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2023年12月23日23:19

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理性的なるも味気なく、野性的なるも逸脱

理性
(論理・規律・アポロン・分析=アナリュティケー・
 真・善・美・聖・戒律・ラティオ・道徳)

真面目だが
面白みがない。

野性
(意志・熱情・ディオニュソス・弁証=ディアレクティケー・
 偽・悪・醜・俗・経験・パトス・本能)

エネルギッシュだが
破壊的だ。

理性偏重は
衰退し

野性偏重は
破滅する。

野性のエネルギー

理性の制御系

いいとこ取りが
ベスト。

ただし
それは
言うのは簡単だが
実際に
そのバランスを保つのは
意外に
至難の業。

誰もが
どちらかに片寄って
失敗する。

超絶難問ゆえの
ウルトラQ(Q=question)。

だからこそ
チャレンジし甲斐がある。

理性的なる野性

野性的なる理性。

どっちがベスト?

或いは
第三の道があるか?

野性(自然または本能のままの性質)だから
駄目なんであって
野生(動植物が自然に山野に生育すること、また、その動植物)なら
何ら問題は無いように思える。

けれども
理性は
野生(自然に山野に生育する動植物)も
否定する。

そういう理性は
批判されるべきだ。

だが
野生から見て
理性を全否定すると
また失敗する。

だから
ウルトラQ(超難問)。

人間にとって
理性と
野性は
どちらも実在だ。

どちらも
消すことができない。
拒絶できない。

しかも両者は
絶対に相容れない。

理性はどこまでも
野性を「無」に帰したがる。

野性はどこまでも
理性を「邪魔」と感じている。

どちらも真実で
実在だから
このどちらかを否定すると
途端に
リアリティーを失う。

リアリティー無き理論は
空虚だ。

実効性が無い。

未来形成的思想は
リアリティを保った思想
でありたい。

リアリティの無い思想には
誰も賛同しないだろうからだ。

理性にして野性
或いは
野性にして理性
そういう実在こそ
リアリティだ。

論理的には
不可能でも
現実的にも
不可能でも
奇跡的に実在する可能性が
ゼロだとは
誰も言い切れない。

実在した
その時が
リアリティの
到来時だ。

そういう瞬間は
歴史的に
何度も起きている。

これからは
もう起きないとは
誰にも言い切れない。

野性を否定する理性と
理性を否定する野性の
二重存在体(Doppelwesen)のみが
真実在。

中途半端な否定では
リアリティが無くなる。

理性を完全否定せんとする野性と
野性を完全否定せんとする理性の
壮絶バトルだけが
リアリティ。

存在の超絶困難な
存在すべきもの(当存者)は
互いのプライドをかけた
絶対に譲れない者同士の
尽きる事なき闘いのプロセス。

互いの否定性が
どちらかの否定性に負けた時
リアリティもまた
消える。

真実在とは
そういう存在。

だから真実在は
決して対象化されない。

対象化されている
という事は
決着が着いたという事であり
それはリアリティの消失した状態なので
真実在ではない。

理性と野性
(互いが他を全否定する二原理)
の「共存(併存)」
としての
真実在を
人類が共有する時
本当の未来社会が
現実化するだろう。

ただし
実現は
気が遠くなるほど
困難だろう。

なぜならば
理性にとっても
野性にとっても
自分自身を完全否定される事は
絶対に避けたい事だからだ。

けれども
理性も
野性も
一度完全に否定される瞬間が
来なければならない。

なぜならば
本当のリアリティは
理性も
野性も
どちらもが一度
完全に
白旗を挙げる段階を
経験する事なく
相手を心底認めることには
ならないからだ。

人間の根源的二原理が
互いが互いを
全否定する経験
こそが
外的には
啓示経験であり
内的には
悟り経験だ。

こういう経験への道

人類の課題として
また
一人ひとりの課題として
毎日追求すべきことだと
思う。

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最終更新
令和5(2023)年12月23日 23時55分
令和5(2023)年12月24日  6時31分
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