ちょっとずつ、『大人のための昭和史入門』を読んでいる。
並行して数冊読むのがいつものパターンなので、一旦滞るとなかなか進まない。そろそろ週末。図書館の返却も近いのでとっとと読んじまおう、と手に取った。
適当にパラリラとめくって少し読む。
なんかこれ、佐藤優の文章みたいだな、と思いつつも、なぜかちがうだろうと思い込んで読み進めた。
そのあとであらためてその章の頭から読み始める。タイトルを見たら、佐藤優とあった。
あぁ、ご本人じゃん。
途中の文章に名前は書いていないけれど、なぜかその人の文章とわかる。不思議なものだ。
佐藤氏だけではない。
池上彰も内田樹も、あるいは村上春樹など小説家も、なんとなくつらつらと読んでいて、あぁこの人の文章だなとわかる。しばらく読んでいないけれど、赤川次郎とかもそういう雰囲気があるな。
この『大人のための昭和史〜』、著者としては必ずしも有名な人ばかりではない。肩書を見ると大学の先生で、その専門領域の新書を出されている方もちらほら。
そういう章を読むと、知らなかったことがいろいろ書いてある。
ただ、なんというかねぇ。
佐藤氏の文を読んだときのような、内容がポップアウトしてくる感覚がないんだよね。
読む努力を求められる気がする。あるいは、言っていることが難しいのかもしれない。
ふと思い出したのは、米原万里氏の最後の本。『パンツの面目 ふんどしの沽券』。
タイトルは愉快だし、書こうとしていることもクスっと笑える方向性だったはずなんだけどさ。読みながら感じたのは、なんか報告書みたいだなぁ、という読みにくさ。
パンツについての解説文なんて、あんまりおもしろくないよなぁと思ってふと気がついた。いや、米原万里さんって、すごい文章面白い人のはずだろう、って。
そう、そのはずだったんだ。
『パンツの〜』は米原氏の最後の本だったそうな。当時、末期のガンで苦しんでいたという。
だからあんなに、木で鼻をくくったような文章になってしまったのか。
なんて思ったものだった。
読ませる文章を書くって、ものすごい知力と体力を要求されるんだろうな、なんてことを思った。
よく読む著者の本って、なにげなく手に取っているようで、実は手に取るだけのパワーがあるんだよね。
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