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2020年12月03日06:55

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教育は「知」だけでなく「感情のコントロール技術」も伝達すべきだ

人生で困ることは
「感情に支配された人」から受ける
「迷惑行為」だ。

この「迷惑行為」には
単なる「悪戯(いたずら)」から
「暴力」を越えて
「権力による弾圧」や
「暗殺」まで
あらゆる
「暴力」を
齎(もたら)すので
放置できない。

そもそも
「暴力」は
人間が
「感情に支配された時」に
「発動する行為」だ。

なので
教育は
社会構成員の全員が
自分自身の感情に支配されないように
感情のコントロール技術を
修得していることを
課題とすべきだ。

そこから
さらに進んで

「感情に支配された人」から
「不可抗力(不可避的圧力)」を受けた時に
そのような「悪行」を
「被(こうむ)らないで済む方法」を
習得できるように
「感情に支配された人や組織からのあらゆる圧力に対抗しうる技術」を
伝達すべきだ。

そういう「教育」が
しっかり為されていないから
いつまで経っても
「感情に支配された人々」からの
「迷惑行為」に
日々悩まされ続ける問題が
多々発生することになる。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

感情のコントロールは
人間が「権力(特権、優勢力)」を持てば持つほど
「権力」が感情のコントロールを難しくするので
(なぜなら「権力」は「間違った事でも通るようにする力を持つ」から。)
「権力」の存在そのものも
見直す必要がある。

「特権」は
人間の「エゴイズム」を「守る」機能があるので
「エゴイズム」を「守る」為に「権力」を使えば
「権力」は「悪」を「実行」可能にする。

「権力」は
「包丁」と同じで
「ダブル・ミーニング(二重の意味、相反する機能)」を持ち

「良いこと」にも
「悪いこと」にも
使える。

なので
権力を用いる人が
自分自身の感情をコントロールできなければ
「権力」は
「悪行」の強力な「実行手段」に落ちる。

つまり
「権力」は
権力を「行使する人(運用する人、用いる人)」によって
我々を「守護する力」にも成り得るし
我々を「弾圧する力」にも成り得る。

なので
「権力」の「行為者」は
特に
「自らの感情に支配されない技術を修得している人」であることが
求められる。

「特権」が
「個人だけに与えられた権利」
から
「巨大組織に与えられた力」
となれば

そのような「巨大権力」は
軍隊や警察
さらには
マスメディアも
「支配」して
人々に
「嘘」を付いたり
人々を
「騙したり」
「洗脳」して
人々を
「支配」する為の
「手段」となる。

そのような「巨悪」に
「騙されない」ような
「純真で鋭く洞察しうる判断力」を
習得すると同時に
「感情に支配された人」の「あらゆる迷惑行為」

「直面」した時に
「自分の感情に支配されない為のコントロール技術」を
予め修得しておく必要がある。

「巨悪」に
騙されない為の
「純真で鋭い判断力」を
修得する為の技術を
我々に伝達してくれている
哲学者は
カント
(Immanuel Kant 1724〜1804年
 『純粋理性批判』初版1781、第二版1787年
 『実践理性批判』1788年
 『判断力批判』1790年)
だと思う。

そして
感情のコントロールについて
深く考えてくれた
哲学者は
スピノザ(1632〜1677『エチカ』1677年)
だと思う。

でも
彼らが考えたのは
原理的なことだけで

我々一人ひとりは
自分自身が直面している現実問題を
これまでに明らかにされた
総(すべ)ての知識や技術を
総動員して
自分の感情や環境に対して
対処できるような技能を修得すべく
自助努力すべきだ。

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最終更新
令和2(2020)年 12月3日 午前7時57分
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