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境界と侵犯コミュの愚者/凡人/賢者 下位/対等/上位

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人は知性でもって他人を上下に分類する事が多く、自分より知性が高い相手には敬意を払い、自分より知性の低い者は見下す事が多いように思います。
人は何をもって知性を測り、それによる上下関係を当然の事とするのか考えるトピとします。


ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」から
・人間から見れば、猿は何だろう?哄笑の種か、あるいは恥辱の痛みを覚えさせるものだ。超人から見たとき、人間はまさにそうしたものになるはずなのだ。哄笑の種か、あるいは恥辱の痛みに。

・人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ、――深淵のうえにかかる綱なのだ。

・かれらには、その誇りとするところのものがある。これらに誇りを与えているもの、それをかれらは何と呼んでいるのか?教養と呼んでいる。

・あなたがたは高められたいと願うとき、上方を仰ぎみる。だがわたしはもう高みにいるから、下方を見おろす。あなたがたのなかの誰が、高められて、しかも同時に哄笑することができるだろう?最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を笑うのである。

・自己を維持する必要上、人間が事物のなかに、はじめて価値をさしいれたのだ。――人間が事物に意味を、人間的な意味をはじめて与えたのだ!だから、かれは「人間」と呼ばれるのである。すなわち「評価する者」と。評価することが、創造することなのである。よく聞きなさい、あなたがた創造する者よ!評価そのものこそ、この世で高く評価され珍重される宝にもまさる宝である。評価によってはじめて価値が生じる。評価がなければ、存在の胡桃はうつろであろう。

・「諸君がわたしを公正に評価する必要が、どこにあるのだ」――こう、孤独なあなたは言うだろう――「不当な評価こそ、わたしにふさわしい割当として、わたしが受け取るべきものだ。」
かれらは不公正と汚物を、孤独な者にむかって投げつける。

・自分が正しいと主張するより、不正を受けとっておくほうが高貴である。ことに自分が正しい場合にそうである。ただ、それができるのは、豊かな人間にかぎる。

・かれらが自己を高め向上させるのは、ただ他人を低めようとするためなのだ。

・美のなかにも、闘争と不平等があること、力と優越を求めてやまぬ戦いがあること、このことを、かれはきわめて明瞭な比喩で、ここでわれわれにおしえてくれている。

・わたしが生あるものを見いだしたかぎり、そこにはかならず力への意志があった。そして服従して仕えるもののなかにさえ、支配者となろうとする意志があった。
弱者が強者に仕えるのは、より弱い者に対して支配者になろうとする弱者の意志が、かれを説き伏せるのだ。このよろこびだけは、かれは捨てようと思わない。
そして、小さなものが、自分よりももっと小さなものに対して支配のよろこびと力を味わうために、自分より大きなものに身をささげるのと同じように、最も大いなる者も、さらに身をささげるのであり、それは力のよろこびを味わうために――生を賭けるということになる。
最も大いなる者が身をささげるときには、それは冒険となり、危険となり、死を賭けての賭博となる。
そして犠牲と、奉仕と、愛のまなざしのあるところ、そこにもまた支配者になろうとする意志がある。つまり、そのとき、弱者は、隠れた道を通って、強者の城内へ忍びこみ、さらには主人の心臓のなかにまでもぐりこみ、――力を盗むのである。

・わたしはわたしの思想によって、いぜんかれらの頭の上を歩いている。たとえわたしが、あえてみずからの過誤におちいろうとも、やはりわたしはかれらより上にいて、その頭上を歩いているだろう。
なぜなら、人間は平等でないからだ――正義はそう言う。そして、かれら学者にはわたしの欲するところを、欲することが許されない。
ツァラトゥストラはこう言った。

・いまの醜い人間も、自己を愛していた。自己を軽蔑しながら愛していた。――かれは大いに愛する者であって、大いに軽蔑する者なのだ。
わたしはあれほどに自己を軽蔑する者に会ったことがなかった。あれもまた高みだ。

・あなたがた、「ましな人間」たちよ。わたしによって学ぶがいい。広場では、だれひとり「ましな人間」などを信じる者はいないということを。あなたがたが広場で語りたいなら、いくらでもやるがいい!だが賤民は目をぱちくりさせて言うだろう。「われわれはみな平等のはずだ」と。
「あなたがた、『ましな人間』たちよ。――賤民は目をぱちくりさせてこう言うだろう、『「ましな人間」などは存在しない。われわれはみな平等だ。人間は人間である。神のまえでは――われわれはみな平等だ!』」
神のまえでは!――ところが、その神が死んだ。賤民のまえでは、われわれは平等であることを欲しない。あなたがた、「ましな人間」たちよ、広場を去ることだ!

コメント(10)

岸田秀「ものぐさ精神分析」から
われわれが集団を、社会を形成し得たのは、各人がそのナルシシズムの幻想を自己において実現することをある程度断念し、自己の外にある特定の対象にそれを集中的に投影し、その対象を自己の上位に立つ権威として認めたからである。それぞれおのれの絶対性、唯我独尊を主張するナルシシストとナルシシストの間には、何のつながりもあり得ない。両雄は並び立たず、一者のナルシシズムは他者のナルシシズムと絶えず衝突し、どちらかが滅びるまでは決着がつかない。両者が生き残り、その間につながりが成り立つためには、両者のナルシシズムをそれぞれ部分的にせよ吸い上げ、共同化した第三者が出現しなければならない。
各人がナルシシズムを(部分的に)自己以外の対象に投影したとき、各人の存在の基盤は自己の外に移った。投影されずに内側に残った部分が外側にある権威に支えられることになった。くどいようだが、外側にあるこの権威も幻想であれば、その幻想に支えられる限りでの内側に残った部分も幻想である。この内側に残った部分が、つまりわれわれの日常的自己であり、各人の日常的自己の共同化として、その存在する場所としてここに日常的現実が成立する。そして、外側にある権威は、各人のナルシシズムの相続人である限りにおいて、いわば聖なるもの、尊いもの、最高のもの、絶対的なものとして現れる。さらに、この聖なる権威に支えられず、是認されなかった部分は、個人的にいえば日常的自己から、集団的に言えば日常的現実から排除されて、フロイトの言うところのエス、「抑圧されたもの」、いわば穢れたものを形成する。聖なるもの、日常的なもの、穢れたもの、この三者が織りなすドラマは、個人の内部において、個人と個人のあいだ、集団と集団のあいだのあらゆるレベルにおいて展開され、対立、逆転、移行、統合を繰り返す。つまり、あるレベルでの聖なるものは別のレベルでの穢れたものに逆転し、あるレベルでの聖なるものは別のレベルでの日常的なものに移行する、など。いずれにせよ、この三者は、その素材が各人の私的幻想であるという点では同じであるから、そのあいだに絶対的な区別はない。ただ、共同化されているかいないか、どのレベルで共同化されているかの違いがあるだけである。同じレベルの二種類の聖なるものは両立し得ないから、より高いレベルで一つの聖なるものへと統合されるから、同じレベルにとどまるならどちらか一方が日常的なもの、または穢れたものへと移行または逆転するか(キリスト教の神とぶつかって、異教の神々が悪魔となったように)、あるいは、どちらか一方がより低い聖なるものへ転落するか(大国主神が天照大神に臣従したように)しなければならない。そのようにして、ある一つの集団においては、一つの最高の絶対的な聖なるものが成立する(もちろん、これは理想的な状態であって、必ずしも理想通りにはゆかないが)。あるいはこう言った方がよければ、一つの最高の聖なるものが成立したとき、すなわち、一つの同じ対象に各人がそのナルシシズムを多かれ少なかれ投影したとき、集団が集団としてある程度のまとまりを持つ。集団において最高の権威、最高の指導者が一人しか必要でないのは、事務上の便宜のためではない。集団のまとまりが必要であればあるほど、一人の最高権威をいやが上にも聖なるものとし、彼への崇拝を喚起または強制しなければならない(ヒトラー、スターリン、天皇、毛沢東などの個人崇拝)。
さて、聖なる一人の(または一つの)絶対者を頂点とし、日常性を下辺の広がりとしてここにピラミッド型の集団のヒエラルキーが形成される(完全なピラミッド型とはなかなかゆかないが)。最下辺のどの部分も、聖なる絶対者に支えられ、是認され、正当化されていなければならない。中位の者の、より下位の者に対する権威は、彼が分有している聖なる絶対者の権威に由来する(たとえば、旧日本軍で言われたように、「上官の命令は陛下の命令」)。
象徴秩序、言葉の秩序、社会的な世界は差異の体系としての構造を持っている、というのがソシュールの考えをもとにした構造主義の思考なんだと思いますが、それと対人関係や集団内の序列との関係について論じている人はいるでしょうか。

東浩紀の「存在論的、郵便的」で丸山圭三郎の本を参照した文章で、
言語は風船のようなもので、差異の体系としての言語体系は風船でいっぱいになった部屋のようなもので、それぞれ隣接する風船を圧迫しあっている、
というような話があったと思いますが、それは人間の集団内の心理と似ているように感じました。
集団が形成される時、最初は風船のポジションは決まっていないけど、そのうち空いたスペースがあればそこに占めようとするように圧迫しあうようになっている、というような事を最近思いました。
最初は丁寧な言葉遣いで接していたけど、見下せると判断した者に対しては丁寧な言葉を使わなくなり横柄な態度をとりだす、というような事は日常的にある事だと思います。
人が実際に集団内での優劣、強弱、上下の関係に置かれると、このトピのようにメタレベルから考える、なんて余裕は生じず、そこでのパワーゲームのプレイヤーとして強制的に動くようになるように思っています。
愚者や凡人の100の言葉よりも、賢者の書いた一冊の本の一行の台詞の方が優れている事がある。
ただ賢者の書いた本の言葉を自分の言葉として日常の会話で使えるレベルまで理解するのは誰にでもできる事ではない。
意見の対立などが生じて自分の優位を示そうとする時に使う暴言について言及があります。

暴言と知性について (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2011/07/05_1924.php
中村元訳「ブッダのことば―スッタニパータ」から
148 何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ、これこそ実に善く説かれたことばなのである。

452 好ましいことばのみを語れ。そのことばは人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、――かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、――かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれには煩悩の燃え盛ることがない。

888 反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起してはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口とを除き去れ。

930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことばを語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言辞を語ってはならない。

941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪り慳みとを超えよ。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。
――と師は説かれた。

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。

973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
ツイッタ―でつぶやいたものから。

宮台はいくつかの著作で「いい大学、いい就職、いい結婚、いい人生」みたいな事を子供に教えるバカ親が〜、とか言ってるけど、そうした価値観はこれまでもこれからも続くし、そこからズレた価値体系を持ち出しても「敗者を酔わせるウソの価値観」と見なされるだけのように思う。

魅力の高低による差別は人がヒトである限り続くと思う。

「自分の魅力を磨かないと見下され差別されたり疎外される」という現実を教えず「人間は平等だ」というウソを教える親の方が子供にとって有害に思える。そして世の中の中心的な価値観では「学歴と職業による差別的な階級があり、その階級で示される能力の高低により差別されたり優遇されたりする」

「知的能力による差別的な階級があり高位の者は優遇され、下位の者は不遇な状況に置かれ差別される」という価値観は生物として組み込まれているのではないかと思う。
32 :名前は誰も知らない:2011/10/07(金) 14:16:29.29 ID:8+Y1Fnqg0
小谷野敦「友達がいないということ」から
精神分析とかカウンセリングとかいうのは、科学的根拠に乏しく、つまりそれで治るという見込みは薄い。日本では精神分析医というのはあまりいないが、米国では一時期大流行していた。とはいえ、いずれも、友達とか、個人的なことを相談できる相手がいない場合の話し相手にしているのが実情ではないかと思う。といっても、もちろん、カネはとられる。セックスの相手がいない相手に、カネで相手をするのが娼婦なら、友達がいない相手に、カネで話し相手になるのが精神分析医やカウンセラーである。こんなことを書くと、侮辱だと言って怒る人がいるかもしれないが、それは娼婦に対する侮辱である。

40 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 01:30:21.49 ID:2iJv0OSXO
>>32
娼婦を侮辱して何が悪いんだ?

41 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 02:52:19.83 ID:uiV2a9pb0
>>40
職業に貴賤なし!人間は平等だ!

42 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 05:07:51.49 ID:2iJv0OSXO
>>41
あるだろ
頭イカれてんのか?

43 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 06:15:35.48 ID:uiV2a9pb0
>>42
もし人間が平等でなく職業に貴賤があるなら、あなたはだいたいどの辺に位置しているんですか?

44 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 07:03:11.19 ID:2iJv0OSXO
>>43
デタラメな文章だな
そんなことより職業に貴賤が無いのは何故か弁明してみろよ

45 :名前は誰も知らない:2011/10/09(日) 07:38:52.54 ID:uiV2a9pb0
>>44
差別をしない人に、なぜ差別しないのか聞いても意味ないと思うけど
差をつけるから意味が生まれるわけで
あなたは職業に貴賤があると思っているなら、
自分が賤しい身分の職業に就いているのか、高貴な身分の職業に就いているのか、
何をもって人を上下に分類して、その分類体系の中では自分はどのへんなのか、
答えれるよね

49 :名前は誰も知らない:2011/10/10(月) 00:37:18.54 ID:IZF/Z0tx0
職業に貴賎はある。賎しい仕事なんぞいくらでもある。たとえば金融とか
たとえばギャンブルとか。

ついでに貴賎とは隣くらいだが、地位の差や世間体も確実にある
通常それが貴賎と言われてるかも知れん
557 :名前は誰も知らない:2011/10/24(月) 00:15:16.54 ID:9KBEeQdl0
学歴と知能と読んだ本と年齢はどういう関係にあるんだろう。
低い年齢の時にいい本を読んでいると高学歴で知能が高いとみなされるのかな。
なんかそういう解釈で他人の読んでいる本からその人の程度をはかる人がいるように思う。
この程度の読書している人はこの程度、とか。
特に低く見られがちなのが、有名で読みやすいベストセラー作家の作品のようだ。
程度が低く卑しいつまらない人にはどんな侮辱を浴びせたり差別的待遇をしても当然と思われて、
程度が高く高貴な偉い人にはささいな侮辱を浴びせても問題視され騒がれる。
こうした明文化されてない格差が暗黙のルールとして存在して人の行動を支配している。

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