9.
屋久島二日目。
天気予報通り、雲一つない青空が広がっていた。昨日まではぼんやりと曇っていた景色が嘘みたいで、雄大な山が燦々(さんさん)と輝いている。
椿と共に弁当を受け取った後、レンタカーに乗り込んで、もののけの森に出かけることにした。運転は変わらず彼がしてくれている。
ガタガタの山道を想定していたが、道路は思っていたよりも整備されていた。どうやらここから一時間くらいの距離にあるらしい。
斜面が急な道に入り始めると、自然の鹿や猿がぽつりぽつりと現れ始めた。椿は途中で車を止め夢中でシャッターを切っている。
椿の食い入るような姿を見て母親の面影を感じる。きっと百合と二人で来ていたとしても同じ構図になっていたのかもしれない。
さらに進むと道が細くなり一車道に変わった。椿はカーブミラーを覗き込みながら慎重に運転している。山道の中で地面に根を下ろしている葉っぱがあった。椿に訊いてみた所、クワズイモという種類の葉っぱらしい。何でも観葉植物として結構人気があるみたいだ。
道なりに進んで行くと広い駐車場が見えた。駐車スペースに空きが少ない所をみると大勢の人がすでに登っているらしい。
車から降りると空気の冷たさが身を震わした。標高は600mを越えているため夏でも寒い。椿と入念に準備運動をすませ登山道の入り口へ向かう。規定の登山料金を払い足を踏み出した。
ついに登山の開始だ。
「天気がよくて本当によかったですね」椿はスキップをするかのように軽快に進んでいく。
「本当に。ここで晴れるなんて珍しいんでしょうね」
歩く距離が増えるにつれて段々と椿との距離が開いてきた。彼の歩幅は自分の二倍くらいある。身長が違うので差が出るのは当たり前なのだが、それにしても少々離れすぎだ。きっと高まる好奇心を押さえきれないのだろう。
椿はそのことに気づいたらしく振り返って頭を下げてきた。
「すいません、ちょっとペースが早すぎましたね」慌てて立ち止まりばつが悪そうに頭を掻いている。
リリーは小さくかぶりを振った。
「いえいえ、大丈夫ですよ。春花さんは写真を撮りながらなので私とだいたい同じペースになります」息が切れそうになるのを抑えながら答える。
「ではちょっとだけ先に行かせて貰いますね。あんまり遠くまでは行かないようにしますので」
……子供だ。
リリーは微笑んで小さく手を振った。とても事件解決に導いた手腕は見えない。
椿は大股で進みながらゆっくりフレームを考えるように写真を撮る。その後に自分が地面をゆっくり噛み締めながら歩いていく感じだ。着かず離れずのペースで登山は進行していく。
標高が600mあるとはいえやはり真夏だ。先に進むにつれ体中から汗が流れ出てくる。暑さに敵わず一枚余分に着ていたレインコートを脱ぎ彼の元へと足を踏み出していった。
登りながら一つ、気づいたことがある。登山道に二十m先毎に赤いリボンがつけられているのだ。これを辿っていけば道を間違えずに登っていけるということなのだろう。
リボンを目印に慎重に岩でできた道を通って行くと途中に吊橋が見えてきた。その橋の上で椿がお茶で喉を潤しながらリリーを待っていた。
「この場所は最高ですね。どこを取ってもいい写真になるので楽しいです」
椿が夢中になるのも無理はない。確かにこの山道は幻想的だ。視界はすでにグリーンで覆われ始めている。岩のような石も倒れている木も、地上に出ている腐った太い根まで全て生きているようだ。
……本当にここは日本なのだろうか。
自然に興味がない私でさえこの森はとても居心地がいい。空気の違いに気づけるなんて自分の体ではないみたいだ。はたして椿にはこの景色がどのように見えているのだろう?
風景に囚われると椿の姿が見えなくなってしまいそうになる。彼に遅れをとるまいと彼女は足を速めた。
登山を開始して二時間。
ようやくもののけの森と呼ばれる所に到着したようだ。辺り一面に苔が隙間なく生えており空気までも苔の味がしそうだ。
全てがグリーンで一体化しているこの森を桃子が見れば、何といって喜んでいただろうか。
空から差し込む光で苔が宝石のように輝いている。昨日は雨がたくさん降ったからだろう。苔が光に滲みエメラルドグリーンに輝いている。
今まで登ってきた景色とはまた違った趣があった。朽ちていく倒木のすみずみにまで苔は張り巡り、一つのオブジェのような存在感を放っている。他の観光客達も立ち止まりそれぞれのポーズで森を背景に写真を撮っていた。
名所のようでさすがに人で賑わっており歓声をあげる声が途切れることなく聞こえてくる。ここで人がいなければさらに現実から離れることができるだろうな、と少し残念に思う。
「綺麗ですね」
「ええ、本当に」
杉が張っている枝は全ての天井を覆い光が入る隙間を与えなかった。しかしその僅かな隙間から入る木漏れ日がなんともいえないくらい美しい。
山頂前の休憩所に辿り着くと、たくさんの観光客が昼食をとっていた。何でも太鼓岩ではスペースが狭く昼食をとっていては他の観光客の迷惑になるらしい。
「大分歩きましたね。足がもうパンパンですよ」両足を軽く揉みながらいう。「でもきついのになぜか気持ちいいんです。これが山登りなんでしょうか」
「そうでしょうね、きっと」椿は美味そうに水を飲みながら答えた。「僕も久しぶりです、こんなに楽しい登山は今までに経験したことがありません」
彼の顔を見れば楽しんでいるのはわかる。だが何がそんなに楽しいのだろう。その感情はわからない。
「春花さんにはここはどんな風に見えるんです? 花屋さんだからこそ、ここの植物を扱いたいと思いますか」
椿は約半年前に自分の眼では思いつかなかった視点で真犯人を言い当てた。植物と感情に着手しなかったことが盲点だった。
「うーん、そうは思わないですね」
椿は頭を捻りながら答える。
「ここの植物達はすでに完成されているんです。花の扱いで大事なのはそれぞれの個性を生かすことにあるんですが、ここの植物達は皆美しい表情を作っている。なので扱ってはいけない、神聖なものに感じますね。ここの森は全体で一つの音楽を奏でているんですよ」
「え? 音楽ですか」
「そう、生きもの、としてです」
椿は唇を舐めて続けた。
「ここの森の中には様々な楽器を持った演奏者がたくさんいるんです。苔に覆われた倒木、石なんかはメロディの基礎となる土台を作るドラムですかね。川の水の流れはメロディを作るピアノ、新しい木々や大昔から生きている木々は煌びやかな音を作るバイオリンや重厚な音を作るチェロのよう。それを纏めるのは光の指揮者。全てが自分の役割を全うしていて、とても触れてはいけない領域にあるようなんです」
……凄い。
リリーは心の中で驚嘆した。彼は音がないものにも音を感じることができるのだ。それはきっと植物の声を聴こうとしているからかもしれない。
「すいません、意味のわからないことを申して」椿は頭を掻きながら照れくさそうにしている。「ご飯も食べましたし先を急ぎましょうか」
椿は急いでおにぎりを口に突っ込んで立ち上がった。しかし喉に詰まらせてとむせている。彼の焦っている姿を見て彼女は自然と笑みが零れた。
昼食を終え、リュックを背負い直す。後二十分も登れば頂上につくだろう。頂上ではどんな景色が見られるのだろう。椿の意見も楽しみだ。
さらに急な角度になり一歩登るだけでも息が切れそうになった。大股で一歩一歩登っていかなければいけない。近くの枝を優しく握りながら慎重に登っていく。
しかし山登りは思っていたよりも楽しい。百合もこうやって山登りを楽しんでいたのかと思うと自然と心が軽くなっていく。
彼女は山登りの楽しみは頂上ではなく過程にあるといっていた。目標を達成することだけが生きがいだった自分には考えられないことだった。
捜査においても同じことがいえる。誰が犯人か結果をいい当てることだけに論点を注いできていた。
それは父の教えだ。結果だけを重視し後ろを振り返らず先に進む。感情を制御するには一番楽な方法だった。
……一度捨てた感情に身を委ねてもいいのだろうか。
心の中で再び葛藤が続く。山登りをすることによって言葉にはできない何かが心のガラス玉を溶かそうとしていく。
……このまま、母親の声に身を委ねたい。
頂上に向かうにつれて、理論武装していた自分の心が形を崩し、母親への思いが溢れていく。父親の教えが遠のき、感情に溺れそうになる。
……いけない、頭を切り替えなければ。
手足に意識を集中しガラス玉に蓋をする。山頂の景色はすぐそこまできている。このまま感情に身を任せていたら、刑事として仕事ができなくなってしまう。
……しかし、刑事にとって感情こそ必要な要素ではないだろうか。
父親の思いに背き、仕事ができるのだろうか。
心の葛藤を迎えたまま、彼女は山頂を目指していく。この森に答えがあることを祈りながら――。
10.
山頂へと辿り着くと、椿が待っていた。息は整っており、登るスピードの速さを実感させる。
「どうでした? 太鼓岩からの眺めは」
「いえ、冬月さんと一緒に見ようと思って待っていたんです」
「そうでしたか。ありがとうございます、じゃあ一緒に見ましょうか」
太鼓岩の上に登って景色を一瞥する。遠くまで山が続いており山自体が地平線になっている。この景色には圧倒される他ない。
岩の周りには柵はなく滑れば命の保証はなさそうだ。岩の先端に来ると足が震えそのまま座りこんでしまう。
まっすぐに見下ろすと中心に岩で作られた道があった。きっとあそこから登ってきたのだろう。
「絶景ですね」
リリーは伸びをしながら風を全身で浴びた。椿と景色を眺めていると他の観光客が連れてきたガイドが声を上げた。
「右側の山が九州最高峰の宮之浦岳になります。そしてあの辺りに縄文杉があるんです」
ガイドの指差す方向を眺める。その先を想像するだけで体が重たくなり、さらに空気が薄くなったように感じてしまう。
「明日は宮之浦岳には行かないんですよね?」
「ええ、そちらから回って縄文杉に行くルートもあるんですがかなり上級者向けです」椿はガイドに習って説明する。「縄文杉はトロッコ道と呼ばれる方から行くのが一般的です。なので山の方からは難しいですね」
ほっと溜息が漏れる。ここまで来ても心の準備ができていないのだと後悔してしまう。
「冬月さん?」
椿を見ると、心配そうな顔でこちらを見ていた。これ以上、落ち込んだ様子は見せられない。
「すいません。ちょっとぼーっとしてて」無理やり、笑顔を作るが彼の表情は変わらない。「大丈夫です、気分が悪いわけじゃないんです」
「それならいいのですが……」
百合とここに来た覚えはない。それでも彼女なら、必ず来ているだろうと確信させる何かがある。
……彼女はこの景色を見て何を思ったのだろう。
先ほどまで感じていた母親の面影はもはやない。
やはり自分には理論しかないのだ、と心の奥にあるガラス玉が告げていく。
頂上の景色を堪能した後は下山へと向かった。
登山を始め四時間がたっている。後二時間もすれば帰れるだろう。
大分足にきている、集中しないと今にも崩れ落ちそうだ。脹脛
ふくらはぎ
を掴んでみるとすでに指が入る隙間がない程固まっていた。
「やっぱり下山は足にきますね」椿はそういいながらも微笑む。「春花さんは楽しそうですね。登山が嫌いだといっていたのが嘘みたいです」
「本当に昔は嫌いだったんですよ」彼はステッキを巧みに扱いながらいう。「そもそもどうして登山なんかするのだろう、と子供の頃はずっと思っていましたから」
……確かに、どうして登山という趣味があるのだろう?
深く思考に集中していく。その前になぜこのような不便な土地で昔の日本人は生活していたのだろうと疑問が沸く。海を越えれば本土があるのにだ。
「春花さんはなぜ登山があると思うんです?」
「忘れないため、ですね」椿は即答する。「ここに住んでいる人にとっては当たり前の行為なんでしょうけど、僕たちの所では非日常ですよね。便利な世の中だけじゃ、自分で動かないことが当たり前になってしまって、本質を忘れてしまいます」
彼の意見を参考にして原住民の生活を想像する。ここにある杉は上等なものだから生活するには困らない。お互い知っている人達が共同するため争いが起こりにくい。だが自然の中に住むとなれば危険はもちろんある。
森を愛していなければ住むことはできない、とリリーは思った。祖先から伝わる伝統を守ろうとする意志がなければこの地で生活をすることはできない。血の強さこそが屋久島の人に眠る絆の象徴なのだろう。
「感覚だけで動ける世界って、登山でしか味わえないと思うんですよ。普段はやっぱり時間に追われてしまいますから」
……彼のいう通りだ。
百合の言葉が蘇る。彼女は一瞬の輝きを求めて縄文杉へ向かった。そこには理論が入る余地はなく、自分の感覚だけが支配する世界だった。
自然が当たり前にある世界。
自然がないことが当たり前の世界。
きっとお互いの価値観は違うものだ。森に生きる人達は自然を愛し木を自分たちの家族同様に丁寧に扱うだろう。はたまた都会に生きる人達は便利さを追求し時間を貴重に扱う。自然について考えることは時間の無駄だと思うかもしれない。自分の父親のようにだ。
「どちらも大切なものですから、どっちも忘れたくないんです」
椿の言葉に心が揺れ動く。彼の言葉の重みに押し潰されそうになる。
……どちらが正しいなんてない、どちらも正しいことなんだ。
理論は間違っていないし正解だ。理論があるからこそ、自分は強い正義感を持つことができるし、誇りを持って進むことができる。
だから、感情も―――。
「……なんとなく、わかります」リリーは息を整えていった。「本質はわかっていないのですけど、春花さんのいいたいことはわかりますよ」
心の奥底にある感情が再び揺れ動き始めていく。椿と出会ってその蓋は着実に緩くなってきている。このまま蓋を取り除いてしまってもいいような気さえしてしまう。
だが今まで押し殺してきた感情をすぐに受け入れることができない。今まで抑えていたものに飲み込まれてしまう恐れがあるからだ。
……彼と一緒にいれたら、ゆっくりと解いていけるかもしれない。
これからも心の中で葛藤は延々と続いていくだろう。
それでも母親の感情を併せ持つ椿となら、自分のガラス玉を外せるような気がした。
続き(5/7)→
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