土佐勤王党(盟主・武市瑞山半平太)についてのコミュニティ
写真:武市家の家紋(丸に柿の花)
.。.:*・゚♡゚・*:.。.♡.。.:*・゚♡゚・*:.。♡.。.:*・゚♡゜*:.。.♡.。.:*・゚♡゚・*:.。
「維新土佐勤皇史」の記述からみる武市半平太。
身長は2m近く(180cmほどだったといわれる)、すらりとした長身。顔は色白で、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。
その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。
ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。
.。.:*・゚♡゚・*:.。.♡.。.:*・゚♡゚・*:.。♡.。.:*・゚♡゜*:.。.♡.。.:*・゚♡゚・*:.。
文政12年9月27日、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)の生まれる。身分は白札(郷士格だが当主は上士に準ずるといったあつかい)である。
6歳年下の坂本龍馬とは遠い親戚にあたり、互いに「アギ(アゴの意:武市はアゴが張っていた)」「アザ(龍馬の身体にあったといわれるが、確かな事はわかっていない)」などとふざけて言い合うような仲だったという。
幼少の頃から文武に優れた人物であったといわれるが、まず武市は剣士として知られ、嘉永2年(1849年)新田町田淵(現高知市)で剣術道場を開く。この道場の門下には、後に「人斬り以蔵」と呼ばれる岡田以蔵もいた。
安政3年(1856年)には江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。江戸では勝海舟門下の大石弥太郎(土佐出身)や長州出身の久坂玄瑞など尊皇攘夷派の藩士とも交流する。
うち政治に開眼した武市は、文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成、2年後には192名が連判に参加する。
一藩勤皇に向けて奔走するが、土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋の反対に合い、とうとう武市は苦渋の決断を下す。
『吉田東洋暗殺』
文久2年(1862年)、実行犯は那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助。この事件をきっかけに、東洋派の重臣らは失脚、土佐勤王党は一気に力をつけ、土佐藩を一藩勤王に動かす。
さらに、藩主山内豊範を奉じて京に進出、武市は他藩応接役と抜擢され、他藩の志士たちと交流を深める。その一方、京では数々の佐幕派要人が『天誅』『斬奸』と称して暗殺されていた。これらは武市の指示だといわれるが、明らかなことはわかっていない。(岡田以蔵や薩摩藩の田中新兵衛らによって行われたといわれる)
同年秋には朝廷から幕府に対して攘夷催促する勅使の江戸東下に、姉小路公知の雑掌として柳川左門という変名で随行。
ところが、文久3年8月18日(1863年9月30日)に会津藩と薩摩藩が結託したクーデター、八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転。
勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。
土佐藩においても、公武合体派の前藩主・山内容堂の影響力が再び増すこととなる。
それでもなお武市は藩が再び一藩勤皇に向けて動くことを信じ、久坂らに止められるも自藩に帰国。
山内容堂への説得も虚しく、武市は9月に逮捕、投獄される。また他の勤王党同志も次々と捕縛。一年半の獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けたという。
だが、後に捕縛された岡田以蔵の自白により瑞山の罪状はおおむね決定したが、それでもなお武市は東洋暗殺を否定していたといわれる。
確たる証拠が見つからないまま、老公・容堂に慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。(享年36)
長年の心労のため堂々たる体格であった武市の身体は痩せ細り、立つこともやっとの状態だったという。そのような状態で、武市は未だ誰も為し得なかった三文字の切腹をし、介錯されるまでその姿勢は崩れる事無く立派なものだったといわれる。
辞世の詩
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:* .。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*
こんな武市さんが大好きだ〜っていう人の為のコミュニティ!!
また武市さんに関わった坂本龍馬・久坂玄瑞・桂小五郎・高杉晋作・乾(板垣)退助・後藤象二郎・岡田以蔵などなど、幕末志士について熱く語って下さい♡
メンバーの参加コミュニティ
困ったときには