じます。
 はい、そうしたことは私にもよくあります。
 書いたという記憶は残るわけですから、それもまた、人生として享受しようではありませんか。
 はい、そうします。では、気を取り直して別の話題にしてみます。次に湧いてきた悩みはこんなことです。

 さて次は何を晒そうか、と、考えていて、ふと、思ったのです。私にとって、自分を晒すことは難しいなあと。例えば、先の私の書簡では、大半がすでに執事さん宛てに書いたことのある内容だったと思います。ですので、晒すという意味では、私は何もしていないことになります。書簡の練習とは言え、これでは意味がないなあと思いました。
 それと、何かが違うなあと思ったのです。晒すって、こういうことではないのではないかと思いました。こんな暗い私の私情など、誰も聞きたくはないでしょうし、初めて聞く人の中には不快に感じる人も多いのではないかと思いました。

 信頼は、自分を晒すことからしかはじまらない、と、執事さんは書かれましたが、何をどう晒せば良いのかが私には分からないでいます。自分の感じたことを率直に書くことは、おそらく晒すこととは違いますよね。
 また、私の中では、晒したくないことを無理に晒せば、それは相手への怒りとなるような気がして、それはしたくありません。
 晒すとは、どういうことなのか、今、悩んでいます。もしかしたら、それは告白をするという意味ではなく、とにかく相手を受け入れるということかなとも感じています。もしそうなら、頂いた書簡に対して、自分の意見や感じたことを書くのではなく、相手になりきって想像して、それを伝えて確認をする作業のような気もします。そうなると、それは普通の書簡だなあと、振り出しに戻ってしまいました。

 執事さんのおっしゃる、晒すとは、どういう意味なのでしょうか。執事さんのお考えをお聞かせ下さい。ヒントでも構いません。
 自分の過去や欠点を告白することは、確かに自分を晒すということです。その意味において、今回、あなたの書いたことは、それはそれでいいのだと思います。ただ、あなたには違和感があるのでしょう。私にも違和感があります。
 その違和感は、ようするにこういうことではないでしょうか。
 つまり、今回の告白の意味が分からない、ということなのです。

 たとえば、私が突然、子供の頃に貧乏で近所の駄菓子屋からアイスを盗んだ、と、告白したらどうでしょうか。驚きますよね。アイスを盗んだという事実に驚くのではありません。どうして突然、そんな告白をしたのかと驚くわけですよね。それはそうですよね。
 では、同じ告白でも、私が、現代の子供たちは裕福過ぎるのではないかという話を書いていたらどうでしょうか。その中で、私が子供の頃には、と、同じ告白をしたら、これには驚きませんよね。アイスが食べたいがために盗むような貧困がこの人の子供時代にはあったのか、と、そう思うぐらいでしょう。
 さらに、では、現代の子供は裕福過ぎると書きながら、自分のことには触れずに、ただ、ただ、少し貧しさもあったほうが人は幸福なのだと書いたら、それはどうでしょうね。それはそれで嫌味じゃありませんか。

 自分を晒すとは、そうした意味なのです。

 小説「潮騒」の中で炎のこちらとあちらで男女が全裸になるシーン。そこで晒される男の裸は官能的かもしれませんが、不快とはされていませんよね。
 ところがどうでしょうか。暖炉の前でくつろぐ女子高生の前に飛び出した全裸の男。こちらは変態で痴漢で不快ですよね。
 もし、同じ男の全裸だったとしても、結果は同じですよね。
 晒すとはそうしたことなのです。
 そうですね。なにか変だと思いました。こんなことで信頼関係は築けないと思ったのでした。では、また別の話題で書かせていただきます。
 
 私の住んでいるところは、ものすごく田舎で、いろいろなことが村の寄合いの話し合いで決まって行きます。その寄り合いも、若い男性グループ、壮年グループ、年配のグループ、若奥さんのグループ、老女グループと、年齢や性別、活動内容によって20ぐらいのグループがあります。たいていの大人は、そのどこか数ヶ所に所属しています。

 つい先日のことです。7〜8人のある寄り合いに参加した時のことでした。限られた時間で、どうしても決めなくてはならないことがあったのです。なかなか結論が出ませんでした。その時、ある方が突然言いました。「多数決で決めませんか」と。私は、その時、なぜかムカッときたのです。
 結果は、多数決で決められました。それは、仕方のなかったことかもしれません。でも、私の中のわだかまりは未だに消えません。自分が少数意見の側だったからということもあるかもしれませんが、それだけではないような気がします。

 私の疑問はこんなところにあります。グループで何かを始めるに当たって、対外的に、総意を作らなければならない時があります。多数決という方法で、そうした総意を本当に作れるものなのかということです。また、多数決では、少数意見がカットされるのはもちろんのこと、2番目に有力な意見も無かったことにされるわけですから、不気味さやある種の恐さを感じます。民主主義の選挙は多数決ですけど、それは公正かもしれませんが、総意として正しいわけではないと思うのです。

 執事さんは、多数決についてどのように思われますか。なにかお考えをお持ちでしたらお聞かせ下さい。
 多数決の問題は古い問題です。
 この是非は歴史の中で永遠と検討され続けている問題で、私などが何かの結論を導けるような問題ではありません。ゆえに、これは、あくまでも私の個人的な意見ではなく、個人的な感想という、きわめて弱気な発言になりますが、それでも、ひとことだけ書かせてください。

 私はこう思うのです。
 多数決は最終的な決断である、と。
 何かを決定するときには、分かりやすく公平な方法をとらなければなりません。公平という意味では、多数決は少数の意見が無視されるので不公平です。しかし、結論が導かれる過程、つまり、勝敗が誰の目にも明らかだという点においては公平ですよね。
 もし、利にかなった意見を採用とすると、どうでしょうか。ある人にとっては公平な判断と思われたものがある人にとっては不公平な判断だと見えたりする可能性がありますよね。これは勝敗の決断において公平ではないわけです。
 数の論理は極めて平等です。

 では、これを最終的な決断の方法論として採用するのは公平かというと、ここに少し問題があります。たとえば、男性三人女性二人が旅行先でひとつの風呂に入ることになりました、そこで、四人で一緒に風呂に入るかひとりひとり入るかという問題になりました、ひとりひとり入るのは効率が悪いという意見が出たのです、そこで、多数決をすることになりました、これは公平でしょうか。

 そこで、私は多数決というものは最終的な決断であって最良の方法ではないし、同時に、短絡的な決断の方法であってはならない、と、考えています。

 たくさんの話し合いがあり、考察があり、その上での決定方法でなければならない、という原則のもとに多数決はあるのだと私は考えているのです。
 まず、多数決の方法さえ話し合うべきだったりします。先の例では、重要な問題は三分の二以上の賛成をもって決定するという方法だったらどうでしょうか。そうしたこともあるわけです。

 少数の意見を十分に聞き、それでも結論が出なければ多数決という最終決断をする、ということなら、少数派にも、大きな不満は残らないはずなのです。
 もし、この十分な話し合いなしに多数決をするなら、それは多数決ではなく少数派を無視した横暴なやり方になります。多数決は形式で、はじめらから分かりきった結論になってしまうからです。少数派の人に、たくさんの発言のチャンスを与え、多数派の切り崩しに失敗させた上で多数決をしなければ、そもそも、議論に意味がなくなるのです。

 ただし、例外があります。多数決の及ばない決定事項もあるのです。法律がそうですね。法律を変えるのは多数決ですが、多数であることを理由に法律を無視していいということではないのです。
 鹿鳴館サロンでも同じです。このサロンにはルールがあり、いくら大勢で押しかけたとしても、サロンのルールは無視されないわけで、そこでは多数決さえないことになります。
 たとえば、サロンに禁煙者が増え、多数決でサロンを禁煙にするかどうかを決めよう、と、やっても、それはできないのです。そのときには、鹿鳴館サロンがなくなるのです。そうしたこともあるものなのです。
 どうして、鹿鳴館サロンは禁煙にしないのか。もちろん、それには理由があります。マニアというものは、正常な性癖によって迫害される少数派なのです。ゆえに、他人の嗜好に寛容さを持つべきなのです。自分が喫煙しないからサロンで喫煙を認めない、と、そうしたことをするのはマニアとはいえないのです。自分は喫煙しないが喫煙を嗜好する人のことを理解しようとする態度がマニアには必要なのです。その寛容性をもって鹿鳴館サロンはサロンとして成り立っています。これは多数決では覆らないものなのです。そうしたこともあります。

 多数決の問題は難しいですね。
 ありがとうございます。
 執事さんからのお返事を読ませていただいて、ああ、私の中のわだかまりはこういうことだったのだ、と、思いました。それは、このようなことです。

 これは、鹿鳴館サロンの禁煙のお話から感じたことです。グループにしろ、何にしろ、最初から関心のある人たちが大勢集まってできあがるものではないと思うのです。立ち上げに関わった少数のコアメンバーがいると思うのです。時には、たった一人の情熱的な志を持った人の、献身的な努力でそのグループが維持され続けていることもあります。その苦労は、周りの人には計り知れないものと思われます。
 私が先に挙げた、寄り合いでの話し合いのことに戻ります。私は、あの時、多数決ではなく、ある一人の方の決断により最終決定がなされたのなら、それほど違和感は残らなかったのではないかと、今は思うのです。たとえ同じ結果だったとしてもです。その方は、グループを立ち上げるにあたって、多くのプライベートな時間と労力を費やしてこられたことを、私が知っているからです。また、その決定には、他の少数意見への配慮と理解を含んでいるに違いない。おそらく、私がそのように感じるだろうと思うからです。

 そこで、ふと、思いました。もしかしたら、こんなことは言えないでしょうか。ある決定が、お互いの利害関係に大きく関わる場合、多数決が最終決定になってもやむを得ないのではないかと思いました。例えば、ゴミ集積所の監視当番とか、旅行日程の決定とか、利益の分配比率の決定とかです。
 反対に、利害関係よりは、目的や理想など精神的な部分が大きく関わる内容を決定する場合においては、時間をかけた話し合いで合意に持っていくように心掛けなければ、グループ自体が破綻する場合すらあるように思いました。「細く長く」という表現がしっくりきます。
 つまり、グループの目的や性質によって、また、同じグループ内でも、決定しなければならない内容によって、その都度、方法論は変えていくべきなのではないかと思ったのでした。こう書くと、なんだか当たりえのことのような気がしてきました。
 執事さんのお返事から、そんなことを感じておりました。

 それと、多数決の問題ではありませんが、書簡について少し疑問が湧きましたので質問させて下さい。
 私は、いつも不思議に思うのです。執事さんは、書くスピードがものすごく早いように、私には感じられます。タイピングの早さもあるのでしょうが、執事さんの場合、推敲はどのようにされているのでしょうか。読めば読むほど、言葉の選択や理論構築に隙のないその文章に、驚きます。しかも、私からの書簡を読まれて、すぐに、返信を書いていらっしゃるとしたら脅威的です。なぜ、そんなことができるのでしょうか。とても不思議ですし、憧れます。おそらく私は、執事さんと同じ量の文章を書くのに、倍以上の時間が掛かっていると思うのです。例えばそれは習慣のようなもので、努力でできるようになるものなのでしょうか。シュルレアリスムと関係があるのでしょうか。あ、ふとそんな気がしただけですのでどうか気になさらないで下さい。
 私がたいした推敲もしないまま、早く文章を書くのは、それは私が天才だからです、と、書ければ素敵なのですが、残念ながら違います。天才どころか、私はどちらかといえば文章を書く才能には恵まれていません。国語力という点においても普通の人より、やや劣る程度かと思われます。
 謙遜しているわけではありません。元編集者として客観的にみてその程度です。

 では、どうして私は早いのか。
 これには理由があります。
 おそらく、この質問も、私はこれまでの人生のおいて何度となく受けたことがあり、そして、文書や口頭でこれに答える経験を持っているのです。一度は話をしたもの、一度は何かのかたちで書いたものを、もう一度書くのなら、それははじめて書く人よりはいくらか早く書けますよね。はじめて書くものではありませんから、それを書くことはすでに推敲のひとつでもあるわけですよね。
 私が早いのは、そうした理由によるものです。

 ですから、過去に一度か二度、書いたと思われるものについては基本的に推敲していません。書簡であれば、これは作品ではなく、きわめて個人的なものですから誤字脱字は許し合った上で、お互いの時間を尊重し合おうと考えていますから、けっこういい加減なものです。
 作品については一度だけ推敲しますが、これでは、あまり間違いを直すことはできませんね。しかし、自分の書いたものを一ヶ月かそこらで推敲するのは、困難と、ながい編集者生活で知っていますから、これはもう諦めています。読み手の文章力と読解力にすがりついているのです。それでもいいように私は思います。

 もうひとつ。
 私は、なるべく反射に近いような短い文章は書かないように心がけています。ショートメールというようなものは書かないようにしているのです。そうしたものに思考が慣れてしまうと、思考しながら書くという作業が苦手になるからです。
 短距離のアスリートにマラソンを走らせようとしても、すでにマラソンに必要な筋肉がなく、苦手になっているのと同じようなものです。
 数行で書くための思考と長文を書くための思考は別の訓練になります。私は数行で書くための思考はあまりきたえないようにしているのです。
 ですから、もし、ショートメールのやりとりをさせたら、私はものすごく遅いはずです。ただし、長文で書かせるやりとりをすると、確かに、普通の人よりは早いかもしれませんね。マラソンランナーが短距離を走ってもタイムは平凡ですがフルマラソンを走らせたら非凡なタイムになるのと同じことです。
 人間は訓練で変わるものなのです。そして、私は長距離を選んでそれに適する訓練をしているということなのです。
 サロンにて、私は少し黙っていることがあります。以前には、これが私が不機嫌なのだと恐れられることもありました。編集会議などでは、私が実は霊を見ているのではないかと言われたりもしましたね。実は、思考が遅いので、早いやりとりが苦手なので、あまり思考の展開や会議のテンポが早いと、私は思考が追いつかず止まってしまっているのです。いえ、本人はものすごく早く動いているつもりなのですが、周囲には止まっているように見えてしまうというわけです。

 熟慮の訓練。私は直感で話をする最近の風潮とは逆行する習慣を選んで訓練しているのです。その理由は、深く考えることが私の趣味だから、と、それだけのことです。
 やはりローマは一日にして成らずということですね。何よりも、平凡からの出発というところに勇気付けられました。なるべく長文を書くようにすることと、書きながら深く思考することですね。両方とも、私にとっては難しい課題です。
 考えてみたら、書簡を書くという行為が、いえ、書簡に限らず何かを書くという行為が、私には圧倒的に経験が少ないのでした。まずは、時間が掛かっても、丁寧な文章を書くことから心掛けたいと思います。

 サロンでの執事さんは「アクティブで静かな人」というのが、今のところの私の印象です。すぐに覆されるのかなと思いました。もし執事さんが饒舌な人だったとしたら、頭の回転が非常に速いのだと思います。
 私は正反対です。だから常に無口なのだと思います。周りの人たちの思考のスピードについていけてないと思うことが本当に多いのです。関西人にほぼ共通の、あのノリが、とても羨ましく思います。なんとか真似をしたいと、常々思っているのですが、私には無理のようです。生育環境の違いは大きいなあと思います。

 私の趣味は、反射反応をしたあと反省させられることです。
 私の夢は、素人編集長の座に就くことです。いろんなことを編集したいと密かにたくらんでいます。
 言葉は面白いですね。

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