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2022年02月02日00:09

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物語 アラビアの歴史 知られざる3000年の興亡 (中公新書) 蔀勇造 中央公論新社 2018年7月25日

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p.47
 ムサンダム半島を南北に走る山脈の西麓と砂漠の間に立地するムレイハは、内陸に位置しながら実はインドとメソポタミアを結ぶ海上交通ルートの中継地として発展した。風力に頼って航行する船で潮流、風向、それに海岸線の複雑なホルムズ海峡を抜けるより、ムサンダム半島の適当な入江に入って上陸し、山間の峠越えの道を抜けて半島の反対側の海岸に出た後、改めて海路目的地を目指すほうが容易と考えて、こちらのルートを選ぶ者が少なくなかったことによる。
p.49
 アデン湾に面したズファール地方のホール・ローリーの遺跡は、全長四〇〇メートルの周壁の中に神殿、倉庫、工房、住居などが配置されていて、砦というより小規模な港市の趣である。現在はオマーン領となっているが、古代においてはハドラマウト王国の領土で、碑文の中ではスムフラムと呼ばれている。『エリュトラー海案内記』のモスカ港はここに比定される。
p.52
王国成立の正確な年代は判らないが、記録に現れる最初の王は、『旧約聖書』の「マカバイ記二」第五章第八節の前一六九年ごろの記事に、アラビアの独裁王として名の挙がっているアレタで、これは最古のタイプのナバテア文字で記された碑文に登場するナバテア王ハレタト(一般にはギリシア語名アレタス一世が通用)に比定される。
…アラブの一派ナバテア人の母語はアラビア語の一種であったが、書き言葉としては当時のオリエントの共通語であったアラム語の一方言を用い、これをアラム文字の流れを汲む文字で表記した。その言語と文字を我々は便宜的にナバテア語、ナバテア文字と呼んでいる。後述するパルミュラ人も同様で、彼ら自身はアラブであったが書き言葉と文字はアラム系のものを使用し、それらは母語でないにもかかわらず、「パルミュラ」の名を冠して呼ばれている。
p.56
 まず一世紀のおそらく前半に、南部の高地帯に新しく興ったヒムヤルという勢力とサバァとの間で連合王国が結成され、それが数十年間続いた。『エリュトラー海案内記』が著されたのはまさにこの時期で、ホメーリタイとサバイオイという二種族を合法の王カリバエールが統治し、施設や贈り物を送ってローマ皇帝とも親しいと記されている。
p.57
 第二に、ヒムヤルとの連合王国が一世紀末に破綻した後のサバァの王位には、従来の支配氏族の出身者ではなく、西部の高地帯に勢力を有する部族の首長が即いた。…
…かつてサバァ王カリブイル・ワタルの攻撃を受けて滅亡したアウサーン王国が、一時的に復活した徴候がある。
p.58
文献の中で最初にこの勢力に触れたのはプリニウスで、ガッルスの南アラビア遠征に関連してこの地方を紹介する中で、ホメリタエ族は最も人口の多い種族と記している。
p.61
第十六節ではアフリカ東岸のラプタという交易地を挙げて、「ここは昔からの決まりで、アラビアで最初にできた王国に服属しており、マパリーティスの首長が管轄している。しかしムーザの人々が、貢納と引き換えに王からここ(との通商権)を獲得し、そこに船を送る」と述べている。タプタの正確な位置は不明であるが、タンザニアのバガモヨ、ダルエスサラームかルフィジ川の河口あたりが有力な候補である。マパリーティスは現在もマアーフィルと呼ばれるイエメンの最南西部の地方、ムーザは紅海南岸のモカ近辺に比定できる。
p.62
南アラビアのジャウフ地方には、かつてカリブイル・ワタルの討伐を受けたアミール族をはじめとする北アラブ系の遊牧諸族が侵入し、以後ハラムを中心に出土する碑文の言語にアラビア語的色彩が濃厚になる。ただ彼らはアラブとは呼ばれていないので、従来からサイハド砂漠で遊牧を行っていたベドウィンであったと思われる。…
 南アラビア碑文にアラブと呼ばれる集団が現われるのは後一世紀になってからである。
p.63
前二世紀後半にアミール族等のジャウフへの侵入が顕著になったのは、南下する彼らに押された玉突き現象なのかもしれない。…
 北方に目を転ずると、メソポタミアの「バビロン天文日誌」という史料には、前一三〇〜前一〇六年の間にしばしばアラブへの言及があり、彼らの活動がバビロニア一帯で猖獗を極め、バビロンの町も略奪に曝されていた様子が見て取れる。
p.64
シャダードと呼ばれるこの鞍は下部がラクダのコブを前後左右から挟み込むようになっており、上部は機種の姿勢を安定させる前輪と後輪を備えていた。
…にもかかわらず、前一千年紀の末近くになるまで彼ら自身は馬を用いなかった。
p.65
要するにストラボンを読む限り、紀元前後の時代には、現在のヨルダンからイエメンへかけての地域では、馬はまだ家畜として使役されていなかった。
 ところがその約半世紀後、一世紀半ばごろに著された『エリュトラー海案内記』からは、これとは異なる情況が見て取れる。…
…ただしこの段階では、馬は通常の交易品とは区別された支配者への献上品として記載されていて、いまだ貴重な品であったことが推察される。
…古代南アラビア語では同じ語が「馬」と「騎士」の両方を表すが、その後が西暦一〇〇年前後の作と思われる戦いの記録の中に初めて登場する。
p.66
南アラビア碑文に「馬」という語と「アラブ」という語が、ほぼ同時期に出現するという事実に着目するならば、南アラビア諸国に普及した馬の少なくとも一部は、北方から移動して来たアラブ・ベドウィンによってもたらされたと推測することができる。
…中央アジア産のフタコブラクダのオスとアラビア産のヒトコブラクダのメスを交配してヒトコブ半ラクダを生む技術は、パルティア時代の前二世紀にティグリス・ユーフラテス両河の渓谷地帯で始まったと言われるが、それがムレイハの墓地に葬られているというのは、同所に葬られている馬の来歴を考えるうえでも示唆的と言えるのではないか。
p.67
ヒトコブ半ラクダはラバと同じく両親より家畜として優れるが繁殖能力はない。

 以上の出土品から見て、南東アラビアへの馬の導入はおそらくメソポタミアかイラン方面から行われたのであろう。時期については、南西アラビアよりは一世紀あるいはそれ以上早かったのではないかという印象を受ける。
p.70
これはローマによる軍事的征服ではなく、独力ではベドウィンの侵攻に対処しきれなくなったナバテアが、自らローマの懐に飛び込む途を選んだのではないかと推察されている。
p.71
 南から順に挙げると、まずペルシア湾西岸のバハレーン・ハサー地方の港から、北西の方角に砂漠を横断してドゥーマト・アルジャンダルに向かい、そこからはワーディー・シルハーンの河床を進んでボスラに至るルート。…次に、ペルシア湾の湾頭からユーフラテス川を遡り、途中ドゥラ・エウロポスを経由してスーラまで進んだ後に、川を離れて南西方向に砂漠を横断し、パルミュラを経由してエメサ(現在のホムス)もしくはダマスクスに至るルート。
p.72
そして最後に、ペルシア湾からティグリス川を遡り、クテシフォン、セレウキアを経由してモスルあたりまで進んだ後に、川を離れて砂漠を西に横断し、最近遺跡の破壊が報じられたハトラ、さらに進んでエデッサを経て、地中海北部の要衝アンティオキアに至るルートがそれであった。
p.76
古代南アラビア語は他のセム系言語と同じく母音を表記しないので、名称はhmyrと綴られるが、これをヒムヤルと読む通称は後世のアラビア語の発音で、同時代のギリシア語のホメーリタイ、ラテン語のホメリタエ、ゲエズ語(古代エチオピア語)のフメールという発音から判断して、本来の呼称はフマイルではなかったかと言われる。…さらに不思議なことに、この集団の首長は決して「マリク・ヒムヤル(ヒムヤル王)」とは呼ばれないし、そう自称することもなく、通常は自陣営からも敵対者からも「ズー・ライダーン(ライダーン城主、もしくはライダーン公)」と呼ばれる。
 それでここから先は私見であるが、ヒムヤルという呼称は、すでにイサァアマルやカリブイルの紀功碑にも見えるある種の「盟約」を指すh.mrという語が語形変化して、そのような盟約によって結成された特定の部族連合を指す語になったのではなかろうか。
p.77
 先に見た『エリュトラー海案内記』にホメーリタイとサバイオイの合法の王と記されていたカリバエールは、一世紀の半ばから後半にかけて王位にあったカリブイル・ワタル・ユハンイムのことで、ライダーン城において自らの名を刻した銀貨を鋳造・発行している。
p.81
この教祖の生前の言葉を集めた『ケファライア』という書物があり、その一節によると彼はその当時の世界には四つの帝国があると言い、「バビロンとペルシアの帝国」(すなわちサーサーン朝)、「ローマ帝国」に続いて三番目に「アクスム人たちの帝国」を挙げている。
p.82
ヨルダンの首都アンマンの東方約八〇キロの砂漠に、おそらくウマイヤ朝のワリード一世が離宮として造らせたと思われる使節があり、その謁見の間のフレスコ画に、勃興期のイスラーム勢力に敵対した六名の君主が描かれている。めいめいの頭上にギリシア語とアラビア語でそれぞれの名が記されており、向かって右端の二人の名は読み取れないが、後の四名はカイサル(ビザンツ皇帝)、ロドリーゴ(スペインの西ゴート王)、ホスロー(ペルシア王)、ネグス(アクスム王)と確認できる。
p.84
 ローマが三世紀に内憂外患に見舞われたことは右記のとおりであるが、外患の一つとして、エジプトの南方にいた遊牧民のブレンミュエスが、この世紀の半ばに大挙してエジプト領内に侵入してきたことが挙げられる。…
…内陸の高原に位置するアクスムという首都(これが国名の起源)を中心に、現在のエチオピア北部からエリトリアへかけての地を、エレアゾスという名の王が治めていた。
p.85
 二世紀末にアクスム軍が紅海を渡ってアラビアに侵攻できたのは、とりもなおさずローマがこの海域における制海権を失った結果である。
p.86
 二世紀末、父王と共同統治時代のシャァル・アウタルは「サバァ王」と称していた。前述のように、サバァ王国がハドラマウト王国や南アラビアに進出してきたアクスム王国と結んでヒムヤルに対抗したのはこの時期である。ところが世紀が変わり単独統治を行うようになった時代の碑文では、「サバァ王にしてライダーン公」と呼ばれている。…
…史料的制約から詳細は不明で多分に推測なのだが、どうもヒムヤルが王位の継承をめぐる兄弟間の争いで混乱し、そのうちの一方の側に肩入れして王位に即けることに成功したシャァルが、ヒムヤルの宗主的な地位を獲得したらしい。…
…ただ、攻められているハドラマウト王が盟約の相手とは異なる王統の人物なので、こちらも後継王を決める争いが同盟破綻の背景にあるのかもしれない。
p.87
まず香料の道の要衝ナジュラーンにおける、エチオピア軍との戦闘が記録に残っている。…サバァ軍はこの後さらにペルシア湾岸に向かうルートを進み、カルヤ・ザート・カフルを攻めた。この町については、紀元前の時代にマイーン、リフヤーン、ナバテア等の諸王国から来訪した商人で賑わっていたことを前章の第1節で記したが、このときサバァ軍の攻撃を受けたのは「キンダとカフターンの王、サウル族のムアーウィヤの息子ラビーア」であった。
p.88
しかし実際には、おそらく彼の死後間もなく三代続いた彼の王統は途絶えてしまい、サバァの王位は別の氏族に移って、イルシャラフ・ヤフドゥブとヤァズィル・バイインの兄弟による共同統治が始まった。

 三世紀中葉の数十年間、イルシャラフ兄弟に率いられたサバァ軍は、繰り返しヒムヤルとその背後にいるアクスム軍と戦っている。
p.89
 アラビアに進出したアクスムは、半島南西隅のマアーフィル地方の高原に位置するサワーを本拠地とし、ここにアクスムの王もしくは王子が駐留して、南アラビア諸王国との交渉や戦闘の指揮を執っていた。
p.90
首都のアクスムからではなく臨海のアドゥーリスから進軍しているのは、急遽アラビアから軍を率いて帰国し、上陸地点の港から高原地帯に向かって進撃したことの表れである。各地を転戦して反乱を鎮定し、スーダンからソマリアのアデン湾沿岸部にかけての諸族を征服したうえで、王は部隊の一部を対岸のアラビア側に渡して、北はかつてのナバテア王国の交易港レウケー・コーメーから、南はサバァ王国の境界に至るまでの紅海沿岸部を平定させた。そしてすべての戦いの終了後、全部隊をアドゥーリスに集結させ勝利の祝典を挙げるとともに、この石碑を神に奉献したと記されている。
 スーダンの砂漠にいた遊牧民ブレンミュエスがローマ領のエジプト南部に侵入したのは、おそらくこのときのアクスム軍の北進に押し出された結果と考えられる。
p.91
 アクスム王のアラビア不在中に反旗を翻したと思われるのは、三代目のヤースィル・ユハンイム王である。
p.92
特に、ヤースィルの息子で父の王位を継いだシャンマル・ユハルイシュの時代には、アクスム関係の記録が全く残されていない。…
…その後を継いだのが息子のシャンマル、それに対してサバァではイルシャラフ兄弟の息子と称するナシャァカリブが王位に即いた。…
…そのため、おそらくこの世紀の末近くに、シャンマルの手によってサバァはヒムヤルに併合されたと信じられている。
p.93
そして三世紀末か次の世紀の初めあたりから、シャンマルはそれまでのサバァとヒムヤルの支配者であることを意味する王号にハドラマウトを付け加え、彼の地の支配者でもあることを宣言するようになった。それで、このころより碑文からハドラマウト王が姿を消すことも勘案して、この時点でハドラマウト王国はヒムヤルに征服され、ここにおいて南アラビアの歴史上初めて全土の統一が実現したと解されている。
p.94
そこで彼らの著作を中心に見ていくと、アラブの多くの伝承では、ヒムヤル王国は三/四世紀から五世紀あるいは六世紀の初めにかけて、トゥッバァ(複数形はタバービア)と呼ばれる支配者によって治められていた。…

 ナシュワーンによると、タバービアとはヒムヤルの王ですべてハーリス・アッラーイシュの子孫たちであるという。
p.97
 ところでこの系譜図を一見して気づかされるのは、シャンマルの父がヤースィルではなく、イフリーキース(イフリーキーヤ、すなわちアフリカを征服したのが名の由来だという)というアフリカと縁の深い名の人物になっていることと、イフリーキースの父のアブラハという名が、六世紀にメッカに遠征したという伝承のあるエチオピア系のヒムヤル王を想起させる点である。
p.98
しかも興味深いことに、エザナ王(この王の時代にエチオピアはキリスト教を受容)のキリスト教改宗後の四世紀の中ごろから六世紀の初頭までの間に鋳造されたアクスム金貨は、そのほとんどがエチオピアではなく南アラビアの南部から出土する。他方南アラビアの諸王国においては二世紀ごろまではそれぞれの貨幣を鋳造・発行していたが、それ以降は、統一王国の実現に成功したシャンマルの治下においてさえも、独自の貨幣鋳造を行っていない。
p.99
 四世紀のエザナ王以来、アクスム王の碑文に記された長い王号には、ヒムヤルとサバァの名が含まれていて、アクスム王がこの両地の支配者をもって任じていたことを示している。
p.100
 四世紀中ごろの作と言われる『世界・諸民族総覧』というラテン語の文献の第十七節に、ペルシア人の侵攻に曝されたアラブがアクスムに救援を求めたことを窺わせる記事がある。…
 同じく四世紀の作ではないかと思われるウラニオスの『アラビア誌』の断片に、アラビアのアバセーノイという種族項目がある。…このアバセーノイがハバシャ(アビシニア人)のことであるなら、四世紀にサバァの南方もしくは東方に、多数のエチオピア人が居住していたことの証左となる。…
 四〜五世紀の人と言われるマルキアヌスの『外海周航記』(通称『アラビア海周航記』)の第一巻第十八節に、「ヒムヤル人はエリオピア人の一種族」と記されている。
p.101
 六世紀前半に著された『アレタス殉教録』は、次章で詳しく見るユダヤ教徒のヒムヤル王による一連のキリスト教徒迫害のクライマックスをなす、五二三年のナジュラーン市における迫害の記録である。その第一節の末尾にヒムヤル王はエチオピア王に貢納の義務を負っていたという記載がある。…
 右記のナジュラーンの迫害について、ベト・アルシャームの主教シメオンが書いたと言われるいわゆる『第一の書簡』には数種の異本が伝存しているが、そのうちの一つに、南イラクのヒーラを首都とするナスル朝(ラフム朝)の王ムンズィルの前で、迫害を行ったヒムヤル王ズー・ヌワースから送られてきた書簡が披露される場面がある。その書館の冒頭で、ズー・ヌワースは領内のキリスト教徒弾圧を行う決断をした理由を説明し、「クシュ人たち(ここではエチオピア人)が我々の国に擁立していた王は死んだ。今は冬なので、クシュ人たちは我々の国にやってきて、いつものようにキリスト教徒の王を立てることができない」と書いている。
p.102
 すなわち歴史上の南アラビアの諸王に比定不可能な支配者たちは、実はそれぞれが在位したとされる時期に、ヒムヤルに対して強い影響力もしくは宗主權を行使したアクスムの支配者ではなかったのか。
p.103
このような点から判断して三世紀以降ヒムヤルは基本的に宗主としてのアクスムの支配下に置かれていたが、その間、シャンマルや次章で言及するアスアド一族のように、実在のヒムヤル王に比定できる支配者の名が系譜上に現れる時期は、これらの王の下でヒムヤル国内の政情が安定し、対アクスム関係においては相対的に独立性が高まっていた時期と捉えるべきではないだろうか。
p.105
 彼の記すところによると、すべてのイエメンの支配者がトゥッバァと称したわけではなく、これはシフルとハドラマウトの住民までを支配下に置いた王に限られる称号であったという。…
 というのも、トゥッバァの語源ではないかと思われるアラビア語の動詞「タビアtabi'a」の語義は「後に従う、続く、継ぐ」であるが、類似の意味を持つ動詞に「アカバ'aqaba」と「ハラファkhalafa」がある。これらの派生語「アーキブ」と「ハリーファ」がともに「代理」という意味を持つことから見て、タビアの派生語トゥッバァにもかつては同様の意味を表したのではなかろうか。つまり元来この語はアクスム王の宗主権下に置かれたヒムヤル王の、アクスム王の名代としての機能を指す語ではなかったか。
p.106
 ヒムヤル王のこのような立場を示しているのではないかと思われる史料として、イスタンブルの古代オリエント博物館蔵のRES 3904を挙げよう。欠損のきわめて多い碑文であるが、その七〜八行目に「(ヒムヤル王スムヤファァ・アシュワァと彼の一族は)ヒムヤルの人々に対しては王として、アクスム王に対しては名代として、アクスム王に仕える」と記されていて、ヒムヤル王の対内的・対外的な二重の機能が窺える。この碑文では「名代」を意味する語として「アーキブ」が使われているが、「トゥッバァ」はその同義語であるというのが私の解釈である。ちなみにスムヤファァ・アシュワァはズー・ヌワースを討ったアクスム王によって擁立されたキリスト教徒の王である。

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■ドローン攻撃でペルシャ湾一気に緊迫 中東への石油依存度9割を超す日本のリスクは
(まいどなニュース - 01月29日 10:40)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=262&from=diary&id=6830923

日本では安全でリッチなイメージが強い中東UAEの首都アブダビで17日、国営石油会社の燃料貯蔵施設や国際空港の近くに攻撃用ドローンなどが着弾して火災が発生し、これまでにインドやパキスタン国籍の3人が犠牲となった。UAE外務省は同日、首都アブダビを攻撃したイエメンの親イラン武装組織フーシ派に対して報復を宣言した。既に、UAEと連携するサウジアラビア主導の連合軍が21日までにイエメンにあるフーシ派の施設を攻撃し、60人が犠牲となった。

【写真】かつては原油価格マイナスも…そもそも「マイナス価格」ってどういうこと?

フーシ派は長年イエメン内戦に加担するサウジアラビアやUAEへの報復を示唆し、実際近年はサウジアラビア領内へのミサイルやドローンによる攻撃を繰り返している。しかも標的となるのはサウジアラビア経済の心臓である石油施設が多い(首都リヤドに向けてミサイルが発射され、サウジアラビア軍がそれをリヤド上空で撃墜することもある)。たとえば、2020年11月、フーシ派はサウジアラビア西部の第二の都市ジッダにある石油関連施設に向けてミサイルを発射し、国営石油会社サウジアラムコが所有する石油タンク1つが被害を受けた。また、2021年3月には、首都リヤドにある石油精製施設が無人機6機によって攻撃を受けて火災が発生した、同石油精製施設への攻撃では人的被害が出なかったが、サウジアラビアのファイサル外相はその後、フーシ派からの攻撃が相次ぐことから、石油施設などへの攻撃を防止する対策を徹底すると明らかにした。しかし、2019年8月、フーシ派がサウジアラビア南東部にあるシェイバ油田(Shaybah)をドローン10機で攻撃したことがあるが、シェイバ油田はイエメン北西部のフーシ派の支配地域から1000キロメートル以上も離れており、フーシ派の高性能な攻撃能力が今でも大きな脅威と言えよう。

米国のシンクタンク「戦略国際問題研究所(CSIS)」は12月下旬、中東の安全保障についての報告書を公開し、フーシ派によるサウジアラビア領内への攻撃が2020年からほぼ倍増していると発表した。同報告書によると、2021年1月から9月までのフーシ派による攻撃は月平均78回に上り、前年の月平均38回から大幅に増加し、また弾道ミサイルや巡航ミサイルだけでなく、安価な値段で製造可能な無人ドローンなど頻繁に使用しているという。

このような背景の中、フーシ派の報道官は1月22日までに声明を発表し、今後もUAE領内への攻撃を続けることから、UAEに展開する外国企業に対して撤退するよう警告した。イラクやシリアで活動するイスラム国などのイスラム過激派に比べ、フーシ派はイエメンで一定の領域を支配し、より見える形で活動していることから、この警告はより具体性があろう。また、今回の攻撃は国家間関係にも影響を及ぼしている。バイデン政権は1月19日、首都アブダビがフーシ派から攻撃された件で、フーシ派を国際テロ組織に再び指定するかを検討していると明らかにした。フーシ派は資金的、軍事的支援をイランから受けるなど同国と密接な関係にあり、イラン核合意への復帰を目指すバイデン政権は発足直後にフーシ派のテロ組織指定を解除した。解除の背景にはイランへ歩み寄りを示す狙いもあっただろうが、フーシ派の強硬姿勢がバイデン政権の方向性を変えようとしている。仮に再指定となれば、米国とイランの関係は再び悪化する方向へ向かうだろう。

我が国の中東への石油依存度は今日9割を超えている。しかもサウジアラビアが1位、UAEが2位となっており、今後の情勢が大きく懸念される。しかもフーシ派を巡る情勢は、サウジアラビアとイランの中東の地域大国間同士の緊張を高めるという潜在的リスクを内在しており。中東情勢の緊張悪化は日本のエネルギー安全保障を脅かす。石油輸入先の多角化など中東依存を下げる対策が今後必要だろう。

◆治安太郎(ちあん・たろう) 国際情勢専門家。各国の政治や経済、社会事情に詳しい。各国の防衛、治安当局者と強いパイプを持ち、日々情報交換や情報共有を行い、対外発信として執筆活動を行う。


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