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中井弘コミュの曾祖父と中井弘

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中井弘の曾孫、屋敷茂雄さんが幻冬社から中井桜州の本を
出版されたのをきっかけに連絡をとり2年まえにお会いしました。

私の曾祖父、吉井常成と中井弘はいとこ同志であったことから、ずいぶん
親しくお付き合いしていたようです。

中井の娘、貞子が原敬と離婚騒ぎでもめたころには原から貞子の生活費を
渡すように頼まれて、何度も足を運びよりをもどすよう話に行ったそうです。

常成の娘、愛子は後に原敬の秘書官を務めた岡松の家に嫁いだそうです。

常成の葬式の葬儀委員長は原が執り行い、遺産についての処分も原敬が
しきって取り決めたと原敬日記に詳しく金額まで書いてあります。

中井、吉井、原、岡松の四家は姻戚関係を持ち仲良くやっていたようです。

加治屋町で育った常成が後に飛騨高山や和歌山の郡長、徳島の郵便局長をしていた頃に吉井の別邸が高台寺の近くにあり、しばしば京都を訪れていたそうです。

後に久邇宮邸となる中井の屋敷と高台寺とは散歩のコースとして適当な距離にあり、それを知らず、いつも親子で歩いていた場所だけにうなずけます。

先日、母の1周忌の際に、その徳島県の郵便局長の頃の写真が押入れの奥から出てきたのでアップします。

コメント(29)

屋敷茂雄氏からはその後、中井弘にかんして宇和島の
歴史研究家の資料などを送っていただきました。

こちらからは吉井家に残っている家系図、その注釈
などを送りました。

写真は屋敷氏

さらに常成の息女:愛子が嫁いだ岡松忠利と子息:忠常

常成の曾孫:吉井健夫:私、どことなく常成と似ていますね。
フランス公司時代の原敬と中井の息女:貞子の写真です

司法省法学校時代の原敬

 はじめまして、まいたけと申します。

 中井弘の従兄弟のご子孫のとのこと。いろいろと貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

 吉井常成は、加治屋町の出身とのこと。
 中井の父親と、常成の父母のどちらかが、兄弟だったのですか?

 よかったら、お聞かせいただけないでしょうか。

 よろしくお願いいたします。


 
はじめまして。よろしくお願いいたします。


申し訳ないのですが、その辺のことは、私はよく知らないのです。

本当のところは東京墨田区の実家で暮らす父、友也(9月26日で90歳になります)
に確認するほかない状態です。耳が遠いので近くに住む弟に口頭確認を
頼みましたが、望み薄です。

吉川栄治の南国太平記、下巻508頁に、島津斉彬の子息の哲丸様のお抱役として
吉井七郎右衛門という江戸詰め御殿医が登場します。ひょっとして、
哲丸様が調伏により亡くなった後に仲左衛門と改名したものと思われます。
その家に跡継ぎがいなかったために西郷隆盛の勧めで、國生家から相当高齢の
吉井仲左衛門の養子となった際に仲ノ丞と改名したと伝わっています。

そこから推理すると、吉井仲左衛門の妻と横山休左衛門の妻が姉妹だった
可能性があります。仲左衛門と休左衛門の名前もよく似ているので、なんとなく
両者の姻戚関係推理できるかも知れないという程度でしかありません。

もうひとつの推理は常也の生家、國生家の実母と横山家に嫁した中井の実母が姉妹同士である可能性もあります。

すいません、今、父の覚え書きをよく見ると下記のように出ていました。
常成は誤植でした、常也と直していただくようお願い致します。

明治40年代
(常也の)徳島県警本部長
徳島県知事 従兄弟 床次竹次郎(東大法卒)
のち内務大臣
後に(常也の長男は卓爾で私の祖父)次男友彦 徳島中学在学
中井弘:血縁の従兄弟
床次竹次郎:血縁の従兄弟
(両者とも)國生家の血縁

従って、二番目の推理が妥当と思われます。
この覚書は父、友也が記憶の正しく頭に刻まれている昭和47年頃に
書かれたもので吉井家に残るものとして最も信頼度の高いものと思われます。

御陰さまにて常也、卓爾、友也、健夫、龍太と血脈が続いております。
追伸

また、常也の一番目の妻は村田新八の娘で一女愛子をもうけた後
離婚しています。



名前不詳
財部海軍大臣の叔母。
常也との間に長女愛子が生まれる。後に離別して瓜生家に嫁す。




愛子:明治5年1月1日生まれは常也が引き取り、幼いころは鹿児島市外
谷山村の乳母米沢すぎ(戒名釈尼教和)のところで育つ。
乳母をかか、その夫をととと呼んで幼いこのころが一番楽しかったと娘
千代に語っている。(浪の平井戸の水で育つ)名泉。
その後、吉井家に帰り継母に育てられ、そして西南戦争となる。
岡松忠利には畠山国憲の世話で京都先斗町料理屋共楽館の庭園に牡丹
が咲いているところを愛子が歩くのを忠利氏が眺めて見合いをする。
その後忠利氏へ嫁す。結婚前大阪ウイルミナ女学校に学ぶ。

妻(二番目の)とく
初代北海道長官、第二代総理大臣黒田清隆の姪
一子卓爾あり。

念のため覚書の執筆者である父、友也の経歴を紹介しておきます。
吉井友也先生略歴
大正10年9月東京都に生れる

昭和14年3月東京開成中学校卒業

昭和17年9月東京高等学校文科乙類卒業

昭和18年5月京都帝国大学文学部西洋古典文学科退学

昭和22年9月九州市国大学法文学部法科卒業
(この間内地国内蒙?北支に1年3か月従軍)

昭和22年9月九州帝国大学法文学部公法研究室副手

昭和22年11月九州帝国大学法文学部公法研究室助手

昭和25年4月九州帝国大学法学部政治研究室助手

昭和26年5月大阪学芸大学講師

昭和32年4月島根大学助教授(文理学部)

昭和37年 島根県収用委員(昭和52年まで)この間,島根県自治研修所講師,島根県公害認定審査会委員,島根県予防接種対策協議会委員等を一時兼任

昭和40年7月島根大学教授(文理学部)

昭和坐年3月島根大学評議員(同年5月まで)

昭和44年4月文理学部厚生補導長(45年3月まで)

昭和45年10月島根大学文理学部学科代表盈教室主任(47年9月まで)

昭和53年6月島根大学法文学部教授

昭和60年3月定年退官

            吉井友也先生著作目録
 著書/論文
政治権力と法の強制カ   九大新聞 昭和24年11月
ドイツ絶対主義      『政治学全書』第5巻(「政治史」)所収(理論社刊)                           昭和30年8月
ナポレオン体制下のドイツの屈服と反抗
         『政治研究』第4号(九大政治研究室)   昭和31年2月
プロイセン王国の行政組織とその政治的背景
              『島大法学』第5号       昭和34年
ワイマル憲法およびフランス第5共和国憲法
              『島根大学論集(人文科学)』第12号   
昭和37年12月
 1960年代の西独および仏の議院内閣制について
              『島根大学論集(人文科学)』第13号   
昭和39年2月
76
 東独植民とドイツ騎士団国家
         『島根大学論集(人文科学)』第14号 昭和40年2月

 1814年のフランス第7憲法の制定と改正をめぐる政情
                『政治研究』第13号 昭和40年3月

 島根県衆議院議員選挙史序説
               『島大法学』9?10合併号 昭和40年4月

 石見立憲改進党の結党をめぐる政情
               『山陰文化研究紀要』第6号 昭和40年12月

 国家非常権の比較政治学的研究
               『島根大学論集(人文科学)』第16号
昭和41年12月

 明治16?17年における民権政党弾圧と地方改進党
               『島大法学』第13号, 昭和43年3月



 16世紀フランスにおける憲法思想 I
               『島大法学』第19号 昭和48年3月

 16世紀フランスにおける憲法思想 皿
               『島大法学』第20号 昭和48年11月

 イギリス公務員制度におげる行政階級の問題
               『島大法学』第23号 昭和50年3月

2.論評?辞典?その他
 G.イェリネック,「一般国家論」
 G.ヴァイツ「ドイツ体制史」
               『世界思想辞典』河出書房昭和25年1月


 最高裁判所の違憲条約に関する審査権について
               『島根大学新聞』 昭和35年

 日本人あ憲法意識一中国地方国山陰地区の実態調査報告
              小林直樹編『日本人の憲法意識』所収
              東京大学出版会 昭和43年3月

 ルネッサンス期フランスの憲法思想
               『年報政治学』所収 昭和49年

写真は昭和30年の新婚当時の父母です。母の御腹に姉がおり、父も
希望に満ちた表情をしています。
先日、夫婦で八坂神社に参り、中井弘の銅像はどこかと
神社の人に尋ねました。

さあ、よくわからないので、円山公園から仁和寺に抜けて探し
てみてくださいといわれました。

結局、探す時間がなく場所がわかりませんでした。

どなたか銅像の場所をご存知ないでしょうか?

今年は、東福寺の墓参りもしたいと思っています。

ドリームメイカーより


 京都にある中井弘の銅像の場所は、八坂神社本殿北側の公園の中にあります。
 平野屋いもぼう本家の西側といった方がわかるでしょうか。
 公園といっても、高い木々が繁っているので、夕闇の訪れが早いところです。
 この公園には、確か、もうひとつ、いもぼうに近いところに彫像がありますが、それを右に見て進んでゆくと、左手に、中井の銅像が見えるはずです。
 
 戦前に建立された銅像と比べたら、かなりショボイです。

 今度は、見つかるといいですね。
ご丁寧にご教授くださいありがとうございました。

奇しくも今日は父友也の90歳の誕生日でした。

父が10年前に書いた吉井家の歴史を一部私のブログにアップ
していますのでよければご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/logos_yoshii/archives/cat_50045440.html
ネットで検索したところ
中井弘が吉井常也のために転任願いを書簡
にしたためて牧野伸顕に出していたことが
わかりました。

いろいろとお世話をかけたようです。

以下は引用です。

中井弘書翰 牧野伸顕宛
年月日 明治24年10月27日
数量 1通
内容 吉井常也転任方依頼アリ 滋賀県ヘ周旋アリタシ

明治22年〜明治24年の間、常也は岐阜県高山郡の郡長をしていました。
この転任願いが効果を発揮したのか
27年には島根県斐川郡の郡長になっています。
その後、和歌山県警察本部長、徳島県警察本部長をへて
退官します。
官職の最後に沖縄県知事に内定していたが辞退したそうです。

原敬の勧めで政友会党員として岐阜県衆議院選挙に立候補しますが
落選、三番目の妻逸子を迎え青山箪笥町に住宅を移し、大正7年に
亡くなりました。

 憲政資料室にある牧野伸顕関係文書にある手紙ですね。
 それでしたら、国会図書館の憲政資料室へ行けば、実物の手紙、もしくは、複写した手紙を見る事ができますから、もう少し、詳しい内容がわかるかもしれませんよ。

 明治24年には、中井は、すでに滋賀県にはいませんが、6年間も知事の職にいたので、多くの中井と親しい人物が多くいたでしょうから、滋賀県へ周旋依頼をしたのでしょうね。

 ドリームメーカーさんが書かれた常也の履歴には、

明治22年〜明治24年 岐阜県高山郡の郡長
明治27年       島根県斐川郡の郡長

 明治24年から27年の履歴がありませんが、滋賀県で働いていた記録はないのでしょうか?

 それ以前の書込みの中にも、わからない点がいくつかあります。

 例えば、

>常也の一番目の妻は村田新八の娘で一女愛子をもうけた後 離婚しています。

友人に、村田新八に詳しい人がいるので、聞いてみましたが、村田新八の一人娘は、有馬家に嫁いでいるとのことでした。
 別の村田家では、ないでしょうか?


 それから、中井弘の母親は、佐戸原が郷里と書いてあります。(横山詠太郎『中井櫻洲』) もし、母方の姉妹とすると、父親(横山詠助)が喜界島から戻ってから結婚をした後妻の姉妹ではないでしょうか。後妻の旧姓がわからないので、想像ですが、、

 吉井常也ですが、明治33年には、和歌山県書記になつているようです。

 もう少し、職歴を詳しく調べてみるといいかもしれませんね。
 
ありがとうございます。
実は書類が3種類あるのですが、どう調べたら良いのか
皆目検討が付きません。

1、岡松家作成の家系図:10枚
2、友也が昭和47年頃作成した備忘録:18枚
3、上記が行方不明となり10年前に友也が書いた覚書

1と2のコピーを送らせていただき調べ方などご教授いただければ
ありがたいのですが、いかがでしょうか。

書類以外は写真と墓しか残るものがないのが現状です。
青山 梅窓院の墓です
右奥が常也、逸子の墓
左奥が吉井卓爾以下の墓
人物左より弟友常、姉智子、妹裕子です。
実は梅窓院の趣あるこの参道が好きなんです。
10月となりました。

そういえば10日が中井弘の命日
でした。今年は墓参りなさいますか?

その際に都合がよければお会いするのも
楽しいですね。

できることはご協力してあげたいのですが、本業とボランティアなどもあり、家系図などをお預かりしても、しばらく何もできそうにありません。(今も、赤い羽共同募金を終えて帰宅した所)

 他にも、中井に詳しい方はたくさんおられると思うので、どなたか、、、お願いできませんか? >皆様っ


 菩提寺は、梅窓院でしたか。青山墓地へ行く時に、いつも素敵な参道だなあと、横目に見て通り過ぎていました。青山墓地には、吉井友実のお墓がありますが、同じ一族なのでしょうか?

 中井弘の命日の日は、横須賀です。わたしは、基本、龍馬ファンなもので、この日は、横須賀で「おりょうさんまつり」があり、墓前祭に参加したり、月琴演奏を聴いたり、展覧会を見学する予定です。夕方からは、龍馬ファンの友人と、たぶん、横須賀中央の友人の焼き鳥屋「竜馬におまかせ」で飲んでます。 
お返事ありがとうございます。

吉井友実は吉井の本家のようです。

吉井仲左衛門は分家にあたるようです。

従って吉井友実と國生家から養子に入った常也とは
血の繋がらないいとこ同志ということになります。

以下父の覚書から
國生家
(父卓爾は『こくしょ』と発音していました。
鹿児島市では知られた家系です。)

鹿児島市内の古い神社の神主で
850年前頃京都の公家が養子に入り
その人は三条家や滋ノ井家の家系とのことです。
鹿児島藩士と婚姻や養子縁組が多い。
吉井仲左衛門という医者に子がなく國生家の男児を
養子とし
吉井仲之丞と名付け島津久光公の小姓となり
(西南の役の)のち吉井常也となったわけです。
文久3年のイギリス艦隊鹿児島来攻の際16歳の初陣で
薩摩藩砲兵隊にお小姓組みとして配属され、
伊藤祐享(のちの連合艦隊司令長官)等と英艦隊
に対する砲撃戦に参加。
川島景明(のち元師)も同年の友人(同じく久光公のお小姓)として参戦。
(この事件後、イギリス人と薩摩人の友情が生じた由)
両氏とは少年時代から親しかったそうです。伊東氏は3,4歳年長。


吉井常也
慶応3年、鳥羽伏見の戦いでは砲一問を指揮し
『撃って撃って撃ちまくった』と父卓爾に語っていた由。


川村影明は砲指揮をとる常也の下にいた由。

伏見戦で薩摩の砲は25門ぐらいで、
隊長野津氏(野津司令官の兄)
副隊長大山巌(常也より5歳年長)
常也は射撃の技量優秀だったそうです。
その後、長州藩に砲術教官として出張。

(このとき世話になった山形有朋から
『之以上何を望む』という書をおくられ、
四谷の借家が失火で焼けるまで扁額に入れて
飾ってあったとのことです)

薩摩の砲兵隊は日本最強で実力を示しました。
(他は肥後、佐賀、仙台藩の大砲も新式砲で
強かったそうです)
吉井常也
明治初年から10年
近衛大尉(長州に優秀な薩摩砲術を教えに行ったのは
先祖が京都系で長州人と反目しない家系のためか)
長州の人の世話で三条実美卿と面会、三条卿は無愛想だった由。

常也氏も三条卿に好感をもたなかったということです。
(蛤御門の闘いで薩摩軍と会津軍のため七卿落ちの憂き目にあった
三条卿としては当然の態度だったでしょう。)
三条卿の真面目でバカ正直で感情の繊細な性格は長州閥が利用し
易かったと聞きます。
國生家の人たちにその性格があるようです。

明治10年頃退官。(鹿児島に帰る)
一番遅くまで在京し、東京の情勢を調査する役目をしていた由。
西郷、村田への義理で参戦した面もありますが、血気に流行り
武勇に走った若者でもあったようです。

西南戦争中、前線で右肘貫通銃創、鹿児島市近辺で片足に銃創、
捕虜となる。

明治10年〜15年
国事犯として市ヶ谷鍛治屋橋監獄?入獄。

明治15年出獄
黒田清隆(筆頭参議)の姪、徳子と結婚。
(姪と結婚したら獄から出してやると言われた
が妻を養う職がないので固辞したらしいが、
最終的に清隆に押し切られたらしい)
明治16年一男 卓爾誕生
徳子 病死

 吉井友実家の分家とのこと。
 いつ頃、分家になったのかは、仲左衛門のときに分家になったのですね。
 教えていただき、ありがとうございました。

 高知に吉井勇記念館というところがあります。
 吉井友実の孫である歌人、吉井勇の記念館です。
 『龍馬伝』ブームの時、この記念館所蔵の雑誌に、吉井友実の息子も、龍馬とお龍の俗に新婚旅行と称されている霧島旅行に同行していたことが書かれていて、新聞報道されたことがあります。
 もしかしたら、ここで、吉井家の系図がわかるかもしれません。
 一度、問い合せてみたらいかがですか?
ありがとうございます。

宮中で事件が生じたときに、その原因を
起こした人が吉井勇の妻徳子だったので、勇は
離婚し、しばらく高知香美郡の山里に隠棲したと聞きます。

その時同行してくれた孝子と結ばれ、京都にでで永住
することとなりますね。


高知と京都は土佐日記の頃から結びついていますね。

もちろん土佐藩参政後藤象二郎の知遇を受けた中井弘。
大政奉還を成功させた坂本龍馬などを忘れるわけには
いきません。

私も1箇月ですが高知に仕事に出たことがあります。

ウツボのお刺身(これが甘くてうまいんです)をいただき、
土佐鶴を飲まされてご機嫌になり、もう一度飲みに来てく
ださいと言われ、『はい』と返事したのが始まりでした。
結構、いい加減な話ですね。

もうすぐ土佐鶴の新酒が出ます。沸き立つ米麹の香りが
素晴らしく、酒王の名に恥じぬ酒ですのでお勧めです。
2年前に和歌山の友人を介して、歴史研究科、鑑定家の
落合莞爾先生にお招きを受け、吉井友実の歴史的業績
についてご教授を受けました。

お礼にワインを持参、桃の苗木を植樹させてもらいました。

落合莞爾先生が最近作られた下記サイトをぜひご覧ください


http://kishu-bunka.org/
10月10日の桜州の命日は仕事が立て込んでいて
行けそうにないので昨日妻と墓参しました。

東福寺の奥にある偃月橋を渡り、即宗院の奥に桜州の立派な
墓がありました。ゆかりの横山家の方々の墓も並んでいました。

はじめての墓参でしたが、東山の山懐に抱かれた清々しい
場所で曾祖父に代わり生前の友誼と厚情に感謝しました。

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