キリスト教の教義では
仏教も
ユダヤ教(旧約聖書)同様
異教
だということになる。
けれども
ユダヤ教では
キリスト教を
ユダヤ教からの分派勢力
(キリスト教はユダヤ教の聖書を「旧約聖書」と呼ぶが
ユダヤ教ではキリスト教が「旧約聖書」と呼ぶ聖書のみが「聖書」であり
キリスト教が「新約聖書」と呼ぶ聖書は聖書に含まれない)
と
見做(みな)しており
ユダヤ教は
キリスト教を
否定している。
また
仏教も
仏教以外の宗派の教説を
異端と見做し
外道(げどう)と呼んで
内道である悟道(悟りを得る方法)と区別し
経典によっては
外道(仏教以外の宗派(キリスト教を含む)の教説)は
異道・邪道とも呼ばれている。
だから
キリスト教では
仏教もユダヤ教も
異教とするけれども
ユダヤ教や
仏教から見れば
キリスト教こそ
異教に他ならない。
特定の何ものも絶対視しない
中立公平な相対的視点から見れば
(あるいはカントの超越論で判断するならば)
ユダヤ教の主張と
キリスト教の主張と
仏教の主張
(それに加えてイスラム教の主張)
は
どの主張も正しくあり得るし
どの主張も間違いであり得る
ことになる。
けれどもアンチノミーの論理は
理性の限界内の論理なので
理性を越える原理であるところの
啓示や悟りを原理とする宗教には
適用できない。
ただし
ユダヤ教も
キリスト教も
一神教である点では一致する
が
仏教は無神論であるので
仏教と
ユダヤ教およびキリスト教と
では
意見が合いそうにない。
けれども
どちらも宗教であるという点では
一致している。
宗教である限り
超自然の力である
啓示や悟りによって
体験的に初めて知り得る事実に基づいている。
問題は
神という絶対者(外在超越者)によって啓(ひら)かれ示される啓示
と
覚(かく・さとり)という
「真理に対する認識能力の働き(智慧=内在超越者)」によって開かれる悟り
が
どのような関係にあるのか
ということであるが
内在超越者は
外在超越者の内在化(質料化)であるから
やはり
外在超越者(神=絶対超越者=超自然的存在)が前提であり
この純粋存在者無くしては
内在超越者が存在化
(といっても内在超越者もまた質料ではないと考えられるけれども
何らかの機能を有するものが何ら質量を持たない非存在であるということは
理性の範囲内では考えられないのであるけれども
理性の範囲内の常識を越えた働きこそ
霊性の機能であり宗教の領域である)
することも出来ないので
キリスト教は
仏教の前提であると
言うことができる
のだが
仏教は
悟りを
神否定の境地(無の境地=無我の境地=神否定の境地)
として
説明している点で
キリスト教と
対立している。
けれども
シェリングなどは
啓示を理解する場合に
たとえ瞬間的であれ
無意志
無意図
無意欲の状態が
前提されることを
説いている。
いずれにせよ
神が前提であれ
神を意識している間は
悟りの境地へ至り得ない
ということを発見したところに
仏教の
キリスト教以上の
境涯が存していると
考えられる。
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最終更新
令和4(2022)年5月1日 21時13分
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