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東谷隆司コミュの死んだ男や女の残したものは

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写真
左:展覧会「徳冨満 plus minus infinity」小山登美夫ギャラリー、2006年7月
中:徳冨満 plus minus infinity 2001 (作品部分)
右:本田美奈子「アヴェ・マリア」、2003



「死んだ男の残したものは」作詞:谷川俊太郎、作曲:武光徹
(どこの合唱団か知らんが、決して上手いと言えない合唱が、もの悲しさ倍増!)




元管理人です。
というか、東谷です。

ここのところ、ちょくちょくこのコミュに入ってくれている若い人に会う機会があるのだけど、そのたびに、「アズマヤさん、熱いっすよねー!」とか、「パンク」とか「ハードコア」とか言われることあるんですが、実際の私と接してる人はご存知の通り、私、「冷めっ冷め」でございます。

一昨日もあるアーティストからmixiのどこかのコミュに、僕のことを「地球一熱い男!」とか書いてあったと報告あったんですが、そんな人間いたら、家全焼してますわ。
会った人、全員全身火傷です。人に迷惑かかるから、おちおち外も歩けません。

多分、そんなイメージは、確かに私がハードコアのバンドやってた過去があったり、現在でも真剣に制作に燃え燃えなアーティストとの仕事が多いのも手伝ってると思うんだけど、そんな人たちの温度調整するのが、私の仕事。
一応、にぎやかで熱いのだけでなく、静謐な展覧会も出来ます。

その証拠に、ご覧ください! 左の写真を!
どうですか?!
この静謐にしてスタティックな展示!
レパートリー広いでしょ?!

この写真は、2006年7月に小山登美夫ギャラリーで開催された「徳冨満 plus minus infinity」の展示風景。

Mxi内告知、1
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=8494300&comm_id=1022419

Mxi内告知、2
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=8544154&comm_id=1022419

普段、僕はあまり自分の企画した展覧会や出演するイベントなどの告知を自分ではあまり積極的には告知しない方だ。
というのも、中学時代からバンドやってて、しかも高校の頃は、自分で会場押さえて自主ライブみたいなのも企画してたから(まぁ、今のような仕事ですな)、そのたび、校内の可愛い女の子とか、特に見に来て欲しい友人に宣伝すると、「絶対に行く!」って言った人に限って、必ず当日にバイトが入ったり、急用が出来て、会場には来ない、という法則を知っているからだ。

実際、このコミュでDJのお知らせなんかすると、「行きます」ってレスをくれた人の9割は来ないことを知っている。
なので、「行きます」と書いた人は「ああ、この人は当日、『急用』が出来るな〜・・・」というのは経験則上、知ってるので、まぁ、期待してません。
このへん、イベント企画をやった経験のある人はだいたい同じ感覚を持ってるんじゃないでしょうか。

しかし、そんな僕がこの徳冨展だけは日記でも、コミュでもしつこく告知してたのには、ちょっとした理由がある。
というのも、この徳冨満というアーティストは、2001年に白血病で35歳で死んでいること。そして、今まで、あまり表立って言わないようにしてたんだけど、この徳冨は大学の学年では3コ先輩ではあるものの、一つ年上なだけで、僕が大学に入ったと同時に、一緒にバンドをやったり、在学中は、さんざバカなことを一緒にやった男だ。
一応年上ではあるので、彼が35歳で人生をストップしてからも「徳冨さん」と呼んでるし、僕に多大な影響を与えてくれた人だから、「親友」とは呼びづらいものの、"Best Firend"であったことは間違いない。

彼は僕が学芸員になって1年目くらいのとき、アーティスト活動に専念するため、ロンドンに渡ってしまった。
その前に一度会おうということで、彼の地元でもある名古屋の居酒屋で呑んだのだけど、その時、自分がもともと「アーティスト志望」だったのに、「学芸員」として少ない額ではあったけど、毎月給料をもらって生活していることに恥ずかしさというか、後ろめたい思いがあった。

そんなことを率直に話せるのは、彼だけだったのだけど、彼は僕に「お前は必ずしもアーティストにならなくても、成功するよ!」と励まされた。
その後、彼が渡英してからも当時はメールがなかったので、ちょくちょくファックスで通信しあっていた。
しかし、彼はもともと寡作ではあったし、ロンドンでの孤独な生活のストレスから、精神的にも身体的にも衰弱しつつあることが文面からはっきりと読み取れた。

僕は徳冨さんを素晴らしいアーティストだと思ってたし、なぜ彼がそこまで自作のクォリティにこだわり続け、展覧会のオファーもすべて断り、制作も遅々として進まないのか、正直歯がゆかった。

そうして何年かして、2000年の終わりに彼が白血病に侵されたことを知った。
早期発見が幸いして、最初は一端回復に向かったと聞いて、安心していたのだが、再発の知らせを聞いたときはショックだった。
その後の闘病での治療に一縷の望みを託しながら、それらは全て失敗し、ロンドンの主治医から「このままでは、二度と故郷に戻れないかもしれない」という告知を受け、名古屋の病院に入院した。

その頃、僕は、一回目の横浜トリエンナーレの準備で忙殺されていて、なかなか名古屋まで見舞いにいけなかった。
しかし、いよいよ無菌室に入り、面会謝絶になると聞いて、2001年の8月に、昔一緒にバンドをやってて現在も音楽活動をしている友人とともに、見舞いにいった。
その時、彼はもう起き上がるのも苦しい状態で、以前の明朗で、快活な彼の性格からは考えられないような口調で、それでも「おー、送ってくれたカタログ読んだよ。すごくよかったよ」と伝えてくれた。当時、僕はすでにアーティスト志望というよりは、もうキュレーターの端くれになっていて、彼はその活動を誉めてくれた。

その時の会話をほとんど覚えていないのだが、ひとつ覚えているのは、僕は何を話していいかわからなくて、「早く病気なんか治して、俺のキュレーションで個展をやろう! 打ち合わせをやろう! ね! 退院したら、まず打ち合わせだからね!」と、そればかり口にしてたことだ。

それから2ヶ月後、徳冨満は死んだ。

横浜トリエンナーレの仕事で忙殺されていた上に、この知らせは正直、僕にとっては、かなりのダメージだった。実際、横トリの仕事のあとは、精神的なおちこみから、1年間、神田にある美学校で週1度の講義をやるのと、原稿仕事以外はすべて断っていた(僕は27歳の時、もう一人、高校時代の美術部の同級生の親友をやはり血液の病気で失っていた。そいつは金沢工芸大を出て大手自動車会社のデザイン部に就職したが、優秀なインダストリアルデザイナーであった彼も、骨身を削ってデザイン画を描いていて、そのことが身体にたたったらしい)。

ほぼ無収入に近い1年間を過ごしたときに、森美術館からオープンのスタッフにならないか、というオファーを受けた。
もうそろそろ、現場に復帰してもいいだろうという思いで契約を結び、2年弱、務めたのだが、「GUNDAM展」のゲストキュレーターの仕事の誘いがあり、その仕事に専念するためにも、森美術館を退社し、インディペンデント・キュレーターになった。
それまでも、フリーの時期はあったけど、僕が本格的に、「インディペンデント・キュレーター」なる看板を揚げたのは、それからだ。Independentとは、「独立」という意味だから、いくつか美術館勤務も経験したし、独立するリスクも解っていたけど、突っ走るのは、30代のうちだろうと思ったからだ。

そして、2006年、急に小山ギャラリーで、徳冨展をやるという話を聞き、僕は、無償でいいので、キュレーターに任命してほしいと懇願した。
ただし、このときの僕が提示したギャラの金額は、「∞円」、つまり「0円」ではない。
徳冨との友情を金額に換算することの方が難しかったので、「∞」(無限大=infinity)の価値を、円に換算する方法が確立していない以上、金銭の授与は一切断った。
なにしろ、病床にあった彼との約束を果たす滅多にない機会だったし、彼がロンドンに行ってから、どんな活動をしていたのかを理解したい気持ちもあったから。

正直、この展覧会は小規模ながら、今まで経験した展覧会の中でもかなりハードな仕事だったと思う。
まず準備期間が2ヶ月を切っていていたこと(通常、展覧会は最低でも準備期間に1年、小規模でも半年を必要とする)。
そして、なにしろ、作家本人が、この世にいない。

活動歴や彼の生い立ちから作品の経緯などを残った資料と関係者のインタビューからしか彼がどんな思いで制作活動に没頭していたのか、知りえない。
しかし、ちょうど、その頃、幸か不幸か、愛知の会場で「GUNDAM展」の巡回が重なり、名古屋にご在住のご両親と愛知のビジネスホテルで毎朝からインタビューをし、午後から「GUNDAM展:愛知特別展」の現場に親御さんの車で直行し、夜にホテルに戻ったら、ロンドン時代の関係者から電話でインタビューを行い、それをすべて筆記していた。

だた、問題だったのは、眠ろうとしても眠れないことだった。
なにしろ、徳冨は生前2001年に小山ギャラリーで奈良美智さんが企画したグループ展「Morning Glory展」で小ぶりな作品を発表しただけで、まったく無名に近いアーティストである。しかも、既に無菌室からの外出を禁止されていた彼は、最後に到達した自作の展示風景を自分の目で見ることは叶わなかった。
つまり、無名の作家を紹介するとき、僕のカタログの文章ひとつで、彼の人生や彼が追い求めた課題がいかに「究極的」であったか、そんな彼の努力が誤解されてしまう恐れがある。

その恐ろしさから、カタログの文章を書いているときは、1週間近く眠れず、よくて睡眠時間3時間の日々が続き、いよいよカタログの原稿を入稿する12時間前には、その時点で一文字も書けてないにも関わらず、案の定、部屋の中で倒れた。ホテルから救急車で運ばれ、強烈な安定剤を筋肉注射してもらい、3時間ほど久しぶりに深い安眠をとった。

しかし、病院を後にしてホテルに戻ってから、不思議なことが起こった。
勝手にPCのキーボード上で、僕の指が動き出したのだ。今まで、まったく書けなかった原稿だったのに。
これには、正直、自分でもビックリしていた。いくらでも書ける。しかしも、カチャカチャとPCのキーを叩いていたら、「いいね〜」とか、「あ、それ、違う」って徳冨の声が聞こえてきた(これ、本当)。

そして1万文字の原稿を一気にアップして、予定時刻だった翌日の13:00ジャストに、翻訳者に送った。
こう書くと、まるでオカルトなのだけど、今思えば、徳冨が死を前にして、それまで延々と未完成(infinite)だった作品を焦って病室に持ち込んだiMacの中で整理し、必死で作品スケッチのデータ残そうとした心境の一部に共鳴できたのかもしれない。
今では、僕は、彼がそこまで苦しんだ気持ちを理解しないまま、文章を書こうとしていたこと自体が間違っていたと思っている。

文章は稚拙だったかもしれないし、展示も細部まで気を配ったつもりものの甘いところはあっただろう。
しかし、それがお客さんに不満だったとしたら、それはその時点での僕の限界だったからに他ならない。
徳冨は、自分の個展がどうアレンジされようと何も言えない状況にいたのだから。

出来上がった展覧会の詳細は以下(英語)
http://azumaya.i-elements.net/past_exhibitions.html

辛い展覧会だったし、カタログ制作も辛かった。
しかし、その時、僕はカタログの編集方針として、まず、サイズがハンディであること、そしてまず英語を先に持ってきて、図版を充実した4色ページで見せることに専心した。

それが今、最近、幸いな結果へと結びつきつつある。
なんと、今、僕が関わっている「2008釜山ビエンナーレ」の出品者の一人として、徳冨が選出され、今年の9月6月から11月15日まで、彼が残した作品が韓国で展示されることになったのだ。

一人息子を失ったご両親が喜んだのは言うまでもないが、僕も心底嬉しかった。
「彼は僕の友人です」などとは、会議では一言もいっていない。ただ、淡々と彼の作品図版を見せて、各キュレーターに2006年に制作したカタログを配布しただけの話だ。そんな僕との友情関係など、展覧会というビッグビジネスには、まったく作用しないことくらい知っているし、徳冨だって、「友人として」と言ってプレゼンされることなど好まなかっただろう。
だから、あくまでフェアなプレゼンだけで、小品ではあるものの、彼が到達した作品や、死後発見された絵画に、彼が追い求めた課題が、今回参加しているキュレーターチームの心に響いたことは、嬉しかった。

なお、その2006年の徳冨の展覧会のタイトルは、彼自身の作品「plus minus infinity」から取っている。
さらに、ちょうど、そのカタログ原稿がアップしてすぐに、『美術手帖』から依頼されていた、「ゼロゼロ・ジェネレーション特集」の記事を書き上げた。
それが、以下の記事だ。

東谷隆司「∞ジェネレーション/ Generation Infinity」、『BT美術手帖』2006年7月号、pp.117-119
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26579495&comm_id=1022419

僕はこの記事でも書いたけど、多数のアーティストをまるでラーメン店の紹介みたいに、雑多に紹介する特集には抵抗があった。
しかし、何人かの識者の文章が続いた後の特集最後のページを頂き、「この特集の趣旨自体を否定するかもしれませんよ」と編集者との了解を得た上で、執筆を了解した。
ここでも、「∞」(infinity)と言う言葉を使っているが、もちろん、これは徳冨の先述の作品タイトルから引用したものだ。


昨今、日本はアートバブルだと思っている。
村上隆氏の努力によって、日本の美術が海外のマーケットにも乗るようになり、今、そこそこの絵画作品なら、商業ギャラリーで陳列された「日本人の作品」だったら、確実に売れる。東京アートフェアが活況を呈しているのも、そういう理由だ。
ただし、往々にして購入した人たちは、もう少し値段が上がったところで、オークションにかけるケースが多い。
最近報道されたように、村上隆氏の作品が法外な値段で落札されたというが、最初に小山ギャラリーがもっと小さなスペースだった頃、それは数百万で売られていたもので、転売のたびに上がっていく金額はまったく作家にもギャラリーにも還元されない。儲けているのは転売者であり、オークション会社だ。

さらに言えば、今、日本の作家の高額な絵画を買っている人たちのほとんどは、日本人ではない。少し前はアメリカ人、現在は、ほぼ投機目的の海外資本家か、アジア圏の新規美術館である。
例えば、80年代の日本がそうであったように、主にアジアの上海やシンガポールなど、現在美術館建造ラッシュが起こっている国々の美術館が日本人作家の作品を購入している。

日本の美術館の場合、教育委員会の傘下にあるので(国立美術館をのぞく)、例えば、その年に購入する美術品の予算や選定は、昨年度の夏から秋に決定される、作品購入予算の中からしか買えないし、アメリカのように、選定眼について一任されているキュレーターが、「このギャラリーにある作品、全部うちの美術館で買い取ります」と即断することは日本の美術館状況では不可能だ。
さらに、美術雑誌やアート業界関係者が煽り立てた、「アートコレクション・ブーム」の今、高額な作品に手が届かない人は、若いギャラリーが売っているような小ぶりな絵画を買う。
ただし、日本の美術館は今、コミッションワーク以外では、滅多に収蔵作品を買わない。
購入予算がないから。

言ってみれば、今、金銭の対象となっている作品の多くは、投機の目的か、多少お金に余裕のある若いサラリーマンやOLの部屋に飾られる「インテリア絵画」である。
極端に言ってしまえば、一時期色眼鏡で見られていた、ヒロ・ヤマガタの作品と、さして違わない。商売の仕方こそ違うけれども。

僕自身は、こういった同時代の作家が売れることは、作家にとっては収入にもなるし、喜ばしいと思う反面、その後の作品の所在もつかめないコレクターの手にわたり、それらの作品が公に発表されないことについては、ディーリング(売り買い)を専門としないキュレーター(作品を広い層に公表する立場)としては、かならずしも納得のいくものではない。

僕が、「∞ジェネレーション」(Generation Infinity)という記事を書いたときに念頭にあったのは、徳冨のことであったことは間違いない。
彼は生前にほとんど作品を売っていない。しかし、本人が死んでいるのも関わらず、2006年には、東京で個展が、そして今年には、国際展で彼の作品が展示される。もちろん、彼の遺族にもなんら収入はない。

しかし、徳冨は、自分の作品が公開され続けていくことを喜んでいるのではないかと思う。彼は美術がコマーシャルな世界に染まってしまい、それに巻き込まれるのを嫌がっていた。
彼は自作を同時代の人たち見てもらうだけでなく、彼自身が死んだ後の歴史という無限大の時間軸における不特定多数の人々にいてもらい、自身の思索や寡作であったという事実、そしてそのあまりに真摯な姿勢が彼自身を蝕んでしまったという事実を、見つめて欲しいんだと思う。少なくとも僕は徳冨に課せられた課題を背負ってしまっている。
だから、僕は最初に彼の個展を手がけた人間としても、彼の作品については、一生責任を持つと同時に、真剣に向き合いたいと考えている。


ところで、なぜ、いまさら、こんな話をここに書いたかというと、昨日、徳冨と同じ病気で38歳でこの世を去った本田美奈子のCD「アヴェ・マリア」(2003)を買って、本気で感動してしまったからだ。
http://www.amazon.co.jp/AVE-MARIA-%E6%9C%AC%E7%94%B0%E7%BE%8E%E5%A5%88%E5%AD%90/dp/B00008Z6RW/ref=pd_sim_m_img_12

それはまだ彼女が病気になる前の作品だし、当時は、「アイドルがクラシック路線に走った」という色眼鏡で見られていたものだった。
しかし、その歌唱力、骨身を削るような歌に、もはや言葉では説明できない、なんともたまらない感情を掻き立てられた。
彼女はクラシックの正等な訓練を受けてないにも関わらず、あるいは受けてないからこそ、独自のソプラノ唱法を体得したのだろう。

基本、「ライフストーリー」と作品のクォリティには直接の関係はない、とは思っている。
しかし、そのCDを聞いただけで「この人が早死にしたとしても無理はない」という気持ちにさせられた。
確かに、J−POPとクラシックを掛け合わせたものだから、クラシックファンには納得のいくものではないだろう。しかし、一人の人間が、魂を削って表現するとは、こういうことなのだと、その歌声を聴いて再確認した。
こういったアーティストの存在を知っていて、どうして、インテリア絵画やBGMにしかならない音楽に興味を持てばいいのか、わからない。


ここのところ、このコミュの話題は、尾崎豊とか、「死」にまつわる話題が多いように思う。
恐らく、それは、多分に、僕自身が徳富と言うアーティスト/友人を失くしたこと。そして、彼が僕に言った「お前は必ずしもアーティストにならなくても、成功する」という言葉が僕にとっては、ひとつの精神的な礎になっていることが関係しているのかもしれない。
しかし、一方で、そんな話題についてきてくれるメンバーがいるアート系のコミュなど他にあるのだろうか?
だから、僕はこのコミュのメンバーを少なからず、誇りに思っている。

僕は、40歳にもなって尾崎を聞いてるダサい奴(まぁ、実際は部屋ではクラシックばっかり聞いてるんですが)、本田美奈子なんかを持ち上げてる、「洗練されてないキュレーター」と言われてもかまわない。

しかし、「アーティスト」という「肩書き」だか、あるいは「態度」なのかはわからないが、その場その場の売り上げで満足しているような人たちを相手にするつもりは全くない、ということだ(かくいう、僕もたまに小ぶりな絵を買ったりしてるんですけどね。でも、それは仕事とは関係なく、あくまで趣味)。
これは、別に熱くなって書いているわけではない。今も本田美奈子の美しい歌声を聞きながら、実にフラットな気持ちでこの文章を書いている。

亡き人が残したものを今現在の我々が共有できるように、僕らはこれから生まれ来る未来の人たちに対しても、この時代を生きた人間の正直な気持ちの証として残す必要もあるだろう。
実際、僕自身、今はまったく収入がない。しかし、もし、僕が死んだあとで、「あいつの展覧会を見たことあるんだけど、けっこう面白かったよ」と、若年の人が、飲み屋の席でもポロッと言ってくれたら、僕はそれだけで満足だ。


でも、そのためには、熱さや勢いにまかせて、行動してはいけない。
だから今は、本当に、自分が何をやるべきかを考え、真剣に行動しなければ、という責任をひしひしと感じている。
ま、人に言わせれば、「そんなことぁ、勝手にやれば?」という意見はごもっともですが(笑)


で、最後に告知を一発。

多分、そういった「死」とか、「究極」に関連してしまうであろう、「私の」個展を6月20日―28日までやります。
http://azumaya.i-elements.net/topic.html

今は、その準備とキュレーター仕事の同時進行で、おおわらわ。
でも、結果出したいと思ってます。
ただし、「軽やか」な展覧会にはなりそうもないことだけはご勘弁を。
よろしくです!

コメント(1)

本田美奈子、自分も好きです。個展されるんですね、必ず行かせて頂きます ☆☆

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