ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

「深〜い」本・映画・音楽コミュの邦題; コッポラ胡蝶の夢  (2007)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
邦題; コッポラの胡蝶の夢   (2007)

原題; YOUTH WITHOUT YOUTH
124分
製作国   アメリカ/ドイツ/イタリア/フランス/ルーマニア

監督:   フランシス・F・コッポラ
製作:   フランシス・F・コッポラ
製作総指揮: アナヒド・ナザリアン、フレッド・ルース
原作:    ミルチャ・エリアーデ   『若さなき若さ』
脚本:    フランシス・F・コッポラ
撮影:    ミハイ・マライメア・Jr
プロダクションデザイン: カリン・パプラ
衣装デザイン:    グロリア・パプラ
編集:    ウォルター・マーチ
音楽:    オスバルド・ゴリホフ

出演:
ティム・ロス          ドミニク・マテイ
アレクサンドラ・マリア・ララ    ヴェロニカ/ラウラ/ルーピニ
ブルーノ・ガンツ        スタンチュレスク教授
アンドレ・M・ヘンニック     ルードルフ博士
マーセル・ユーレス       トゥッチ博士
アレクサンドラ・ピリチ      6号室の女性
エイドリアン・ピンティー      学問僧
フローリン・ピエルジク・Jr   ガヴリーラ医師
ゾルタン・バトク         キリーラ医師
アナマリア・マリンカ       フロントの女性


「ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」の巨匠フランシス・F・コッポラ監督が、「レインメーカー」以来10年ぶりにメガフォンをとり、ひとりの男の世にも数奇な運命を描く幻想奇譚。原作はミルチャ・エリアーデの『若さなき若さ』。主演は「海の上のピアニスト」のティム・ロス、共演に「コントロール」のアレクサンドラ・マリア・ララ。

1938年、ルーマニア。年老いた言語学者ドミニク・マテイは、最愛の女性ラウラと別れてまで人生の全てを捧げてきた研究が未完に終わることを悟り絶望していた。自殺を決意しブカレストの街を歩いていた彼は、突然発生した雷の直撃を受けてしまう。やがて、病院のベッドで意識を取り戻すドミニク。即死してもおかしくないほどの全身やけどを負いながらも奇跡的に一命を取り留めていた。その後彼は、主治医も驚くほどの驚異的な回復をみせたばかりか、肉体的に急速な若返りを始めたのだ。さらに知的能力さえも大幅に向上していくドミニク。そんな自分に興味を示すであろうヒトラーの手を逃れるため、スイスへと亡命するドミニクだったが…。

以上が映画データベースの記述である。

原題は『若さなき若さ』であり、邦題は本作の中で主人公が自分の生涯、なりゆきの不思議さを荘子の説話「胡蝶の夢」に例えるところから採られていて、本作を見終わって思い返してみると単によくある幻想奇譚として処理するにしても奇妙な物語だと思う。 それは話と映画を様々な角度から観てそういうのであって、話の奇妙さと映画との出来をどのようにとればいいのか困惑するといような性質のものでもあるだろうか。 こういう映画をどうみればいいのだろうか。 

現代では「若さ」という言葉がある種のキーワードになっているのはメディアや日常世界のあちこちで見られるたり話されたりすることからみても明らかだろう。 いや、現代には限らず昔からそうであったにちがいない。 それは、人は必ず死ぬ、という厳然とした事実に拠るのであって、その事実の前でつまるところは自分を失いたくない、もしくは失ったものを取り戻したい、取り戻せなければ今のままを保ちたい、ということなのだろう。 そしてそのなし崩しの事実を結局どのように受け入れるか、いかに先送りにするかか、という方策に我々は苦慮し翻弄され生涯を終える。 一方、仕方がない、それが人生だ、なるがままに、任せる、という視点に立つとそういう営為は無駄なこと、是非も無い、ということにもなり、このような話はまったく荒唐無稽なものになるのだろう。 

しかしながら一方、将来の科学技術を期待して自分の体を冷凍して保存、現在の死を「将来に任せた暫定的な死」としている人が実際にいる、とも聞く。 だからそういう日が来るとなるとここでのファンタジーが現実のものになりえるのだが、そこでもし蘇生できたとなるとその生のあと「次回の死」の際にも既存の技術を使ってそれを第二の「仮の死」として、、第二回目の蘇生を待って、、、と究極の不死を目指すに違いない。 その可能性もないとは言い切れないだろう。 この200年ほどの科学技術の加速化をみれば想像できることだ。 しかし、それでも「仮の死」から蘇生した人は蘇生するまでの間に自分が不在だった時間を失っている。 その失った時間を手に入れる方策をどのようにするのだろうか。 それを取り戻す、自分の世界を失わないで居続けることはできるのだろうか。 今のところ人は最長120年ほどのスパンの中で生涯を終える。 時間の限られた中で我々はそこにどんな意味を持つのだろうかと考えてきた。 その深浅を考慮してもその営為が哲学というものだろう。 つまり、自分とは何か、世界とは何か、それをどのように捉えるか、ということだ。 その時間の枠組みが揺れたとき人は困惑する。 

日常のファンタジーであれば今までに罪の無いコメディー仕立てなどですでに幾つもそのジャンルのものもつくられているだろう。 自分が本作をもてあまし気味だと感じたのはこの舞台の時代と主人公だ。 時間の歪みを時系列で経験した男と失った愛を自分の語学的才能で取り返せたと思ったとたんに「運命」にしっぺ返しをされ愛も自分も失ってしまう。 それを我々はどう観るか、というところでの戸惑いだ。 単なる幻想奇譚としていささか据わりが悪いような、といってもいいかもしれない。

この監督の作品ではこういうことは過去にもあったのではないか。 記念碑的な「地獄の黙示録」という作があり、それは決定稿に至るまでなんども編集をくり返したと聞く。 そこでは主人公とおぼしきトリックスターが河を遡り原始に近づきそこに千年王国を築いた実質的な主人公のマーロン・ブランドが闇の寺院の中でつぶやく自己韜晦的、もしくは哲学的、または衒学的な言動に行き当たるというものでその部分は奇妙に感じたものだ。 更に、その部分を巡って編集が繰り返されたとも仄聞する。 そのことを本作の或る部分で思い出したのはそのようなブランドの「つぶやき」が甦ってきたようにも感じたからだ。

コッポラのこの二作を想うのは本作が地味なつくりになっているから「地獄の、、、」で示された派手な装いと比べると対称的ではあるが底には同じ根が張り付いているのではないか。 その根をどう捉えるのか、ここでの設定、おはなしをどう受け入れていいのかと困惑ぎみに自分に残された約30年余りの時間のことを自分の過去と絡めて想ってみるのだが困惑は収まりそうにない。

コメント(1)

私もこの作品は記憶に強く残っています。
生きている間に、おそらく何度か観返すことになると思います。

素敵な日記ですね。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

「深〜い」本・映画・音楽 更新情報

「深〜い」本・映画・音楽のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング