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2016年06月12日15:00

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Wenn man hat keinen Platz zu bleiben, wie sollte er/sie tun?(人は自分の居場所が無い時、どうすべきだろうか)

(トップの写真は左から
 プラトン創設の学校アカデメイア遺跡、
 アリストテレス創設の学校リュケイオン遺跡、
 仏陀が沈黙の後、初転法輪した地サルナート(鹿野苑)。)


人は
自分に居場所が無いと感じた時
しかも同時に
自分の為すべき事を深く自覚している時
どうすべきだろうか。

単に居場所が無いと感じた人は
引き籠るのかもしれない。


布団を被(かぶ)って寝ている方が良いと思うの
かもしれない。
(ただし、上の動画の主人公は後に
 奥地圭子さんが主催する
 フリースクール東京シューレ
 「居場所」を見出した。)

けれども
為すべき事を自覚し
しかも同時に
その為すべき事が現実の世界で
理解されない事を悟ってしまった場合
どうすべきだろうか。

(上記の NPO 法人 Tokyo Shure の主催者
 のように
 自らが感じた
 「子どもは学校以外の場所で
  育つことも出来る」
 を実践すること等は
 その一つの答えであると思われる。
 そもそも
 プラトンの「アカデメイア」も
 アリストテレスの「リュケイオン」も
 精神を自由に用いる学を目指す場所
 として創設されていた筈だから
 「教育」の端緒は
 「人間が自由に精神を用いる場所を与える」
 ということであり
 それを自覚した者は
 すべからく
 「学校」を創設することが
 das Sollende(当為)として
 求められている
 ということが答えだろう。)

ボクの妻は
ボクよりもずっと悟っていて
「この世の中に何も存在しなければ良かった」
と言う。
そして何かを残そうとするボクに対して
「何も存在しなければ
 何かを残す為に
 苦しまなくても良い」
と言う。

けれどもボクは苦しんでいるわけではない。
「自己内在他者」としての「全祖先の総意」
のままに生きているだけのことだ。
その「全祖先の総意」に従って生きる事が
現存する自分の周囲の社会環境と
乖離しているように見える事が
残念なだけだ。

ボクの言う事は
ボクが言っているのではなく
私自身に内在する私以外の存在に
言わされているのだ
ということ

誰にも理解してもらえない事
誰にも伝わらない事
そして同時に
誰にも伝えられない事

とても残念なだけだ。

(しかし
 妻の言う事も
 ボクの言う事も
 間違っている。

 というのは
 妻の主張
 「宇宙が存在しなければよかったのに」
 は
 宇宙が存在することの是非はともあれ
 既に存在してしまっている以上
 その存在を否定することは
 現実逃避だからであり
 そのことからは何も生まれないからだ。
 つまり感動も喜びも生み出されないからだ。
 妻なら
 「感動も喜びも
  存在が無ければ生み出す必要もない」
 と反論するだろうが
 それもやはり「存在する現実」を捨象しているので
 現実逃避だと言われても反論できない。

 また
 ボクの誤りは
 「伝えるべきだと自覚」しているのであれば
 「伝えられない」と絶望するのではなく
 絶望せずに「伝えようと努力すること」が
 まずもって大切であり
 その事を為し続ける姿にこそ
 人は共鳴し感動するものだからだ。
 その意味でボクは
 「社会教育者」として
 本当の哲学を伝える「場所」を
 自宅に設立する事から
 始めてゆくのでなければならない。)

ソクラテス(薬殺刑)も
イエス(磔刑)も
佛陀(謀殺?)も
ブルーノ(火刑)も
似たような気持ちだったに違いない。

悟りも啓示も
おそらくは永遠に理解されない。
けれども
永遠に
悟りも啓示も
人々を導くのだろう。

人を動かす力は
人には感じられない。

(「悟りも啓示も
  通常の意識には現われない」
 あるいは
 「宗教の本義は誰にも伝えられない」
 ということは
 確かに或る一定の境域においては
 「真実」かもしれない。
 けれども
 「その真実」は
 「真実の全体」ではない。
 「そこに含まれてはいない真実」
 を
 「どうせ伝わらないのだから」
 と伝えないで
 「沈黙」を守る事も
 一つの「処世術」なのかもしれないが
 そこを敢えて突破して
 「教説」に転じたからこそ
 仏教やキリスト教は
 今に伝わっているのだから。)


人は自分が動かされている事に
気付かずに動いており
自分の意志も
自分が決めたつもりでいても
自分ではない自分に内在する他者の他律に
動かされている。

けれどもその他律は
自律に内在する他律であり
しかも
自分の自律を包み込んでいる他律だ。

なので
「自律内在他律」

「自律」の「内面」に存在しながら
「自律」という「特殊」を包む「一般」であり
その存在は
単なる概念的存在ではなく実在だ。

しかもその
「自律内在他律」

自分に敵対し
自分に対して恨みの感情を抱き
それ故に
自分のことをを破壊しようと攻撃してくるような
「他者」ではない。

それは
「自分の直系の祖先の意志の総体」
であり
自分の祖先は
どこまでも
自分自身を守る他者だ。

その他律が我々の自律を包み込んで
我々の自律の根基と成っているのだけれども
その根基は
意識に現われない。

意識に現われないので
ボクが言っても誰も理解しない。

なのでボクは
自分が直観した事を
書物に残すのだ。

ボクのことなんて
誰も覚えてくれる必要はない。

けれども
ボクに現象した
ボクではない意志は
ボクとは無関係な
客観的存在だ。

なので
それは現われて残る価値を持っている。

そういう価値は
残るべきであり
その価値に気付いた者は
その価値を存在させるべきである。

そういう事実は
そんなに頻繁に何者かの意識に
現象するものではない。

なので
希少価値がある。
だからこそ
このまま消えるのは
勿体無いと思う。

自分の
地位も名誉も財産も
必要ない。

我々の命はいずれ尽きる。
それは自然なことだ。

そして
自分に現われた事実が
存在意義を持つと信じるのであれば
この非存在を存在化させる権利は
持っていいはずだ。

けれども
社会に所属して
これを為そうとすると
妨害される。

なので私は
社会に属さずに
歴史へこの事実を
残そうと思う。

書物として残れば
いつか誰かが理解するだろう。

その日の為に
その人の為に
残すのだ。

本当は博士号も
どうだっていいのだ。
けれども
京大に来た事実を
意味化する為に
博士号だけは取ろうと思う。

だけど
その為に
妻に経済的な負担をかける事が
馬鹿馬鹿しい。

だからといって
自分が働く事が
自分を潰す事になるのは
一体どういう事なのだ。

甘えているわけでも
怠けているわけでもない。
生理が意識と意志を越えて拒絶するので
どうしようもない。

意識や意志で生理を抑えようとしても
精神が破壊されるだけであり
この矛盾は
論理的な矛盾ではなく
生理的な矛盾であるから
論理は無力である。

みなは
「甘えている」
「怠けている」
「無駄口叩いてないで働け」
と正論を言う。

正論は
「事実」の中では
ナンセンスなのだということを
「事実」を経験できない者には
理解出来ない。

精神を支配する生理の前には
現実を支配する論理は無意味なのだ。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

一つの結論。

井上円了も言うように
教育は
学校教育だけではなく
まずは家庭教育
それから学校教育
しかし最後は
社会教育が大事で

私は
社会教育を求める人に
「居場所を与える」仕事を
すべき人間なのだ。

そして私が伝えたい事は
「本当の学問」であり
「正しい判断」であり
「中立公平なものの見方考え方をする為に
 何を為すべきなのか」である。

つまり
この世に生を受けた人間が
この世で如何に生きるべきかの
正しい指針を与えられるような場所を
創設することが肝心な事で

そのような「場所」が
現在の「学校教育」では
「不可能」であるからこそ
「社会教育」の「領域」で
「補完」されなければならない。

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最終更新
平成28(2016)年6月14日 午前0時43分
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