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境界と侵犯コミュの不自由/自由

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ラカンは言語を使用する能力を持った存在のみを「人間」とみなしたようです。
私は自分の気持ちを柔軟に表現する言語能力が乏しく不自由を感じ、他者からは対等でない非人間的存在とみなされがちのように思っています。

■言葉の使用と自由について精神分析の視点から
斎藤環「生き延びるためのラカン」から
・確かに、人間の思考は、とても自由に見える。つまり、権利上は自由、ってやつだ。でも、事実上は、すごく不自由なものなんだ。
・エディプス期における「去勢」こそが、人間が人間になるための、最初の重要な通過点なんだ。ここをくぐり抜けることで、子どもははじめて言語を語る存在、すなわち「人間」になるんだから。なぜかって?ファルスこそは、あらゆる言語(≒シニフィアン)の根源におかれた特権的な象徴にほかならないからだ。ファルスというのは、さっきペニスの模造品って言ったけど、実体が伴わないかわりに、なんにでも形を変えられる特性を持っている。この変幻自在さが、そのまま言葉の自由さ、柔軟性につながっているわけだ。
・ネオがさらなる覚醒に至るために、一度死ななければならなかったこと。この点も大切だ。大きな「自由」を獲得するには、大きな「犠牲」を払わなくてはならない。そして、これこそが「去勢」の本質なんだ。
・男の子は、自分のペニスを守るために、母親をあきらめ、父親を受け入れる。かくしてエディプス・コンプレックス(父を殺し、母と寝たい)は終わる。男の子は自分の限界を受け入れた。しかしそのことによって、心には豊かで複雑な構造が生まれ、あらたな自由の領域が広がったわけだ。

斎藤環「ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ」から
・去勢は言葉を語る存在になるためには、欠くことができないプロセスです。ただし、それはよく誤解されるように「おのれの分際を知る」ということではありません。不安定な「万能感」を捨てて、しなやかな「自由」を獲得すること。それが去勢の真の効果です。

斎藤環がイベントで配った資料から
・不安定な「万能感」を捨てて、柔軟な「自由」を獲得することが去勢の真の効果である。私たちは、現実と直接にかかわることをやめて「言葉」を得た。そのかわり、直接にかかわるよりも、はるかに多様で複雑なかかわりを持てるようになった。その結果が文明であり社会であるとすれば、やはり人間にとって「去勢」は必要だ。

■「主体的な意志決定」「自律」「自然法則」「自由意志」との関連から
野矢茂樹「哲学の謎」から
・われわれもまた枯葉と同様に自然法則に従うしかないというのであれば、われわれの動きは自然法則に縛られている。しかし、もし自然法則に従った動きしかできないというのであれば、「自由な行為」ということも私には虚しく思える。それはけっきょくのところ操り人形の見た幻影にすぎないのではないか。

ベンサム「道徳および立法の諸原理序説」から
自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。苦痛と快楽とは、われわれのするすべてのこと、われわれの言うすべてのこと、われわれの考えるすべてのことについて、われわれを支配しているのであって、このような従属をはらいのけようとどんなに努力しても、その努力はこのような従属を証明し、確認するのに役だつだけだろう。ある人は、ことばのうえではこのような帝国を放棄したように見せかけるかもしれないが、実際上は依然としてその帝国に従属し続けている。

リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」から
・彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生み出した。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。今や彼らは遺伝子という名で歩きつづけている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。

リチャード・ドーキンス「遺伝子の川」から
・われわれ―ということは生きているものすべて―は、プログラミングを行ったディジタル・データベースを増殖させるようプログラムされた生存機械なのである。
・DNAはただ存在するのみであり、われわれはそれが奏でる音楽に合わせて踊っているのである。

茂木健一郎「脳とクオリア」から
・私たちが、主観的には自明のこととしている「自由意志」という「幻想」を打ち砕いたのは、人間の肉体は、私たちの心を司る脳を含めて、自然法則に従って動く「機械」に過ぎないという認識だった。すなわち、「人間機械論」である。
・現時点で、私たちは、人間機械論の前提を疑うような合理的な根拠を持っていない。私たちの心が、私たちの意志決定のプロセスが、世界の中で自然法則に従わない特別な例外であるということを示す証拠は一つもないのだ。つまり、心も、意志決定のプロセスも、自然法則の一部と見なされなければならないということなのである。

大澤真幸「戦後の思想空間」から
倫理的に責任を問えるのは、選択できることだけです。たとえば、僕がここを歩いていたら運悪く棚からぼた餅が落ちてきて僕にぶつかったとき、ぼた餅を責めるわけにいかないです。置いた人を責めることはできるかもしれないけれども、ぼた餅そのものを責めることはできない。ぼた餅には選択することができなくて、単なる物理法則に従って落っこちてきているだけだから、「お前、もうちょっと我慢してろ」とか言うことはできないです。

仲正昌樹「いまを生きるための思想キーワード」から
・「私」以外の“何か”によって予め設定されたのではなく、「私」自身に由来するとしか言いようのない「基準」に従って行為しようとする時にこそ、「私」は本当の意味で「自由」なのではないかと考えられる。
自分で自分の従うべきルールを確立し、それに“主体的”に従うことを、「自律 autonomy」という。西欧哲学の歴史では、「自由意志」論は、「自律」論と表裏一体の関係にある。
・物理的因果法則の中に身体を持って生きている“私”が、物理的因果法則の連鎖を超えたところに、「自由意志」が発動する基盤となりうる道徳律を発見し、それに自分自身を従わせる、というのはなかなか考えにくい。
・カント哲学などで問題になる「自由意志」と、法的・社会的な「責任」――本書の「責任」の項参照――の根拠として引き合いに出される“自由意志”概念の間にはズレがある。カント的な意味での「自由意志」、すなわち、いかなる物理的因果法則にも囚われない「自由意志」による行為でない限り、「責任」を問うことができないとすれば、いかなる人間のいかなる行為に関しても、「責任」を問うことはできなくなる。
仮に、純粋な「自由意志」のみに基づく行為があるとしても、その「自由意志」は、既存の道徳や法とは関係なく、自らにとっての道徳法則を発見するので、「自由意志に従って行為する主体」が、社会的に“正しい振る舞い”をしてくれるとは全く期待できない。

スラヴォイ・ジジェク「仮想化しきれない残余」から
・シェリングは自由に三つのレベルを区別している。
1、自由のふつうの概念は、自由を選択の自由、外からの強制にとらわれず、利益と不利益をよく考えた上で、「自由に」決めることだと考える。私はデザートにはチェリーパイよりもアップルパイの方を選ぶが、それはアップルパイの方が私により多くの快楽をもたらすからであって、ある権威(親、仲間……)の圧力でそうせずるをえなかったからではないということだ。これは功利主義のレベルである。
・2、したがって、次の、より高いレベルの自由は、わけのわからない、根拠のない決定であり、実定的な理由に基づかない、単にこうだからこうという決定である。
・ここで遭遇することは、<意志>のそれ自身に対する、利益不利益の理由に無関係な、恐ろしいほどの固執である。まるで、束の間、因果の連鎖が切れてしまったようなものだ。自由の範例となるのは、「病的」誘惑に屈して、自分の義務をおろそかにする人ではなく、「非合理な」執心で、明らかに自分の物質的利益には反していても、自分の道を進む人である。
・これだけが精神的なものたる<悪>であり、シェリングが<善>よりも比べものにならないほど精神的で、感覚的享楽から遠いと言っている、悪魔的な<悪>である。
・<悪>は欲望の流れが、その肯定的な生命力、その多様な生産性を断ち切る<想像界>への従属を指す。

エーリッヒ・フロム「悪について」から
・自由を取扱う在来の方法は、経験的・心理的データを使用せず、一般的・抽象的言葉をもってこの問題を論じる傾向があった。自由とは《選択の自由》という意味だとすれば、問題はAとBとを選択する自由があるかどうかを問いかけることとなる。決定論者は人間は――自然界の他のすべてのものと同じように――原因により決定づけられるから、われわれは自由ではないと主張してきた。それは空中にある石が落ち《ない》自由をもたないのと全く同じように、人間は、人間にAかBかを選択することを決定づけ、強制し、原因づける動因によって、AかBかを選択させられるというのである。
・われわれは自己の欲求を知っているが、その動機には気づかないため自由への幻想をもつのだ、とスピノザは指摘した。

■文学から
村上春樹「海辺のカフカ」から
「彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほとんどなにもないんです。なんていうのかな、すごく受け身です。でも僕は思うんだけど、人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択したりできないものなんじゃないかな」

村上春樹「1Q84 BOOK1」から
・「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」
・「私はごく普通の人間です。ただ本を読むのが好きなだけです。主に歴史についてのほんですが」
「私も歴史の本を読むのが好きです。歴史の本が教えてくれるのは、私たちは昔も今も基本的に同じだという事実です。服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。人間というものは結局のところ、遺伝子にとってのただの乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かということだけです」
「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけにはいかない。そういうことですか?」
老婦人は肯いた。「そのとおりです。人間はそれについて考えないわけにはいかない。しかし私たちの生き方の根本を支配しているのは遺伝子です。当然のことながら、そこに矛盾が生じることになります」、彼女はそう言って微笑んだ。

コメント(1)

人間の主体的な意思決定と自然法則、決定論
努力や向上心と怠惰と堕落

何か核心を突くような文章を掲載してくれる人きぼん

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