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2022年05月04日00:31

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キリスト教教義史概説〈下〉ヘレニズム的ユダヤ教からニカイア公会議まで カールマン バイシュラーク 教文館 1997年2月10日

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p.160
ロゴス神学のプラトン主義に対抗して養子論者はアリストテレス的であり、様態論者はストア的である。
p.161
パウロスをロゴス神学を借用した真の養子論者と見なす(G. Bardyと他の人々)か、あるいは――たんに養子論的に補強された――経綸的‐三位一体論的傾向の代理人と見なすか、との問題は本質的に右のことにかかっている。後者は、その論敵の(切りつめられた)オリゲネス主義に対して、まじり気のないロゴス‐アントローポス・キリスト論をもって対抗しようとした(K. Schaferdiek, ³RGG V, Sp.191を見よ)。この場合特殊な問題を形づくっているのは、「ホモウシオス」(同質)なる概念が、パウロスの側から使用された(この見解をとるのはHilarius, De syn. 81である)のか、それともパウロスの論敵の側から使用された(Athanasius, De syn. 41ff.; Basilius, Epist. 52, 1)のかという問題である。
p.176
この「ヒュポスタシス」の概念は東方ではπροσωπον(persona)の意味で理解され、聖法では「スブスタンチア」(つまり「ペルソナ」と区別されて――本書三三−三四ページのテルトゥリアヌスの叙述を見よ)の意味で理解された。その結果、「ヒュポスタセイス」というギリシャ語の複数は許されざる二神論、三神論の臭いを嗅ぎつけられた(この問題についてはHarnack, DG II, S.179; Seeberg, DG I, S.424f., Anm.2; S. SchloBmann, Persona und Prosopon im Recht und im christl. Dogma, ²1968, S.76ff. u. 118ff.同じくH. Dorrie, Hypostasis, in; Platonica Minora, 1976, S.13ff., bes. S.52ff., さらにE. Hammerschmidt, Die Begriffsentwicklung i, d. altkirchlichen Theologie zwischen...Nicaa, 325, und...Konstantinopel, 381; ThRev. 1955, S.145ff.を参照)。
p.184
(200) この問題に対して偏見のない証明を提供しているのは東方教会の神秘主義の歴史である。エヴァグリオス・ポンティコス(これについては、RAC VI, 1088ff.のC. GuillaumontおよびViller-Rahner, Aszese u. Mystik i. d. Vaterzeit, 1939, S.97ff.)から発して、ニュッサのグレゴリオス(Elert, Christologie, S.45ff., Wendebourg, Geistoder Energie, 1980, S.241f.およびDorrie, RAC XII, 880ff.を参照)とビザンティンの神秘主義者(概観を提供しているのは、H. G. Beck, Kirche u. theol. Lit. im byzant. Reich, Hdb. d. Altertumswiss. XII, 2/1, 1959,S.344ff.である)を経由して、グレゴリオス・パラマス(これについては、特に、G. Richter, Gnade als Topos der Theologie b. Gregor Palamas, Festschr. F. v. Lilienfeld, 1982, S.245ff.)に至るまで、神と似たものになるとの意味での神秘主義的な上昇はいつも、神性の本質を目指している。


■ウクライナ侵攻はロシア人の国民性につけこんだ行為 神と大地に忠実で「強力なリーダー」を求める傾向も
(AERA dot. - 04月23日 11:00)
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 ロシアによるウクライナ侵攻に終わりが見えない。プーチン大統領は、国際社会から非難を浴びながら、民間人への攻撃も続けている。プーチン氏の暴挙の背景には何があるのか。AERA 2022年4月25日号は、亀山郁夫・名古屋外国語大学学長に聞いた。
*  *  *


 同じスラブ民族からなるウクライナとロシアは、ベラルーシとともに「兄弟」関係にあり、ウクライナはある意味で兄的な存在ということができます。これはむろん、歴史的に右派が培ってきた思想です。同時に、ロシアにとってウクライナは「母」の位置にあるといっても過言ではありません。そうであるなら、今回のウクライナ侵攻とそれに伴う虐殺は、「母殺し」、あるいは「親殺し」という要素を含んでいるのだろうかと、この間ずっと思い続けています。


 最新の世論調査で、ロシア国内でのプーチンに対する支持率は80%を超えました。この数字を「フィクション」とする見方もありますが、私はそうは考えません。裏を返せば、この数値は、今、国民が感じている恥辱と絶望のバロメーターでもあります。プロパガンダでいかに洗脳されているとはいえ、だれもが異常事態に気づいている。「嘘」に気づくことへの恐怖が、逆に巨大な権力への迎合となって表れているのです。ただし、プーチンに対する実質支持率は、これらの要素を取り除いても、50%を超えると思っています。


 理由は、ロシア国民の精神性そのものに見ることができます。


 ロシア国民は、基本的に政治に無関心であり、「成り行きまかせ」です。「成り行きまかせ」という言葉は、最近たまたま再読したスベトラーナ・アレクシエービッチの『チェルノブイリの祈り』の中に見いだしました。私流に言いかえると、一種の運命論に支配されている。「成り行きまかせ」は、第一に放縦を生みます。放縦と自由の間に境界線はありません。そこで彼らは、放縦の奈落に身を落とさないようにするため自分たちを厳しく律してくれる束縛、つまり「縛り」を必要とするのです。




■受動性につけ込む行為


 ロシア人と身近に接しながら驚くのは、彼らが今もって抱いているある種の神秘主義です。彼らは政治権力よりも神と大地に忠実です。特にロシアの国土の広さは、それ全体が一つの大きな意思を持っていると感じている。その感覚は当然、政治にも反映され、強力なリーダーを求める傾向が生まれます。


 同時に、ロシア人はセキュリティーの感覚が希薄です。死の感覚に馴致(じゅんち)している。自分たちは神や大地に加護されているという漠たる感覚があるからでしょう。全体の中にあって一つの個が保たれるという、一種の集団主義をも生み、自立が悪とみなされます。


 こうしたロシア人の精神性を表して「千年の奴隷」と呼んだのが、20世紀を代表するウクライナ人作家のワシーリー・グロスマンでした。戦争が終わり、かりにロシアに欧米型の民主主義が入ってきても、いずれは再び強力なリーダーを求めることになるでしょう。


 今回のウクライナ侵攻は、国民の受動性につけこんだ背信行為です。しかし同じロシアの兵士たちの夥(おびただ)しい死を知れば、正気になるはずです。逆説的に見えるでしょうが、今プーチンもロシア国民も被害者意識に凝り固まり、「嘘」と知りつつ、「嘘」を命綱としています。しかし果たしてこれほどの「嘘」にどこまで耐えられるのか。今はおそらく沈黙しかないでしょう。これは状況としてはよくない。しかし、いずれは何かが、爆発するはずです。独裁権力は、それに対してどう臨むのか。さらなる弾圧か、あるいは、真の自立の前に、みずから膝(ひざ)を折るか。


(編集部・野村昌二)


※AERA 2022年4月25日号


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