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2020年07月24日20:35

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「自由」「平等」「博愛」の順序で考える「やまゆり園事件」「三浦春馬氏」との違い

■患者女性「安楽死許して」=ブログなどに赤裸々な内面―医師嘱託殺人
(時事通信社 - 07月24日 07:30)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6169353

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私見もよいところだが私見を語る場所なので私見を語る。

まず「自由」その人の意思は基本的の尊重されるべきということ。ただし、行き過ぎて他人の自由を侵害してはならない。ゆえに「平等」という発想が来る。かといって単なる平等では救われない弱者がいるのでそこをフォローする努力目標としての「博愛」が来る。

・・・と勝手に思っている。

今回でいえば本人が死にたいと意思表示ができたこと。にもかかわらず三浦春馬さんのような事例と異なり、本人に死ぬ能力すら残存していなかったこと。自殺ほう助は罪に問われる日本でそれを行ってしまったことという残念さ、難しさがある。

かつてのやまゆり園事件が論外なのは「本人がそれを望んでいないのに勝手に第三者が自分の価値観をおしつけたことなのであって、本人が「死にたい」というか「生きたくない」と明確な意思表示をしたのであればかなり話は変わってくるように思う。

一方で私は一つ前の記事で三浦春馬さんが自殺という手段を選んだことは悪しき行為として糾弾すべきと書いた。「三浦春馬氏は糾弾しながら、この安楽死については糾弾しない矛盾は何か?」という命題に向き合うこととなったので考えながらこの記事を書いている。着地点を考えずに考えながら書き始めているのでアチコチ矛盾があるのはご容赦されたい。

「それだけ苦しいなら行きたくないと望んでも仕方ないよね」と周囲から「共感同情を得られるか」どうかなのだろう。

三浦春馬氏の場合は彼がどれだけ悩んでいたのか?苦しんでいたのかが見えてきていないので「死ぬのは愚かで周囲の人々を悲しませ苦しませる愚かな行為」と断じやすかった。一方で今回のALSの方の記事は自分自身や自分の近しい人間がこの状況になったら「死にたいと持っても仕方ないよな」と思えてしまうということなのだろう。

いずれにしろ、亡くなった方のご冥福をお祈りする。
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