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ヴィクトール・E・フランクルコミュの意味と実存

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「何でこんなことが起こるんだ」とか「何でこんなに苦しまなくちゃならないんだ」とか「こんな人生に一体どういう意味があるというんだ」という意味への懐疑あるいは有意義性について主題化することはフランクルの実存分析あるいはロゴセラピーの中心を成している。
それは1927年にドイツで出版されたハイデガーの『存在と時間』があってこそ深く見つめられるに至った存在論的次元でもあり、この書の第18節ではまさに有意義性というものについて分析されている。
いったい私たちが意味を感じるという場合の意味とは何なのか。
その正体は何なのか。
どういうふうにして私たちは意味に懐疑を覚えて絶望の淵まで行ったり、
またいかにして再び意味というものが私たちの胸の中に浮かび上がってきたり蘇ったりするのか。
この辺の事情を皆さんと深く検討できたら嬉しいです。

コメント(7)

この世に起こる一つ一つのこと、出来事だとか仕事だとか勉強だとか学校だとかいじめだとか別れだとか天変地異だとか人生だとか苦しみだとか後悔だとかあらゆる事象について私たちは実は何らかの意味をすでに常に与えた上で生きている。
もちろんちゃんとした言葉ではなく、大抵は埋もれた意識として何となく持っているだけだ。
しかしそれがある日突然、あるいはじわりじわりと動揺させられることがある。
そうなると私たちは普段特別意識せずとも意識下で何となく了解していた意味というものを主題として取り上げざるをえなくなる。
一体なぜこんな目に会うのか。
どういう意味があるのか。
意味のないことに私は襲われ、かかずらっているのではないか……
意味というものはそもそもどこに存在しているのか。
それは私たちがさまざまな事物を身の回りに見出すように、そういう事物と並んで同じ次元に存在しているものなのか。
そうではない。
単なる見回しによって発見されるだけの存在物、存在者ではない。
私たちが事物の表面をなぞるだけの見回しから、一段深い検討へと心の重心を沈めてゆく時に初めて主題化され、直面され、ながめ回されながら確認されてくるものなのだ。
何で勉強するのか。
何で学校に行くのか。
何で受験するのか。
何で大学に行くのか……

こうした意味という問題系に子供が焦点をあて始めたら、決して忙しさや面倒くささや不可解さから頭ごなしに「そんな馬鹿なこと考えてないで、とにかく勉強しろ!」と対応してはならない。
こういう問いを子供が発し始めたことはむしろ子供をより立派な人間に成長させてゆく大チャンスなのだ。
プリンシプル(格率あるいは格律)を胸に刻む大チャンスなのだ。
「自殺するのが僕の身勝手・エゴイズムだから許さないと言うんなら、
僕に生きていろと言うことこそ、お前の身勝手・エゴイズムじゃないか!
もう真っ平だ!
誰かのためだとか、何のためにとか、都合だけで口実をもうけて生き続けるなんて!
自分の中には生き続けてゆきたいほどのものもないのに!」

(三原順作『はみだしっ子』より)
「意味」とは本質的になんなのか、その核心はなにか、という問いにははっきりとは答えられないのですが、自分が生きる意味、という表現によって、非常にその人にとって大事なことが表現されているということは、たいていの場合正しいのではないかと思います。

生きる意味はなくていいとか、逆に生きる意味なんかあったら困る、という言説も、特に仏教など東洋の思想側から聞かれることはありますが、そこで問題化されている、あったら困る「意味」は、フランクルの言うような、生において最も大事な生きる意味とは意味がずれていて、実際には彼らもなんらかの意味で、それもフランクルの使う「意味」という言葉に近い意味で、意味のあること、意味のある行為を大事にしているような感じがします。
>>[5]

おっしゃるように、「人生に意味なんて渇望するのがそもそも間違いだ」とか「人生にもともと意味なんか無いよ。意味ってゆうのは人間が勝手に人生に貼り付けるものでしかないよ」というのは時々聞く言葉でもありますね。
そしてそういう言葉を聞いたお陰で重荷が降りたように救われたという意見も時々耳にします。

確かにこういう言葉も一定の助けとなる働きはあるのだろうと思います。しかしその効果は決して永続するものではなく、一時的な爽快感をせいぜいもたらすばかりのようにも僕は感じます。
「意味など無い。何をしようと勝手だし、どうなろうと構わないのだ」ということに果たして人は本当に落ち着けるのか。
僕はやっぱり人というのは自分の人生について意味を考えてしまう生き物だと思います。
>>[4]

こういう思いをいだいている人の気持ちをまさに物語の中でしっかりと形にしてみせた三原順という漫画家の立っていた感性は素晴らしく敏感で、当事者意識に満ちたものだったと、随分遅れてその漫画のファンになった僕は遅ればせながらそう感じました。

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