私は
「哲学では食えない」
という常識を
覆したい。
というか
「食えない哲学」
であっても構わない
と思ったから
医学ではなく
哲学を選んだのだが
祖父母も
両親も
居なくなり
子も居ず
夫婦二人だけ
と成った今
(これまでは
「頼る宛(あて=見込み、目当て)」
としての父母や妻が存在していた
のであるが
蒜山高原で生活する事を決めた今
妻の収入だけでの生活が見込めない以上)
私の
「財産(内在超越。資本主義的に言えば「商品」)」
としての
「宗教体験(内在超越)を踏まえた哲学思想」
を
販売出来なければ
(この「商品」が売れなければ)
生きる道が
閉ざされる。
(でも
単に資本主義社会のシステムに
無抵抗に呑み込まれる
のではなく
資本主義社会のシステムを
踏まえた上で
資本主義社会のシステムから
自立したあり方を
生きてみたい
と思っている。)
今度こそ
自分自身の
生活力(自立力)
が試される。
というよりも
むしろ
自分自身の「財産」
としての
「宗教体験を踏まえた哲学」
の
「力(実効力)」
が
試される。
シェリングは
大学教授であったから
生活力を
自分自身の教授職で
得ていた。
カントもヘーゲルもフィヒテも
そうであった。
けれども私は
「大学教授(大学の先生)」
という職業
「ではない」
思想表現の「道」
を
選びたい。
哲学者としての
マルクスは
自分自身の哲学を表現するために
大学教授ではない道を
生きたけれども
生活は
エンゲルスに
依存していた。
それではいけない。
資本主義社会に
「染まってしまう」
のではなく
資本主義の社会システム
から
独立して
しかも
カントから始まった
研究者のありかた
としての
大学教授
(それは結局は国家公務員であったり
公立や私立の大学に所属して
国家や、それらの大学の方針に従わなければならない
「労働者階級」以上の権利を持たない立場の存在)
からも
独立して
自立的に
社会に関わって
自分自身の宗教体験に基づいた哲学
で
生きてゆく「システム」を
構築したい。
(シェリングの積極哲学を
深く理解すれば
そういう「生き方」を
学び取る事が出来る。)
そのために
知っておくべき
「現実(の事実)」
がある。
今更では
間に合わないかもしれない。
けれども
「必要は発明の母」
と言うように
「そうする以外に
道(方法)が
無くなった場合」
人は
その道を
歩かざるを得ない
のであり
その事態(新しい現実・窮地)
が
自分自身の人生を
決定するだろう。
そして
その「道」は
(これまで見えなかっただけで
あるいは
これまでは存在しないかのように
隱れた存在(潛在)であっただけで)
そもそも私に
最初から(生まれた時から)
「用意されていた道」
だったのかも
しれないのだ。
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最終更新
令和3(2021)年6月27日 17時35分
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