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死刑廃止コミュの死刑という思想

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公権力による殺人というものはいくつかありますが、その代表的なものとして、戦争と死刑が挙げられるでしょう。そうしてあらゆる死は、生者によって簒奪される、少なくともその可能性が開かれているがゆえに、あらたな死を生産しもします。

たとえば、熱狂的な堕胎反対論者や動物愛護主義者が、しばしば、同様に熱狂的な死刑復活(存置)論者なのはどうしてなのか。

問われているのは、少なくとも、生者であるわたしたちにほかならないでしょう。

コメント(34)

『熱狂的な動物愛護論者』→しばしば『熱狂的な死刑制度存置派』について、詳しく知りたいのですが…
単純に事実としてあるのです。たとえば生命を絶対的な平等ななにものかとして、「動物」も「人間」も同じだとする立場の人々、彼または彼女たちにそれは「しばしば」見られます。さらには、一部の自然科学者は、類人猿の認識能力は認知障害の人間よりすぐれているとして、人間と動物との間に横たわっている境界を無化する主張をしています。

詳しくはなりませんでしたが、さしあたって、身近なところで感じる例を挙げました。
ご丁寧に、ありがとうございます。
私も欧米の捕鯨反対グループの一部の理論が、優生思想を背景としている旨聞いたことがあります。
自分でも少し調べてみたいと思います。
いわゆる「凶悪犯罪」で裁判官が言う言葉に、「被害者感情」というのがあります。ところが、謂うところの「凶悪犯罪」で、誰がだれを裁くのかというのをみると、この言葉がいかに空虚なものかがわかります。すなわち、刑事事件の裁判というのは、公権力が被疑者を裁くということ以上のなにものでもないわけですね。ですから、もしかりに被害者の家族なんかが、「犯罪者の親も人の親だ。これ以上わたしたちの苦しみを広げて欲しくない」と言ったところで、ゼロではないでしょうけど、それほど判決に影響しはしない。「社会的影響」だの何だのでっちあげても死刑にしたいやつはする。「こういうのを生かしておくと、社会的に悪影響だ」と。オウムの「ポア」の論理そのものです。そうして、だからこそ、さしあたり実定法としての復讐法、死刑を廃止すること、それは必然だと思うのです。
今日の朝日に『犯罪被害者も論告・求刑』
できるような動きが…。検察が15年や無期と言っても
範囲なら死刑も述べられるらしいが、これではだだの感情のみが先走り真実。事実の判断が下されない。
死刑の乱発になるのは目にみえてる。
当然日弁連は反対してるが共謀罪とかしょうもない法律だけは
勝手に通るから有り得ん。
断固反対やで。
>『犯罪被害者も論告・求刑』

まったく無茶な話ですよね。
これじゃ事実上『敵討ち』『仇討ち』の合法化です。
こういくことを本気で議論する人たちがいることが信じられない。日本を前時代に戻す気なのか…
sem-chen さん

>検察が15年や無期と言っても
範囲なら死刑も述べられるらしいが

ここの意味が分からんとです。
もそっと説明をお願いいたし候。
一体誰が言い出したんですかね
法務省ですかね
政治の圧力があるのかもしれないがこれはひどい
近年マスコミも政治も行政も司法も衆愚政治的な誤りが拡大してる感があります
死刑が宣告され、いつ来るとも知れぬ執行の日を待つ日々。だが思えばこれは、不治の病を告知された患者の姿、さらには、もしハイデガーの言うように、「ひとは産まれるとともに死するに充分に老いている」のだとすれば、胎児の時期は措くとしても――胎児の自己意識、少なくとも痛覚の有無を考慮するにせよ、そうするに足る理由がある――、それにはだれもがこの世に産まれたときから、おそらくつねに在りつづける姿ではないのか?

誕生が死刑と同列に論じられないことは自明であるにしても――だが果たしてそれは自明だろうか?――、これだけは言い得るだろう。すなわち、「産む」ということは、生を授けると同じていどか、おそらくはそれ以上に「死の生産」に他ならないということだとである、と。

「生を授け」たひと、ありていに言えば、一般に親と呼ばれている者たちは、意識的・無意識的かのいかんを問わず、その「授け」を恩寵であるかのように考えるし、そればかりか、「生を授」かった側のひとさえ、たいていは同じ倫理が内面化されており、「産んで欲しいなどと頼んだことは一度もない」という――控えめに言っても、一面の真理を衝いていると思われる――主張も、しかし多くの場合、三文劇の「親不孝者」の台詞にどとまることをいまだにやめてはいない。

「産んでやった」=「産んでくれた」――だがそれが、つねにすでに「死の生産」である限りにおいて、実に奇妙なものではないだろうか? というより、この「奇妙さ」を回避するためには、「殺してやった」=「殺してくれた」という図式をも同じ程度には妥当でなければならない。

いずれにせよ、ここで差し当たっての判断をくだしても大過ないだろう――人は「産まれる」、より精確に言うなら、「生まれさせられる」、あるいは同じことだが、「誕生させられた」のであって、そこに生まれる者の主体性はいかなる形にせよありはしない。

主体とは何か? 「主体の後」に来る者を想定することが不適当な仮定だとしても、あるいはそうであるがゆえに、少なくともカント以来――しばしば人はそれを(恐らくは)誤ってデカルトにまで遡って述べるのだが――、この語に与えられた奇妙な含意を問うことは、ありきたりとはいえ当必然的ではあろう。だがここでは、この広範に過ぎる問いのなかでも、さしあたり「責任主体」について、あるいはむしろ、「責任=と=主体」について若干のべるに留めよう、可能であれば。

責任=応答可能性がつねに他者を前提にしている限りにおいて、つねに「主体」は公共的な資格でしか原理的に考えられない。だからこそ、いわゆる「被害者」/「加害者」の関係は、「害」のエコノミーでは計算不可能なものなのである。つねに、すでに。

ウェスターマークによれば、誰かに身内が殺されたとき、殺害者を身内の一人にすることが刑罰であった場合がある。確かにこれもひとつのエコノミーではあろう。だがそれは、ここでいう意味での「害」のエコノミー、罪と罰の等価交換というそれとは別の仕方である、ありえたし、実際にあったエコノミーに違いあるまい。

そうして、だから、生が祝福されるべきものであれ、呪われるべきものであれ、それはあらゆる所有から離れることになろう。だが、もっと先に進まねばならない。さしあたっては、だから、交換のタームで語ることを、そうさせる原理を脱構築する必要がある。さしあたっては、だ。
確かに「産む」ことは「生の生産」であると同時に「死の生産」だが、一般に人は生きる過程において死を意識しない。微かに意識しつつも敢えて死から注意を逸らすことで生が充実する。
しかし死刑囚においてそれは当てはまらない。彼らは死を意識せずに1日を迎えることはできないし、またそうすることなしに1日に別れを告げることもできない。土曜日と祝日前の日を除いて、彼らには常に翌日の死の可能性がつきまとうからだ。
もちろん、死の可能性が常につきまとうのは死刑囚に限った話ではない。誰しもその可能性に悩まされ、いつしかその可能性が現実になる。しかし一般にそれは無視できる。人は気晴らしのできる生き物だからだ。気晴らしをし、死から目を逸らし、死を意識せずに生を謳歌できる。
だが死刑囚にはそれができない。死の可能性が現実的すぎるからかもしれない。そしてそれが苦痛を生み出すのだ。

>>9は視点を遠くにおくことで生と死の隔たりを取り払おうと試みたのかもしれない。確かに視点を変えれば生と死の間に差異はみられないし、僕としてもその考えには賛成する。
しかし、死刑の是非を問う場においてそれは意味をなさない。死刑は刑罰であり、そしてそれは現実味を帯びて我々の前に差し迫っている問題だからだ。その問題を解決するのはより現実的な考え方に裏打ちされた方法であり、哲学ではない!
哲学に裏打ちされた刑罰はより多くの犠牲者を生む。
この場に哲学を持ち込んだのは愚かというよりない。
「犯罪者=犯罪」という図式で考えることが、死刑制度を支持する要因になっていると思います。

人と行為を分けて考えることが求められると思います。

近い将来、脳科学は凶悪犯罪を犯す人たちに特有の脳内の異常(ホルモンの異常分泌や細胞死による機能障害等)を解明できると思います。

その時、犯罪者は人に危害をもたらす可能性のある病人であるという認識が生まれると思います。

病人である人たちの命を法的に奪うことこそ犯罪です。

自分の好むものだけに愛を向ける人たちが死刑制度を支持する人たちであると思います。
私は死刑を考える上で哲学が無効だとは思えません。
そもそも我々の日常に哲学は大きな役割を果たしており、生活に生きていると思うのですよ。ただ、意識していないだけのことで。

死刑を考える上で哲学を避けることは出来ないでしょう。哲学は不要という考えはそれこそ大きな誤謬を招くのではないでしょうか。
ただ、哲学を用いて語る場合でも、新聞の記事程度に分かりやすさを心がけて語っていただきたいと思います。
私は考えたいのです。おそらく常識はずれで、また恐らくいくぶんか突飛で、かなり滑稽な仕方で。

国家によって奪われるかもしれない命を護るため、とりわけこの国では「死刑廃止」を一点とした共同戦線――という言い方がおおげさに、また少しばかり古臭く聞こえるのなら――連帯してゆくことは必要ですし、及ばずながら私自身も加わっているつもりです。

にもかかわらず、死刑について思いをめぐらすと、これがあまりに複雑な問題をはらんでいるように思えるのです。そう考えることが間違いなのでしょうか……。

以前、週刊誌の論説に概要こんなことが書かれていました――

『なぜ人を殺してはいけないのか?』という本が売れていることそれ自体に私は違和感がある。悪いものはわるい、駄目なものはダメ。そういう常識が通じないで理屈がないと安心できない。現代病というべきか。

――記憶にまかせてかなり歪曲したうらみがありますが、確かこんな感じだったのではないかと思います。

私はこのコラムに戸惑い、ある種の反発をすら覚えました。

ほんの一例ですが、いわゆる「ヒューマニズム」と「人種主義」が紙一重であることは、たとえばナチのイデオローグ達の主張をみれば容易に理解できるでしょう、「アーリア人種だけが真正の高等人類であり、本来的な意味で人間と呼べる唯一」の存在(『20世紀の神話』)等々。つまるところ、「人間」という概念は、さらにまた、その中の「高等/低等」などといった階層は、この数世紀を見渡しただけでも頻繁に拡縮してきました。女性が、奴隷が、パレスチナ人が「非‐人間」であった/あることは、決して過去の出来事ではなく、実に現在的な問題だといえるでしょう。そうして――しばらく前に触れた「生命」についての複雑な問いをここでは措くとして――、「いまのところ」、「今現在」、生物学的に「人間」とされている者は、「法」によって「処分」されているわけです。そうしてこのことが、充分ではなかったのでしょうし、恐らくは失敗したのでしょうが、私が「誕生」についての肯定的な――「あなたを生んであげた」「産んでくれてありがとう」等々――「常識」に疑問符を突きつけることになったわけです。

話が飛躍しますが、遺伝子科学について――大いに肯定しますが――、私は若干の注意が必要だと思います。何となれば「犯罪者」の監獄から精神病院への「移送」は、象徴的な言い方をすれば、「悪魔から病人」という地平を切り拓くのではなく、控えめに言っても「悪人から標本」という動きに過ぎないからです。すべてと
は言いませんが、隔離病棟の精神疾患の患者がいま、どのようなひどい目に遭っているか。一見、やさしげに見える所作にも、私たちは目を光らせるべきでしょう(p.ex., c.f. pp.147-156, Surveiller et punir, Michel Foucauld,日本語訳『監獄の誕生』(ページ不明))。

いずれにせよ、私はあらゆる「復讐」の論理には反対ですし、とりわけ国家がその代理人ぜんと振舞う体系には、掛け値なしに反対します。
いじめカッコ悪い…

死刑カッコ悪い…
heliconienさんが立てられたこのトピックの文言の
>熱狂的な堕胎反対論者や動物愛護主義者
は、どうもピンとこないのですが、「日本を批判する者に対する、偏狭な敵対主義者」は死刑存置論者と往々にして重なるようだなと感じています。

「復讐」の遂行について、
>国家がその代理人ぜんと振舞う体系
を何とかして乗り越えられるように進んで行きたいですね。

ショウキさんの仰ることも尤もなことだと思います。

私は、今日、責任主義という言葉を知ったのですが、この近代刑法の原則を逸脱した判決が非常に多く下されているのが、現在の日本の裁判ではないでしょうか。

責任主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9
― 最近の凶悪犯罪者、タチが悪いのが多いね。
― なんだよ、やぶからぼうに。
― 愉快犯みたいな動機で次からつぎに人を殺してさ。ひとの仕業とは思えない。ケダモノだね。
― 何があったのか知らないけど、それならキミの言う「ひとの仕業」ってなんだい? こう言うと語弊があるかもしれないが、「愉快犯」なんていうのは実に「人間的」と言えるんじゃないかな。いわゆる「いたずら」の一環が、たまたま殺人だったというだけの話で。少なくとも「ケダモノ」の愉快犯というのは、僕は知らない。
― なんだよ、いやに罪人の肩をもつじゃないか。
― いや、そういう積もりはないんだが、キミが「ひと」という何かを決めてかかっているように思えたからね。
― また抽象段議かい? 
― おいおい、それは僕が言いたいことだよ。ひとは――自身の身体なども含む――広義での環境に応じて、いろんなことをするね。「ケダモノ」もそうだけれど、それよりもっと、はるかにいろんなことを。ところが、いわゆる「残酷」な行ないだとか、そういうのは「非人間的」とか言って非難する。人間しかしないことまで「非人間的」というのは実に奇妙じゃないかな?
― じゃあ少なくとも、制度的な死刑は「人間的」というわけだ。
― ああ、そう認めざるを得ないね。だが、もしかりに「人間的」というのなら、死刑廃止はそれ以上に人間的ということになるはずだ。
― それは詭弁というものだ。キミの論理に従えば、自動車はひとの発明なのだから「人間的」で、ひとの運転の起こす死亡事故も「人間的」ということになるんじゃないかい?
― ああ、そのとおり。ただ、それは「もしかりに『人間的』というなら」という前提のうえでの出来事であって、だから僕の謂わんとしていることはむしろ、「人間的」とかいう決めつけがすでにおかしいんじゃないか、ということだよ。
― 決め付けじゃないよ。どんな社会でも人の倫というのがあるだろう。もちろん、文化によって違いはあるにせよ、一定の普遍的な規則はあると思う。
― うん。ただ、何度も言うようだけど、どうしてそれが「人間的」だと言えるんだよ? よく、「人殺というのは、昔はやむにやまれず行われたことで、いまのように簡単に、『ムカついた』とか、そういう身勝手な理由で行われることはなかった」とかいうことを言う嘘つきがいるけど、その「嘘」は措くとして、たとえば、「永年にわたる介護に疲れ、自分も後追いするつもりで殺してしまった」という場合と、「軽蔑的な視線に腹が立って誰でもいいから殺してやろうと思った」というのでは、少なくとも後者のほうがヨリ「人間的」だよ。
― つまり、人間の存在そのものが罪深い、と。
― そんなにわかクリスチャンみたいなことを言いたいんじゃないよ。ただ極端な話、「身の危険」のために殺してしまった場合と、「むしゃくしゃして銃を乱射した」場合を比べて、前者のみを「正当」とするのはおかしい。「むしゃくしゃ」のなかにどれだけの憎悪が、それに伴う心理的な傷があったのか、そういうところまで考えなくてはならないと思う。
― でもそれじゃあ、殺されたひとはどうなるんだよ。
― ああ。死刑存置論者がいつも切ってくるカードだね。その話はまた今度にしようか。
 死刑に限らず、こう言ってよければ「刑罰一般」というのは、刑罰の正当化を試みる言説(被害者感情、更正、社会防衛…等々)や、刑罰をくわえる主体(広義での被害者、同様に国家…等々)をいったん括弧に収めて考えると、それは、いわば「罪と罰との交換」という形でもって言い表すことができるように思われます。「交換」というからには、それぞれの項に共通する何か、いわば「交換価値」とでも呼ぶべきものが想定されているわけです。じゃあそれはいったい何なのか。これまた複雑な問題を一言で片付けるわけにはいかないのですが、少なくともその一元素として「害」が挙げられるでしょう。「おれはあいつからこれだけの害を被ったのだから、あいつもそれ相応の害を受けるべきだ」というわけです。
 しかしそうなると、じゃっかん奇妙な例が生ぜざるを得ない。たとえば、いわゆる「未遂」の場合ですとか、「正当防衛」と呼ばれている行ないはどうなるのか。予想された被害――あくまで予想された――は現実には「起こらなかった」わけですから、ここで刑罰を加えるというのは、そこが実質的な「最初の加害」の時点となってしまう。
 ところが、「被害者感情」を盾に採って「厳罰」を叫ぶ論者というのはこういうことには触れませんね。同害法を主張して、「死刑どころでは足りない。拷問にかけて被害者の苦しみを味あわせて」とか言っている連中というのは、たとえば、「万引きが店内で見つかった場合、犯人はそれを返しただけで赦されるべきだ」というふうには決して言いません。同害法を徹底して形式化すれば、それが当必然的な論理的帰結になるはずなのですが言わないし、おそらく考えもしないでしょう。
 もっとも彼らは被害者「感情」について言っているわけですから、即物的というか物象化された「害」で割り切るのは不充分であるばかりか、おそらくは不適切ですらあるでしょう。しかし、それならば彼らのほうこそ、「被害者感情」なるものを本質化してはいないでしょうか。
 改めて考えるまでもなく、「被害者感情」にもいろいろあります。「厳罰を望む」といったコメントばかりがクローズアップされているようですが、「私たちと同じ苦しみはもういらない」とか、「犯人には生きて償ってほしい」という被害者も決して少なくはないんですね。さらにまた、「厳罰を望む」と言っていた被害者の意識を長期的にみると、「あの時はそう考えたけれど、失ったひとが戻ってきたわけではなく、虚しさは癒えない」という人もいます。「被害者感情」を盾に取る存置(復活)論者のいったいどのくらいの人たちが、そういうことを考えているのか疑問です。
 もちろん、それだけで充分ではありません。少なくとも、被害に遭ってからそう時間が経っていないうちには、「犯人の極刑を望む」という遺族などは事実としているわけですから。
 ここで改めて「主体」の問題に少しだけ触れたいと思います。「犯人の極刑を望ん」でいた遺族が、どうして後々になって「虚し」くなる場合があるのか。一般化すると、どうして感情は変化するのか。
 これは反対に考えたほうがわかりやすい。つまり、感情というのはつねに変化しているのが普通であって、喜怒哀楽、あるいは愛情や憎しみ、そういう感情というのが変わらないというのは、変わらなくさせている要因があるからなんですね。これを突き詰めてみると、感情は、またとりわけそれを何らかの形で観念にさせているものというのは、自らの考えではあっても、掘り下げてみれば、環境なり社会通念なりに従って考えさせられているということになります。
 文脈を戻すと、「極刑を望む」と言ってはばからない遺族の言葉は、なるほど彼らのその時の意思に違いないでしょう。けれどもそれは同時に、そのように考え「させられている」ともいえるわけです。厳密にいえば、親族を失ったという出来事に付与される、「悲しい」という思い、そういう「被害者感情」からして完全に「本能的」とはいえないということは措くとしても、被疑者に向けられる「憎悪」という感情は、精神分析的で「転移」と呼ばれている、一種の精神的な防衛機制にすぎません。いわゆる復讐心というのが快感原則欲動のなかでもかなり重要な位置を占めているにしても、です。
 翻って、それでは、犯人の側はどうでしょうか。
 ここに殺人事件があったとして、一般に「殺人」という「犯行」が、いわば「根源的暴力」として考えられがちですがどうでしょうか。「理由なき犯罪」などという言葉がありますが、「理由」という部分を単純な形式論理的に斬ってしまうのではなく、もう少し柔らかく考えてみると、どんなに不可解にみえようとも、理由のない「犯行」というのはおよそ考えにくい。
 たとえば、「地下鉄サリン事件」ということがありました。オウムの教義について僕は何もしらないのですけれども、事実関係については認めている当時の被疑者の言い分によれば、「〔被害者は〕ここで死んでも生まれ変わってきたときに善人になる」だとか、「悪行を未然に防いだ」といった殺人の正当化が観られた。つまり、それなりの「理由」はあるんですね。極めて「現実的」に考えてみても、とりわけ後者の言い分はもっと注目されてもいい。
 ようするにこれは、あらゆる「正当防衛」の言説です。自分「本人」なり自分の「仲間」が、ともあれ殺られる前に殺った。だから「正当」だというわけです。これをもっと細かく観ると、「殺られる前に殺」るというのは、「殺られそうだから殺」る、さらには、「殺されるかもしれないから殺」る、「殺られる可能性があるから殺」る、ということなんですね。例えばアメリカがイラクに対して行っている侵略の端緒はまさにそういうもので、そんなところまで認められるのならば、例えば周囲の人間がことごとく自分を狙っているから視界にある人をすべて殺すという行為は完全に「正当防衛」でしょう。
 ところが、いわば「精神鑑定」を否定的な形でパスしなければ、いまの日本の司法下にあってそれは認められません。僕は法律の素人なので、詳しいところはわからないのですが、報道をみる限り、「判断能力があった」とか、そういう「理由」を述べられる場合が多い気がします。
 申し訳ないけれど、これは実に「浅い」判断だと思います。
 例えば、絶対菜食主義者の人たちは、少なくとも人間という種が単純に生きていることが「動物の殺傷」であることをどうして無視するのでしょうか。それとも、彼らもまた、胃腸に棲む菌類は、人間の生命より「軽い」ものだと考えているのでしょうか。だとすればどうして、「人間」と「犬」と「クジラ」の生命が平等だといえるのでしょうか(後に「生の重さ」について述べる機会があるでしょうが、今回は深入りしません)。
 ともあれ、死刑というのが転倒した「代理殺人」であること、それによって共同体的秩序を維持しようとするものであること(この論点について今回は触れませんでしたが)、それこは少なくとも「一意見」を観てもらえたのではないかと思います。
 いささか中途半端になりましたので、ついではまた次回とさせていただきたいと思います。

なお、いまさらヤボな話ですが、異論、反論については、大いに歓迎いたします。いずれにしても、僕自身は死刑廃止論者です。やや「異端」かもしれませんが、これからも飽きずによろしくお願いします。
死刑囚ないし囚人も、社会の犠牲者なんですよね

犯罪被害者と刑法犯は、善と悪の対立なのではなくて、実際は被害者と被害者の関係です

一般大衆にはあまり理解されていませんし、今の所理解は望めませんが、専門家の間ではわかっている方がかなりいらっしゃいます
ディオゲネスの樽 さん

強く共感いたします。
パイさんパイさん

あなたは廃止に賛成なんですか
仮に違うなら、投稿場所を間違えてませんか、再確認してみて下さい
だとすると、参加するコミュが不適切のようです
他にも賛成、反対、議論するところがありますから、そちらでどうぞ
ご質問にお答えするのは容易ですが、場所が不適切ですので、控えておきます
コミュのルールには我々は従う義務があり、思ったことをそのまま投稿していいということではないわけですからね
すみません、バイさん

参加人数=死刑廃止を主張する人数
としたいので、強制退去とさせていただきます。
では、アーモンド51さん

>だれでも参加できる

という参加条件を

>死刑廃止を主張する人

と変更してはいかがですか。

個人的には、そうした閉じた場になってほしくありませんが。 
「参加条件公開レベル」のことですか
そこは自由に文字を変えられないんですよ
選ぶだけなんです

このコミュの特徴は参加者を廃止派に限っているところにあるわけで、そこを自由にしたら存在意義がなくなってしまうでしょう
つまり、そういうコミュは他にたくさんあるわけですから
警視ジャヴェール さん、有難うございます。

>選ぶだけなんです

そうなんですか。

>存在意義がなくなってしまうでしょう
>そういうコミュは他にたくさんあるわけですから

快い納得というわけには行きませんが、取り敢えず分かりました。
皆様の熱心な議論を聞いていると励まされます。
 死刑制度廃止と申されますが、死刑囚のいる拘置所にも面会したり、文通をやってみませんか。
 昔、死刑囚だった人たちは、死刑囚はみな言い人だったというてますよ。
 特に「冤罪死刑囚」の問題に関心を・・・。


「いのちは誰のものか?」――。

しばしば議論される話題だと思いますが、当然とはいえそう簡単に答えがでるものではありません。「俺の命はおれのもの」と斬ることができれば話は簡単ですが、思うにそうはいかない。それは何も、友人がいるから、恋人がいるから、家族がいるから、親戚がいるからというような、せいぜい実用的ではあるけれど答えにも何もなっていない感傷的ナンセンスそのものの擬似解答、あるいはニセ解答のためではありません。もちろんこれは、自己が他者を通じてしかありえない、というあまりに当然すぎる発想をもってしてもそうです。

ここで話を打ち切ってもいいのですが、わたしなりの仮設的な応答、むしろ可能的な問いを置いておきましょう。すなわち、

「誰もががいのちに支配されている」、言い換えるなら、「私はいのちのもの」だとしておきましょう。

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