広島の「平和の軸線」を利用した、ゴミ焼却場でのシーン。
ゴミの山としての妻(亡霊)の登場。
それを綺麗(雪のようだ)というみさきの存在。
ゴミの焼却=火の登場。
斜めの構図での海。上手上部に立つみさき。犬。
これらを経て、映画が変わる。
車の内部や室内、夜、激しい性交。といった場面に支配されていた映画に、陽光が入る。
チェーホフ劇の稽古が、外で行われる。そこにみさきも見学者としている。
女性の役者二人が、見られていること、それが劇であることも忘れたかのように自然に自分達の物語を語る。
「今なにかが起きた。でもまだ足りない。この役者たちの間で起きたことを、観客に開く。寸分減らさずに劇場で起こす」と家福は言う。
と同時に、最も深い闇にも到達する。
・・・・・・・
家福との対話を望んだ高槻は、夜、走る車の中で、妻・音について深く話す。
家福も音が子供を失った痛手を、性交の最中に物語を語り出すことで乗り越えたことを話す。家福の知っている話は、空き巣に入ったところに誰かがやってくるところで終わっていた。
しかし高槻はその先を知っていた。知っていると言うことは、高槻も音との性交を経ていること。しかし、今の家福にとっては、そのことよりも、妻もそういう語りをしていたこと、自分が知らない話の先を、高槻が知っていること。その内容が何なのかを知ることの方に関心がある。
やってきたのは、もう一人の空き巣で、主人公の少女はその空き巣を殺害してしまう。
話のラストで、少女は、その犯人は自分であること、「私が殺した」と何度も言う。
これを話す高槻も、すでに人を殴って死に至らしめている。殺人者が、「自分が殺した」と言っている。
画面は編集で、家福と高槻の顔が切り替えられているが、撮影は1カットで行われたらしい。ここでの岡田将生の演技は、あり得ないほど素晴らしい。
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