「よし、死んでくるぞっ。金澤(かなざわ)、あばよっ」
俺は夕陽に塗れた山々を眺めながらいった。影を帯びた山脈は雄大で、自分の命などどうでもよくなってしまう。
「よし、いけー。この根性なしー」
同僚である金澤栞(かなざわ しおり)が満面の笑みで俺を見ていう。
「やってやれー。ちゃんと綺麗に飛ぶんだぞっ」
ここからの高さは100m、マンションでいえば30階に相当する。下を眺めると、緩い川が流れており、大きなダムが勢いよく水を飲み込んでいる。
「ああ。飛ぶぞー見とけよ、この野郎」
「野郎じゃねえよーおなごだよー。早く飛べよーびびってんのかー」
「うるせえ、飛ぶっつってんだろう。びびってるよっ」
高所恐怖症の俺の足はすでに陥落している。突風が吹き荒れ、寒気と恐怖で腰まで抜けそうだ。彼女がいなければ尿まで吹き荒れているかもしれない。
「しょうがないなー。先輩のためにカウントしてやるよー。スリーーカウントでいい? スリー、ツー、ワンっ」
「は、早すぎるわっ。もう少し伸ばしてくれ」
俺が突っ込むと、金澤は眉を寄せて血色のいい唇を尖らせた。
「えー。じゃあ先輩の年の数から数えてあげるね。33、32」
「あほ、もういいわっ」
俺は怒りを露わにしたまま、両手を広げてダイブした。
しっかりと安全縄を背中に背負いながら。
◆◆◆
ことの発端は仕事の終わりのアフター5。
成人したばかりの同僚・金澤栞(かなざわ しおり)と居酒屋の飯を食いにいった後、仕事の愚痴から始まり、所長の悪口に発展した俺たちは、職場を辞めてやろうと意気投合したのだ。
俺たちの部署は新たに建てられたばかりなのだが、人が少なく問題ばかり起きる。だがその対処方法が甘く、所長への愚痴が止まらない。
「はー、もう辞めたい。ついでに人生も止めたいよー」
彼女は呪詛を呟きながら熱燗を飲み干していく。ちなみに俺は下戸でアップルジュースを嗜んでいる。
先ほどから店員の視線が痛いのは気のせいではないだろう。
「金澤は他にやりたい仕事ないの?」
「あるよーいっぱい。接客業なら何でもやりたいよー。旅館でしょ、ウェイトレスでしょ、キャビンアテンダントもいいな。でもお父さんが認めてくれないんだー」
金澤の父親は地主で頭が硬いらしい。一度ついた仕事を3年も経たずに辞めるのは道理に反するそうだ。
「そうか。お前なら何でもできそうな気がするけどな。まだ若いし」
新しく建てた営業所は小売りも兼用し、地元のお客さんが付き始めている。それは彼女の持前の明るさと人懐っこさが功を奏しているからだ。
「まあねー。所長がいなかったら、問題ないんだけどねー。あー本社に戻りたいよ、先輩」
彼女と所長の性格は驚くほど逆で、犬猿の仲だ。板挟みにされる俺はどちらにもつかずにいる。本社と支社を行き来し、この職場自体に疲れてきているからだ。
「俺にその権力があればなー、でも金澤がいなければこの部署も潰れるぞ。いなくなってもいいとしたら、俺だな。本社から人を呼べばそれで済む話だからな」
「なに、先輩も辞めたいの?」
「ああ、実はな。ここのやり方が性に合わないんだ。地元の支店に戻りたいけど、まだ勤め始めたばかりだし、帰れないなー」
「ふうん。そっかー」
相槌を打ちながら、金澤はテーブルに肩肘をつけながらスマホをもさぼり始めた。
……こうやってみるとまだ子供だな。
画面に夢中になっている彼女の姿を見て思う。仕事の時は頼りになるのだが、時折見せるはにかんだ笑みはまだ社会人のものではない。
「なあ、金澤。お前も明日休みだよな、何すんの? 友達と釣りでも行くのか」
「んー今、考え中」
……明日はそろそろ洗濯しないと部屋がやばいよな。
一人暮らしの堕落した我が家に思い耽っていると、金澤はスマホの画面を見せてきた。
「先輩、これ見てー。いいこと思いついちゃったっ」
画面の中には着物を着たまま、空を飛んだ女性が写っていた。背中には安全縄を背負っており、成人祝いの文字が入っている。
「ねえねえ、先輩。私と一緒に人生、やめちゃう? 止めちゃう?」
◆◆◆
「へへへ、楽しみだなぁ」
「そ、そうだな……」
次の日。俺たちはレンタカーを借りて、200km離れた山奥に向かっていた。
日本一のバンジージャンプを目指して常磐道を突き進んでいる所だ。
……なぜ俺はここにいるのだろう。
心の中でため息をつきながらハンドルを握る。もちろん人生を止めるつもりなんてないし、愚痴をいいながら明日も頑張ろうという流れで帰る予定だった。
それがなぜこうなった。
「お菓子、いっぱい持ってきちゃった。先輩、これ食べる?」
「い、頂こう」
金澤を横目で眺めながら、じゃがりこを口に運ぶ。ばっちりとメイクをしており、今時の都会女子へとクラスチェンジしている。彼女とは職場でしか会わないので、普段とのギャップに違和感を覚えてしまう。
「ねえねえ、あそこから飛ぶんだよ。先輩、やばくない? やっぱ日本一だけあるねー」
「ああ、やばいな……」
……やばいなんてもんじゃないだろう。
橋の高さに愕然とする。彼女の前でビビる姿は見せられず、寒さを言い訳にして身を震わせた。
青い鉄骨に彩られた大きな橋に、心もとない紐がだらしなく垂れている。あそこから飛ぶのか、まさか冗談だろう。きっと小石を落としても十数秒は掛かる距離だ。
「あ、飛んだ」
色の黒い外人が大声で叫びながら、山と川の間を往復している。反動も凄まじく、風を浴びながら体を前後左右に反転し続けている。
……自殺もんだな、こりゃ。
隣の金澤を見ると、目を輝かせていた。どうやらここで飛ばないという選択肢はないらしい。
営業所で機械の上に足を載せ金を払うと、愛想のいい店員が俺たちの手に数字を書いていった。手には温泉無料券が握らされている。
準備待ちで時間を潰していると、さきほどの外人を含めた集団が顔を真っ青にしたまま帰ってきた。中には涙ぐんでいる者までいる。
……ま、まじかよ。
緊張感が体中を支配する。中年の俺の体は持つのだろうか。それよりも何かいい、言い訳はないか。この場を飛ばないで済む方法を。
金澤を見ると、笑顔のまま椅子の上で足をぶらつかせていた。きっと恐怖心よりも好奇心が勝っているのだろう。
……くそ、大人が負けてたまるかよ。
俺の小さなプライドが根を張る。職場では対等だが、今はプライベートだ。年上の強みを発揮できるのは今しかない。
「なあ、楽しみだな金澤。もっと強い風が吹けばスリルを味わえそうだな」
「ねー、わくわくするねー」
俺のはったりは気にもならないようだ。彼女はスキップしながら橋付近を散歩するように眺めている。
「そういえば、手に書かれた数字はなんだろうな? 順番待ちの数字か? 76って書いてあるから、お前のは77か?」
手の数字を見せると、彼女は咄嗟に自分の手を隠した。
「違うよーそれ、自分の体重だよ。レディにそんなこと聞くなんて、失礼な奴だなぁ」
……お前にも女の心があったのかよ。
心の中で呟きながらも、金澤の私服姿に釘付けになる。これはひょっとしてデートだったりするのだろうか。しかし年の差は一回り以上ある、どちらかといえば父親と娘だ。
心臓の加速とは裏腹に彼女はぽつりと呟いた。
「先輩も大丈夫そうだしさ。一つ、提案があるんだけど」
「な、何だ?」
金澤の切れ長の瞳に怖気づく。すでに普通に飛ぶことでさえ諦めているのに、何をするというのか。
「どっちが先に飛ぶかジャンケンしよっ。ねっ」
◆◆◆
「はい、76kgですねっ! ではこちらから装備をつけさせて頂きますね」
「は、はい……」
金澤に背を向けながら俺の準備は着々と進んでいく。
……くっそ、もう逃げることすらできん。
両足が縄で縛られた俺は捕虜のように、高台へと進む。
「では、飛んだら右足の紐を引っ張って下さいね、それから赤い浮き輪が降りてきますので、それを胸元のリングに……」
先導されても店員の言葉は耳に入ってこない。恐怖から頭の中が真っ白になっていく。業者のカメラマンがこちらに笑顔を見せながら一眼レフを光らせていくが、もはや他人ごとだ。
……怖えよ、何だよこれ。
後ろを振り返ると、金澤がスマホで俺の顔を連射モードで撮っていた。
「お前、何やってんの?」
「何って撮影よ。先輩が飛んでいる所、ばっちり撮ってあげるからね」
「あほ。専属のカメラマンがいるからいいだろう」
「だって、そっちだとお金払わないと見れないんだよ。営業所の皆にも見せてあげるから」
……く、俺にはもう逃げ場はない。
覚悟を決め、息を整える。せめて若い子のデータフォルダーに残るのであれば、それでわが生涯に悔いはないと思うしかない。
「よし、飛ぶぞ。金澤」
「はいはい、わかったから。早く飛んで」
覚悟を決めると、夕日を浴びた山々が視界に入った。風もそよぐように、落ち着きを取り戻し、コンディションはばっちりだ。
……よし、飛ぼう。魅せてやるよ、俺の一世一台のジャンプをっ。
歯を食いしばり金澤に親指を出すと、面倒くさそうに手を振っていた。
「長いから、早く飛んで。後がつかえているから」
「うるせえ、俺にだって心の準備が必要だったんだよ」
「だった? じゃあもうオッケーだね、じゃあ飛んで」
「わかっとるわっ。後で覚えとけよっ」
俺は怒りを露わにしながら、両手を上げた。
◆◆◆
……なんだ、こんなものか。
俺が日本一のバンジージャンプを体験した感想はこの一言に尽きた。
思ったよりも怖くないのだ。遠目で見ていた方が恐怖心は強かったし、子供の頃に乗った40mのフリーフォールの方が遥かに怖かった。時間が短かったのもあるかもしれない。
ただ唯一の誤算は背中の紐を固定するためにつけた縄が股間を食い込み、それが強めにあれを刺激するくらいだった。
2、3回バウンドを繰り返し店員からの合図を受けて上がる準備を終えると、俺の体はエスカレーターのように自動的に上がっていく。
……呆気ないけど、来てよかったな。
上昇していく中で、再び山が目に入る。そこにはさきほどよりも美しく彩られた山脈があった。
きっと心が落ち着いたことで、景色を見る余裕が生まれたのだろう。
……絶好のスポットじゃないか。
縄に縋りながら山の景色を堪能し、ジャンプ台に戻ると金澤がスタンバイしていた。
「金澤、めちゃくちゃ怖かったぞ。覚悟しとけよ」
「え、ま、まじで?」
脅しを掛けると、金澤は顔が青ざめて足が震えていた。血色のいい唇まで萎んでいる。
「せ、先輩。や、やっぱりこわいよぅ」
◆◆◆
……こいつも虚勢を張っていたのか。
金澤の縋るような瞳を見て理解する。プライベートで会ったことがなかったため、彼女の本性まではわからなかったのだ。
きっと俺の前で恰好悪い姿は見せられないと思っていたのだろう。職場で何でもできる姿を見せていたからだ。
「金澤、大丈夫だ。俺でさえ怖くなかった。お前なら飛べるさ。さっきのは嘘だ」
「ほ、ほんと? 嘘じゃない?」
「ああ、嘘じゃない。大丈夫。俺を信じろ」
「うう、わかったよぅ」
金澤は十字架に張り付けられたように高台の前で立ち竦んでいる。
「ちゃんと写真撮ってやるからな。カッコいい姿見せてくれよ」
「うんっ、ちゃんと見ててね」
金澤は背をピンと張りながら、両手を広げた。
……お、身長が低い割には結構、胸があるな。
金澤の胸元に目がいくと、彼女はそれを察知したのか顔を真っ赤にして怒鳴った。
「どこ見てんのよっ」
「ちゃんと見てるんだ、全部」
「そこじゃない、ジャンプ姿」
「はいはい。じゃあカウントしてやるからな。お前の体重からでいいよな。よんじゅう……」
「え? まさか、あたしの手の数字みたの? 信じらんない」
「いや、さっき店員が叫んでるのを訊いた」
「もう、まじで最悪っ」
彼女は怒りのあまり、地団太を踏むと足を滑らした。
「「あ」」
◆◆◆
「あーバンジー終わっちゃったね」
「そうだな」
一世一代の仕事を終えた俺たちは、無料券を片手に温泉を浴び食事処でくつろいでいた。
「しかし、あの時は焦ったな。金澤、バク転するように飛んでいったのにはびびったわ」
「まあ、結果オーライよっ」
金澤は決め顔を作ってピースする。彼女が力を抜いて飛んだため、絵にになるジャンプ姿が撮影されていたのだ。
ちなみに俺のは鶴の舞のような、むち打ちになる危険性を孕んだ飛び方だった。恥ずかしさのあまり、もう一度、身を投げだしたい気分だ。
「いい思い出もできたし、はぁー、風呂上がりに飲むメロンソーダは最高だなぁ」
艶のいい唇から滴が胸元に零れていく。風呂上がりだというのに、彼女は再びメイクを決めている。
「金澤、酒飲んでもいいぞ? どうせ帰り運転するのは俺だし」
「いいよ、別に。お酒飲まなくても楽しいし」
「ふうん、そうか」
「ねえ、先輩。今度はどこに行こうか?」
「え、今度?」
俺が目を丸くすると、金澤は目を輝かせていった。
「もちろんバンジーだけで終わりじゃないよね。これじゃあ全然死んだ気にならないぞっ」
「もう充分だろう。これ以上、高い所はないじゃないか」
俺たちは日本一のバンジージャンプを飛んだのだ。これで満足しなければ罰が当たるだろう。
「まだあるじゃない。その上が」
「その上?」
「そ。空から飛べばいいじゃない」
体に再び緊張が走り汗が滴る。きっとこれは風呂上がりだからじゃない。
「な、お前、な、何いって……」
「あ、見つけた。栃木に日本一のスカイダイビングがあるんだって。一泊あればいけそうね」
「一泊? お前、それ大丈夫なのか?」
俺が驚きながら見つめると、彼女は数字の消えかかった右手で俺の手を握った。
「うん、大丈夫。先輩がよければ、だけど」
薄着になった彼女の胸元が緩む。その姿でおねだりするのは反則だろう。
「し、仕方ない。やってやろうじゃねえか」
「うん。じゃ、来月ね。それまで仕事も頑張るし、止めないから」
……な、なんだよ。この展開。
再び心の中でため息をつくが、楽しんでいる自分も垣間見える。少女のようで大人な金澤を見て、大人であるはずの俺が少年の心を取り戻していく。
一回りも離れた彼女に翻弄されるのも悪くない。
「ああ、また飛ぼうな」
「やったー、楽しみだねぇ、先輩」
そういって彼女はメロンソーダを飲みながら天ぷらうどんを食していった。
……まったく、バンジーよりもお前の方が怖いよ。
彼女の屈託のない笑顔を見て、確信する。どうやら俺は戻るための紐をつけ忘れて、飛んでしまっていたらしい。
一人の大人の少女の世界に――。
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