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境界と侵犯コミュの資本主義と分裂症

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「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」の副題ですが、一体どういう意味がこめられているのでしょうか。
「アンチ・オイディプス」は積読本で「千のプラトー」は持ってないです。
浅田彰の「逃走論」を一昨年に途中まで読んで放置してましたが、
資本主義はパラノ、分裂症はスキゾ、パチンコ玉のように整った粒子としての個人であり指導者の指差すのと同じ方向にいっせいに走り出すがパラノ、どちらを向いて走り出すかわからないのがスキゾ、エディプス関係を経たりパノプティコン的な装置の内に置かれる事で超自我を内面化した主体となったのがパラノ、
という印象を受けてますが。

コメント(1)

大澤真幸「戦後の思想空間」
僕らの行為や体験というのは、意味づけられており、まさにそのことによって可能になるんです。意味づけられているということは、それが、ある状況のもとで、適切であるか不適切であるかといった区別が付されているということです。そういう意味づけをされている行為と体験の領域のことを、一般的に「経験可能領域」というふうに呼びたいんです。つまり、規範が、ポジティヴかネガティヴにか意味づけるべく準備している―予期している―行為と体験の集合です。
意味づけられておらず、それが何らかの正常な行為をしたとは見なされない場合もたくさんあるわけです。あまりにも突飛で、規範が照準していない計算外の行動もあるわけです。そういうものは、経験可能領域に入っていない。これもよく出す例ですが、皆さんがたとえばここで居眠りをするとか、小さな声で私語をするといったことは、計算内に入っており、不適切な行為のうちにカウントされるわけですが、たとえば、誰かが突然大声で歌を歌いだすとする。こういう場合は、単に不適切性の域を超えていますね。こういうものは経験可能領域の埒外ですね。つまり、それは、適切であったり、不適切であったりする何らかの行為をしたことにすらならない。そういう場合を、僕は、「正則性」の範囲の外にある、と表現することにしています。
経験可能領域ということと<資本>がどういう関係にあるのか。短絡的に結論だけ言ってしまえば、<資本>というのは、社会的に承認されている経験可能領域を普遍化していくダイナミズムなんです。経験可能領域を、より包括的なものへと次々と置き換えていくダイナミズムが、<資本>という現象なんです。そして、こういうダイナミズムが、社会的にノーマルなものとして―正則なものとして―認められているような社会システムのことを、<資本主義>と呼ぶんですね。

<資本主義>でなければ、普遍的な経験可能領域への執拗で強迫的な志向性は、社会的に承認されたものとして、定着していないからです。<資本主義>というのは、普遍性を追求する欲望を無限化したシステムだと定義してもいいと思うんです。ほかのタイプのシステムは、規範の普遍性の水準を常に特定の限界内に収束させることによって安定化する。しかし、<資本主義>だけは、そうではなく、普遍性への追求に終わりがない。

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