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2015年02月22日18:09

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稲が来た道、八重山諸島へ

明日から5日間、八重山諸島に旅行に旅行に出かける。
昨年に引き続き二回目の訪問で、今回は与那国島まで足を伸ばせというのが、女房殿の御下知だ(前回は日本の有人島の最南端(波照間島)に出向いたから、今回は最西端という訳だ。変な趣味!)。

京・大阪から那覇は直線距離でザッと1200km、那覇から石垣は約400km、旅の目的地与那国はその石垣からさらに約120km、実に私奴の居所から与那国島までは1700km強もある(あと120kmほど西に行けば台湾だ)。

ここ3・4日ほどは、「前回は思いつきの観光旅行だったが、今回は予備知識を仕込んでの少しばかりマジな旅を!」と考え、当地の地図や地理・歴史・文化情報とニラメッコしながらの宿・フライト・レンタカー等の手配を整えながら、司馬遼太郎『街道をゆく 沖縄・先島への道』他を読んでいた。

 「柳田の『海上の道』によれば、稲は沖縄の島々をつたって本土に来たという。(中略)
 稲と稲作と稲作による思想が、日本の四百の島々の社会を存立させてきた決定的な要素で
 あることはまぎれもないことだが、これがどういう経路でやってきたかということで、柳田国男
 が明快にいうように、民族の起源も仄明るくなるということが、言えるかもしれない」
             −−−『街道をゆく 沖縄・先島への道』ーーー

司馬さんは、1974年4月石垣への飛行機の中で柳田國男の『海上の道』を思い浮かべて、柳田の仮説をかなり肯定的に受取った上で、石垣・竹富・与那国を見て回ったようだ。

司馬さんの本を読み終えて思い出したのは、昨今の説では、「稲の・稲作の日本への伝来は、朝鮮半島ルート(北方ルート)、中国江南から黄海を渡るルート(南方ルート)、南西諸島ルート(海上ルート)」の3ルートがあったハズとの記憶。(事実、民俗学的にはどうだか知らないが、柳田國男の死後、稲伝来ルートとしての海上の道仮説は、かなり下火になっていたハズ)

「どうなっているのやら?」との疑問のお陰で、昔、農学研究科に居候していた頃に手に入れた『稲のアジア史』(稲作についてアジア全体を視野においた学際的な研究をまとめたもの)にまで手を伸ばして読み漁る結果となった。読んだ内容の詳細に渡り、かつ、むづかしい学者論議をさけて大雑把に書くと、『稲のアジア史』の中で、責任編集を担った渡辺忠世さん(専門は作物学)は次のような説を述べている。

*稲・稲作の3ルートの内、朝鮮半島ルートおよび中国長江からのルートでの伝播は、主としてジャポニカ型の水稲作物であり、その時期は縄文後期・弥生期であったろう。
*他方、南西諸島ルートによる(柳田國男が言った「海上の道」)伝播は、ジャバニカ型で陸稲的なもの(半作物的なもの)で、その時期はいつとは言い切れないが上記2ルート伝播以前の、より古い縄文期であったろう。

  「このような諸研究を通じて、古くに南方の諸地域、沖縄と奄美のいくつかの島々そして日本
  本土とを結ぶ伝播の道が存在したことに確かな証拠があるように思われる。この稲が「水陸
  未分化稲」であり、ジャバニカの系統の種類であったことも付言を要しない。」
               ーーー『稲のアジア史』第3巻序章 渡辺忠世ーーー

要するに、今日、縄文後期・弥生時代をかなりさかのぼる時代より日本人は米を食していた(他の雑穀などと共にだが)ことが定説化されつつあるが、弥生期以前の古き縄文期に食されていたのが、「海上の道」をたどってきた米だということになるか。

やはり、柳田國男の詩人にも似た嗅覚が生んだ『海上の道』は、実在していると言えようか?


PS: もう一つ、御承知のことと思うが、気になる話題。
与那国島では、賛否の二派に分れて論争が続き、小さな島が大揺れにゆれているとか。
まさに、今日今現在、陸上自衛隊沿岸監視部隊の是非を問う住民投票が行われている。
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