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2020年04月13日14:58

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佐賀紀行5 佐賀の歴史 近代編

 さて、話を幕末の佐賀へ戻しましょう。
 嘉永7(1854)年に佐賀藩主鍋島直正は蒸気船の国産を目指す方針を決定し、武雄領主鍋島茂義(ナベシマシゲヨシ)を精煉方に於ける蒸気船建造の責任者に任命する一方、オランダに蒸気軍艦を発注します。
 安政2(1855)年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、佐賀藩から佐野常民・中牟田倉之助(ナカムタクラノスケ)以下48名が第一期生として参加します。常民は直正に海軍創設の必要性を説き、安政4(1857)年には佐賀藩がオランダから購入した帆船飛雲丸の船将となります。
 直正は、オランダに発注していた蒸気軍艦電流丸を受領した事もあって常民の献策を採用、安政5(1858)年に筑後川支流の早津江(ハヤツエ)川河口にあった「御船屋」を拡張して海軍伝習機関「三重津海軍所」を開設し、常民を監督、中牟田倉之助を方助役に任命します。また、同年、長崎海軍伝習所で佐賀藩のカッター型帆船晨風丸(シンプウマル)が竣工しています。
 三重津海軍所は当初は蒸気船等の修理・造船施設でしたが、安政6(1859)年に長崎海軍伝習所が閉鎖されてしまったため、長崎海軍伝習所で学んでいた多くの佐賀藩士の士官教育を継続するため、教育・訓練施設等を増設しています。海軍所へ異動した田中久重は「電流丸」の交換用のボイラーや幕府蒸気船「千代田形」蒸気罐の修繕を通じて、蒸気機関についての経験を積む事となりました。
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 文久元(1861)年鍋島直正は家督を長男直大(ナオヒロ)に譲って48歳で隠居し、閑叟(カンソウ)と号しましたが、引き続き佐賀藩の実権を握り続けました。
 文久2(1862)年12月、上京した閑叟は関白近衛忠煕に面会し、伏見警護の任に当たりたいと申し出ていますが、他藩との兼ね合いから却下されました。この際、閑叟は「長崎警備は他大名でも担当出来るが、大坂・京伏見の警備には実力が必要であり、私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」旨の発言をしていますが、その後は幕末の激動の政局から距離を置き、藩内の富国強兵・殖産興業に努めました。
 勿論、これらの施策には莫大な費用がかかりますが、田中久重がイギリスのアームストロング砲を模倣した鉄製元込式6ポンド砲を始め、多数の銃砲を幕府や他藩に売る事で佐賀藩は莫大な利益を上げており、累積していた借財も消し飛んでいたのです。反射炉建設後、明治維新までに佐賀藩が鋳造した大砲は271門にも達しています。
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 そして、文久3(1863)年3月、閑叟は佐野常民や中牟田倉之助らを責任者として、ついに初の国産蒸気船を起工、三重津海軍所で建造は進められ、田中久重の尽力で慶応元(1865)年に竣工、凌風丸と命名されたのです。
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 その後、田中久重は故郷の久留米に帰り、久留米藩の殖産興業に尽力した後、明治6(1873)年に現在の東芝の前身となる田中製造所を東京で設立する事となります。
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 さて、強大な軍事力を蓄えながら幕末の政局に関わろうとしない佐賀藩は、幕府からも他藩からも警戒され、化け猫騒動のイメージもあってか鍋島閑叟は「肥前の妖怪」と呼ばれて不気味に思われていました。閑叟は元治元(1864)年に朝廷から参議に補任されていますが固辞しています。
 一方、 文久2(1862)年に枝吉神陽(エダヨシシンヨウ)がコレラで死んだ後、義祭同盟の面々は尊皇討幕を掲げて動き、副島種臣は京都で朝廷に討幕を呼びかける工作を行い、大隈重信は閑叟に直談判して積極行動を呼びかけましたが失敗しています。
 また、佐賀藩は1867年のパリ万国博覧会に参加して有田焼を出品、佐野常民が代表として派遣されますが、常民は万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、大いに関心を抱く事となりました。
 なお、武雄領主鍋島茂昌(ナベシマシゲハル)はスペンサー銃600挺やアームストロング砲10門等の大量の最新式兵器を外国から独自に購入し、武雄領兵の軍備は本藩を上回る充実ぶりを示していました。
 慶応3(1867)年12月の小御所会議で新政府樹立が宣言された際、強大な軍事力を持つ佐賀藩の動向は新政府側からも徳川側からも注視されました。もし、佐賀藩が徳川方に与した場合、佐賀と地理的に近い薩摩・長州両藩は本国防衛に多数の兵を配備せざるを得なくなり、京や江戸へ大軍を送る事は不可能になるからです。
 この段階になって閑叟は新政府支持を決めて副島種臣と江藤新平を京都へ派遣、自らも藩主直大と共に上京の途に着きますが、到着前の慶応4(1868)年1月に鳥羽伏見の戦いが起きてしまいます。家老も京都に不在だったため、薩摩藩などは佐賀藩を徳川方の朝敵と見做すべきだと主張しましたが、副島種臣と江藤新平の奔走で新政府側と認めて貰う事に成功しています。また、大隈重信は幕府長崎奉行が逃亡して無主の地と化していた長崎
へ派遣され、他の有力藩の代表と共に占領行政に当たりました。
 同年3月1日、鍋島閑叟・直大親子は新政府の議定に任命され、直大は3月26日に大坂天保山沖で新政府海軍旗艦として徴発されていた電流丸に乗り込み、日本初の「観艦式」に臨んだ後、北陸道先鋒に任命されて北陸経由で江戸を目指しました。閑叟は京都に留まり、閏4月に従二位権中納言に就任しています。
 江戸に入った直大は、5月15日の上野戦争に参加しますが、佐賀藩の国産“アームストロング砲”は彰義隊撃滅に絶大な威力を発揮し、佐賀藩の実力を薩長両藩に見せつける事となりました。
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 続いて直大は下総・上総・安房・下野を管轄する下総野鎮撫に任命されて下総国古河に赴任しますが、下野国での旧幕府軍との戦闘が激しくなると6月に鎮撫府を下野国宇都宮城に移して7月まで勤めました。さらに佐賀藩兵は会津戦争にも参加しています。
 一方、武雄領主鍋島茂昌は839人の武雄領兵から成る別動隊を率いて、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府側に付いた出羽国久保田藩(秋田藩)を救援する任務を授かりました。武雄領兵は全員がスペンサー銃を装備し、本物のアームストロング砲4門を含む10門の野砲を持つ重装備部隊でした。
 7月28日に海路秋田入りした茂昌は列藩同盟の庄内藩を攻めるため、他の新政府軍と共に8月3日に海沿いに南下しました。しかしながら、庄内藩は酒田の大地主本間家の献金を元に、最新式のスナイダー銃などを購入して士気も高い強藩であり、8月5日の平沢の戦いで新政府軍は敗北し、秋田から南に8kmの長浜まで退却を余儀無くされました。8月18日、庄内藩兵は秋田への進軍のため新政府軍に総攻撃をかけますが、新政府軍も反撃して一進一退の攻防戦が展開されました。9月12日、庄内藩兵は再度大攻勢を行いますが、この時は武雄領兵の持つアームストロング砲が威力を発揮して撃退に成功しました。9月19日に会津藩が降伏して列藩同盟が瓦解したため、翌日、庄内藩兵は撤退を開始し、茂昌率いる武雄領兵は久保田藩兵と共に庄内藩兵を追撃、9月27日には現在の秋田・山形県境で庄内藩兵と戦闘となりましたが、同日、庄内藩主酒井忠篤(サカイタダズミ)が鶴岡城を出て新政府軍に正式降伏した事から28日に戦闘は停止され、10月2日、武雄領兵は戦闘を行うことなく酒田に入りました。
 こうして佐賀藩は戊辰戦争で大きな活躍をしたため、佐賀藩からは副島種臣・大隈重信・大木喬任(オオキタカトウ)等の義祭同盟出身者が新政府参与に就任、薩長土肥と呼ばれる藩閥の一角を形成する事となったのです。
 但し、明治2(1869)年4〜5月の箱館戦争では、中牟田倉之助が政府海軍の朝暘丸艦長を務めましたが、旧幕府海軍の蟠竜丸との砲撃戦に敗れて艦を轟沈させてしまう失態を演じています。
 明治2(1869)年6月、直大は薩長土藩主と共に版籍奉還の上表を行って佐賀藩知藩事となり、閑叟は蝦夷開拓督務に就任しました。このため、蝦夷地・樺太の探検経験のあった義祭同盟出身の島義勇(シマヨシタケ)が蝦夷開拓御用掛、次いで開拓使判官に任命され、初期の北海道開拓の実務を担う事となりました。
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 同年7月には副島種臣が参議、8月には鍋島閑叟が大納言、明治3(1870)年9月には大隈重信が参議に就任して肥前藩閥は新政府内で確固たる足場を固め、明治4(1871)1月に閑叟が死去した後も、大木喬任が文部卿、副島種臣が外務卿、江藤新平が司法卿に起用されるなどしています。なお、鍋島茂昌は兵部大輔(陸軍少将)就任を打診されましたが、「身分卑しき下士の西郷隆盛如きが陸軍大将で、貴顕たる自分が陸軍少将では嫌だ」と言って辞退し、武雄に戻ってしまいました。
 同年7月に廃藩置県が行われると、鍋島直大は特例としてそのまま佐賀県知事に就任、同年9月に対馬の厳原(イズハラ)県と佐賀県が合併して伊万里(イマリ)県が新設されると伊万里県知事となっています。
 しかし、直大は同年11月に出発した岩倉遣欧使節団に参加したため知事を辞任、佐賀藩出身の古賀定雄が唐津県・小城(オギ)県・蓮池県・鹿島県も合併した伊万里県参事に就任しました。明治5(1872)年5月、佐賀藩内21735石領主だった多久茂族(タクシゲツグ)が伊万里県権令になると、県庁を伊万里から佐賀城へ移し、伊万里県は佐賀県と改名されています。
 明治6(1873)年4月、大木喬任と江藤新平も参議に起用され、留守政府では肥前藩閥が薩長を抑えて最大の勢力を持つに至りました。征韓論問題で激論が行われていた同年10月中旬に九人いた参議のうち実に半分近い四人が佐賀藩出身だったのです。因みに薩摩藩と土佐藩は二人、長州藩は木戸孝允(キドタカヨシ)だけでした。
 同年10月24日、征韓論に敗れた薩摩の西郷隆盛が辞表を提出すると、翌日、江藤新平・副島種臣も土佐の板垣退助・後藤象二郎と共に辞職しましたが、当初征韓論に賛成していた大隈重信と大木喬任は岩倉具視・大久保利通側に寝返って留任しています。
 当時、佐賀では帰郷していた島義勇を盟主とする憂国党と称する不平士族が勢力を広げていたため、これを憂慮した江藤新平は、板垣・後藤・副島と共に民撰議院設立建白書を提出した翌日である明治7(1874)年1月13日に不平士族を宥めるため東京を出航します。
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 これに対し、江藤を憎んでいた大久保利通は叛乱のための帰郷だと決めつけて、2月5日に明治天皇から佐賀追討令を取り付けます。2月11日に佐賀へ入った江藤は、結局「征韓党」と称する不平士族グループに担ぎ上げられてしまい、島義勇の憂国党と協力して蹶起する事を余儀無くされてしまいました。佐賀が立てば、薩摩の西郷隆盛も蹶起すると信じたからでした。
 2月15日、土佐藩出身の岩村高俊が新佐賀権令として熊本鎮台兵を率いて佐賀城本丸御殿の県庁に入ると緊張は一挙に高まり、16日夜、蹶起した江藤・島等は佐賀城本丸に奇襲を行って政府軍を逐電させる事に成功しましたが、この時に本丸御殿以下、佐賀城の建造物の大半は炎上してしまいました。
 やがて、参議内務卿大久保利通が自ら率いる政府軍大部隊が佐賀県へ侵攻して来ると、佐賀士族達は力戦奮闘したものの政府軍の物量攻撃の前に後退を余儀無くされ、2月23日の田手川の戦いで佐賀軍の敗勢は決定的となってしまいました。この結果、江藤新平は「薩摩の西郷に援軍を求める」と称して敵前逃亡してしまい、3月1日に佐賀城は開城します。乱の参加者は8000人と号していましたが、最後に佐賀城に拠った者は300人程度でしたので、城下町を火の海にしての徹底抗戦は無駄である事が明白だったのです。
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 江藤新平・島義勇は鹿児島等へ逃れたものの捕縛され斬首、晒し首にされました。その後、佐賀では鍋島村の蓮成寺に設けられた江藤の墓に亡霊が現れて人々の病気を治してくれるとの迷信が広がる事となりました。旧武雄領主鍋島茂昌も乱に加担していましたが、「脅迫されて止む無く従っただけだ」との言い訳が認められて不問に付されています。
 佐賀の乱の際にイギリス留学中だった旧藩主鍋島直大は旧領の惨禍に心を痛め、明治8(1875)年にイギリスから指示をして10万円の私財を投じた旧佐賀藩士族救済事業に乗り出し、7万円を旧藩士全員に平等に分配した上、3万円を共通基金として厚生会社を設立、織物・養蚕・製糸業を起こしました。また、東京府渋谷町大山の旧紀州藩徳川家下屋敷を買い、維新で失職した武士を集めて茶園「松濤園」を開いています。
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 明治9(1876)年4月、佐賀県は懲罰のため旧筑後国を中心とする三潴(ミズマ)県に併合され、同年8月には長崎県へ編入されています。
 明治政府内での肥前藩閥も衰微してしまいましたが、明治11(1878)年の大久保利通暗殺で薩摩藩閥が傾くと、参議内務卿伊藤博文率いる長州藩閥に対抗する領袖として参議大蔵卿大隈重信が力を蓄えました。しかし、明治14(1881)年の政変で大隈も失脚してしまい、佐賀藩出身参議は大木喬任一人になってしまいました。
 この頃、旧佐賀城内には厚生会社によって桑園が開設され、旧藩士の娘達が工女となった製糸・織物業が発展しています。
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 明治16(1883)年5月、7年ぶりに佐賀県が復活し、第一次佐賀県のエリアから対馬を除いた現在の県域が確定する事となりました。県庁所在地は勿論佐賀町でしたが、県庁は佐賀城本丸ではなく、松原の弘道館跡に設けられました。そして、弘道館跡にあった佐賀変則中学校(後の佐賀県佐賀中学校)が本丸跡に移転しています。
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 明治17(1884)年に華族令が発せられると、鍋島直大は侯爵、大木喬任と副島種臣は伯爵、中牟田倉之助海軍中将は子爵に叙されましたが、明治18(1885)年に発足した第一次伊藤博文内閣に佐賀藩出身者は一人も入閣出来ませんでした。
 明治20(1886)年に佐賀県庁は佐賀城北の丸の現在地に移転しています。
 同年、大隈重信が伯爵、佐野常民は子爵に叙されましたが、常民は同年日本赤十字社を設立して社長となり、国際赤十字加盟も果たしています。その後、常民は第一次松方正義内閣の農商務大臣を務め、伯爵に昇爵しました。
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 明治21(1887)年2月、大隈重信伯爵は伊藤内閣の外務大臣に就任して復権を果たし、後に総理大臣を二回務めた外、早稲田大学創設などの業績を残しました。大正5(1916)年に侯爵に昇爵しています。
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 大木喬任伯爵は明治22(1889)年から二年間に亙り第二代枢密院議長を務め、明治25(1892)年にも再任されています。
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 副島種臣伯爵は明治24(1891)年に枢密院副議長に就任、明治25(1891)年には第一次松方内閣の内務大臣となりました。
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 中牟田倉之助子爵中将は明治25(1892)年に海軍軍令部長へ就任しますが、清国北洋艦隊の実力を過大評価して日清開戦に猛反対していたため、明治27年7月17日に海軍大臣西郷従道(サイゴウツグミチ)伯爵大将によって解任されてしまいました。そして同年7月25日、日清両国は交戦状態に陥るのです。
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 明治22(1888)年に市町村制が施行されると佐賀町は佐賀市となり、佐賀郡には23の村が属する事になりました。
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 明治24(1891)年には九州鉄道佐賀線(現JR長崎本線)鳥栖(トス)―佐賀間が開通して交通の便が良くなり、以後佐賀市は軽工業を中心とした地方都市として発展して行く事となります。大正11(1922)年には佐賀郡神野村が佐賀市に編入されました。
 明治33(1900)年、陸奥国盛岡藩出身の新渡戸稲造(ニトベイナゾウ)がアメリカで“Bushido: The Soul of Japan”を出版して高い評価を受け、明治41(1908)年に日本語訳が出版されて評判になると、従来「知る人ぞ知る」存在だった『葉隠』も一躍脚光を浴び、特に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の語は大東亜戦争(1941〜45)中に玉砕や特攻を正当化するため頻繁に引用される様になりました。
 佐賀市はアメリカ軍による爆撃優先順位が180都市中101番目で、昭和20(1945)年8月5日深夜に63機のB29編隊にによる空襲が行われました。佐賀県下初の焼夷弾爆撃で、2196発・439トンが投下されましたが、米軍が目標測定を誤ったため市街中心部の被害は免れ、城下町の古い街並みがそのまま残る事となりました。
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 佐賀市は昭和24(1949)年と昭和28(1953)年の洪水で多数の死者を出したため、治水のため嘉瀬(カセ)川上流に北山ダムの建設が進められ、昭和32(1957)年に完成しています。
 佐賀市は昭和29(1954)年に佐賀郡西与賀村・嘉瀬村・兵庫村・巨勢村・高木瀬村・北川副村・本庄村・鍋島村・金立村・久保泉村を編入して大きく市域を拡大し、昭和30(1955)年には蓮池町も併合しています。
 そして平成17(2005)年には佐賀郡諸富町・大和町・富士町と神埼郡三瀬村、平成19(2007)年には佐賀郡川副町・東与賀町・久保田町も編入して431.42㎢もの面積を持つ広大な市となりました。この結果、佐賀郡は消滅しています。
 令和2(2020)年元日時点での佐賀市の人口は233389人ですが、人口密度は低く540人/㎢に過ぎません。市の木はイチョウ、市の花はサクラと定められています。
 なお、佐賀市のマンホールにはムツゴロウが刻印されています。
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《続く》
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