10.
結局一睡もすることができずリリーは眩しい光を遮りながらブラックコーヒーで目を覚ました。普段ならコーヒーなど飲まないが徹夜明けには飲まずにはいられない。
鑑識官の話によると、刃物が二つ使われた形跡があったらしく、何でもナイフにはシャープナーで砥がれた跡があり刃が通常のものより痛んでいたとのことだ。もう一つの傷口には綺麗に砥がれたナイフで切られており、明確な差が生じていたとのことだった。
そして驚くべきことにこの二つの傷跡はほとんど同じ厚さである。これには鑑識官も唸っていた。切り口の入り方が微妙に違うだけで一本の凶器で間違いないと判断していたそうだ。
曲刃は入り込むため最初の切り口が深くなっている。だがもう一つあった切り口は初動が浅く進むにつれて深くなっているとのことだった。つまり綾梅を正面にして直刃のナイフで切り込んだというわけだ。
切り口は右から左に下がっている。桃子の身長では無理だ。綾梅と同等かそれ以上の身長でなくては無理だろう。
この話を聞いて再び落ち込むしかない、その証拠品はおそらく抹消されているだろう。もはや手の打ちようがない。
署内は桃子を自白させようという空気になっていた。当然だ、彼女にはアリバイはなく他に怪しい人物は上がっていないのだから。
……こういう時こそ、冷静にならなければ。
両手で頬を叩き気合を入れ直す。自分しか桃子を助けることはできないのだ、弱気になってどうする。
とりあえず皐月のアリバイを確認することが先決だ。もし皐月が犯人なら高速バスに乗る時間すらないはずだ、島根行きのバスを確認すれば突破口は生まれるだろう。
だがここで二人とも出る訳には行かない。
「ガイシャの交友関係を洗うんじゃなかったんですか」万作が口を尖らせる。
「それは署にいてもできるでしょ」
「署で行えば限りがあります、どうか外に出させて下さいよ」
「今私達が出たら秋風桃子は――」
リリーが話し終わる前に、万作が横から口を挟んだ。
「確かにまずいですね」
今自分達が出て行けば他の捜査官が桃子に尋問するだろう。周りから早く出て行けという冷たい風が容赦なく流れている。彼女に見張りをつけて置かなければならない。
「調べないと行けないことがあるの、それが終わればすぐに連絡するわ」
「わかりました。それにしても先輩、やけに気合入ってますね。目の下にくまが出来てますよ」
「うるさいわねっ、つけてんのよ」
気がつくと万作の足を思いっきり踏んでいた。彼の雄たけびを聞きながら彼女は署を後にした。
「三月十七日? ああ、あの色黒のにーちゃんか」
バスの運転手は皐月に対する記憶があるらしく軽快に答えてくれた。
「バスは二十二時に出発するんだけどね、深夜バスだから早めに来て準備しておくわけよ。確かにーちゃんは一番乗りだったな」運転手は思い出すように顎を擦っている。
「それは何時頃でした?」
運転手は予約表を取り出し、サインを確認している。
「二十一時三十二分となってるな。にーちゃんは入って来た瞬間に大きな着信音を鳴らしてね。すぐに出ていったよ。それで電話が終わったら申し訳ないがキャンセルするとね」
皐月の供述通りだった。思わず苦虫を噛み締めたような憂鬱な気分が胸に迫る。しかしここで諦めるわけにはいかない。
「その時の服装を覚えていますか、皐月さんに間違いないという証明はしましたか」
運転手は唸りながら顎をさすった。
「確か明るい服装だったのは覚えてるんだけどね。顔はこんな感じだったかな、帽子を深く被っていて詳しくは見てないけど。ただ雰囲気的にこんな感じだったと思うよ」
高速バスとなれば身分を明かす必要はない、つまり囮を用意しても問題ないことになる。まさか皐月はそれまでも計算にいれていたのではないだろうか。
「そうですか、ありがとうございます」
頭を下げてバス会社を後にし次にタクシー乗り場に向かう。皐月はバスに乗ろうとした後、最寄のタクシーで大学側のゲートに向かったとのことだった。周辺のタクシーに聞き込みを行う。
皐月を乗せたタクシーはすぐに見つかった。今日は運がいいと胸を撫で下ろしながら訊き込みを再会する。
「ええ、三月十七日ね、確かに乗せましたよ」
「その時の状況を教えてくれませんか?」
運転手は車から降りて続けた。
「確か夜の九時半頃だったかな、色の黒い若者でね。服装は明るい感じだったかなぁ。目がチカチカするような色だったよ。最近の若いのは奇抜なファッションだからねぇ。行き先だけいった後、特に車内では会話はなかったよ」
「その時間はなぜ九時半だと覚えているんです? 何か理由があれば教えて下さい」
「そうそう、確かお客さんに時間を訊かれたんだよ。今何時かってね。それで覚えてたんだ」運転手はぽんと手を叩いた。「それで大学ゲート前で降ろしたんだけど、連れが来るから待っていてくれっていわれてね。二十分くらいかなぁ。そこで待ってたら、女の子を連れてきてね。そのまま彼の自宅まで行ったよ」
「なるほど、大学のゲートについたのは何時頃ですか?」
「確か九時五十分くらいだったな。メーターを回しておいていいといわれたから、よく覚えてるよ」
「ということは十時十分くらいに発車したということですね」
「そうなるね」運転手はそこまで答えて、リリーに質問した。
「確か連れて来た子、とんでもないものを見たような顔をしていたなぁ。もしかしてこの間の自宅で起きた殺人を追ってるの?」
リリーはゆっくりと首を縦に振った。本来なら告げることはできない。だが今は本当に時間が惜しいのだ。なんとしてでも情報を引き出さなければならない。
「ええ最後まで確認を取らないといけないんです」
「大変だねぇ、刑事も」運転手は腕を組んで煙草に火をつけた。
「二人が戻って来てからどんな様子でした?」
「んーそういえば最初、にーちゃんの方が帽子を被ってたんだけど。次に乗る時は彼女に被せてたな。ひどく落ち込んでるようだったから顔を隠すためかな」
皐月の写真をみせると、皐月で間違いないと証言した。
「そうですか、貴重な証言ありがとうございます。最初の時と二回目に入って来た時、彼の様子に変わりはありませんでしたか?」
「そうだねぇ、最初に乗って来た時は落ち着きがなかったなぁ。横になったりジャケットを脱いだりしてね。確かオレンジ色のジャケットだったよ。車内の中でも光ってたもんなぁ。それにジャケットの中には真っ赤なTシャツを着ていたんだよ」
「赤いTシャツ?」
「うん。何のロゴも入ってないような真っ赤なやつだったな。二回目の時は連れが来ても会話は全くなかったね。こっちに怪しまれると思ったのかもね」
皐月が犯人でないのなら当然の反応だろう。しかしその瞬間にある考えがよぎった。
まさか、そういうことか―――。
「ありがとうございました。是非参考にさせて頂きます」
リリーは運転手に礼をいった後、万作に連絡した。
「万作、今どこにいるの?」
「署にいろ、といったのは先輩じゃないですか」万作が肩をすくめて椅子に座っている様子が浮かぶ。
「万作、ちょっと行ってきて欲しい所があるんだけど」
「わかりました。どこですか?」
リリーは高鳴る胸を抑えながらいった。
「餡パンが美味しかったパン屋よ」
11.
リリーはそのままタクシーで再び『和盆栽』に向かった。皐月はどうやら出かけているらしく、蘇鉄が一人残っていた。
……話をするのには丁度いい。
彼女は胸を撫で下ろしながら庭園に踏み込む。タオルを頭に巻いている大男がこっちに向かって手を振ってきた。
「やあ、刑事さん。何か掴めたかい?」
「ええ。だいぶ事件の概要が掴めました」
「そうか、それで?」
リリーは厳しい口調に切り替えて、蘇鉄の顔を見つめた。
「桃子ちゃんではない犯人が見つかりそうなんです」
蘇鉄は大きく笑顔を見せた。
「そりゃよかった。どうぞ上がっていってくれ」
蘇鉄の案内にしたがって応接室に入る。
「すまねえな、あいつは今仕事に行ってるんだ」
「いえ、今日は蘇鉄さんにお聞きしたいことがありまして」
蘇鉄は驚いた様子をみせたがすぐに切り替えた。
「そうかい、あいつは足立美術館について何かいってたか?」
「そちらの話は聞いていないので息子さんから直接訊かれた方がいいと思いますよ」
「本当に行ったのかなぁ」蘇鉄の顔が曇る。「アイツからその話を聞いてないんだ。俺からあいつに話し掛けるのは苦手でね。なんせあいつはこの家から十年離れていたんだ」
「その話は……訊いてもいいのですか?」
「ああ。あいつは花屋になりたかったらしい。それで十歳の頃から親戚の花屋に預けていたんだ。そこの夫婦には子供がいなくてね、お互いがすんなり納得しちまったから、そのまま預けることにしたんだ」
……なるほど。
父親の技術を評価しないというのは花屋としての視点があるからだろう。皐月のいう通り親子関係は上手くいってないらしい。
「こちらに戻ってきたということは庭師として跡を継ぐ気になったんです?」
「そうだ。皐月の中では両天秤に掛けていたんだろうな。それで結局は庭師になると決めたわけだ。やっぱり俺の子だ。わはは」
リリーが溜息をつこうとすると蘇鉄が切り返してきた。
「それで話っていうのはなんだい?」
「実はですね、綾梅さんの犯行に鋏が使われた形跡があったんです。鋏といってもたくさんの種類がありますので参考に話を訊きたくて伺いました」
「そうかい、鋏の話かい。俺は鋏の話だったらいくらでもできるぜ。鋏っていうものはな――」
蘇鉄が話し始めて二十分後、お手洗いに行きたいといって話を中断した。いくら何でも長すぎる、このまま鋏の話を聞いていたらいくら時間があっても足りない。万作にこっちに来て貰えばよかったなと後悔する。
……それにしてもこの家は広い。
彼の案内どおりに歩いても洗面所が見当たらない。日本家屋なため、扉が無数にありなかなか目的地に辿り着かない。
扉のプレートの一つに桜と書かれていた。その字体には見覚えがある、秋風家の表札と似ているのだ。鍵が空いているのを確認して扉を開けていく。
……花の香りがする。この花はサクラ?
部屋の隅々まで見渡してみる。桜は故人のはずなのに人の気配が感じられる。両端には園芸用の本がたくさん並び、季節毎にきちんと並んでいる。目の前には大きな机があり綺麗に生けこまれたサクラの枝が入った花瓶と帳簿が置いてあった。その帳簿に写真が二枚挟まっている。
一枚は秋風家の庭で家族三人で写っている写真だった。
若い頃の蘇鉄に儚げな笑みを見せている大人の女性が立っている。きっと奥さんだろう。その両親に囲まれて小さな少年が笑顔でこっちに向けてピースサインを作っていた。皐月だ。今の様子とは違い純粋そうな笑みを見せている。
……同い年くらいだろうか。
自分の母親を思い浮かべると、心のガラス玉がギリリと音を立てて胸を圧迫する。あの頃はこんな風に無邪気に笑っていれたかもしれない。
彼女は少しだけ昔に遡ることにした。
――あれは父親と屋久島の山荘で暖かいミルクティーを飲んでいた時だ。母親の百合(ゆり)が宮之浦岳(みやのうらだけ)で雪崩に合い遭難したという電話が入ったのだ。
父親のストックは雪山に登るための準備を始めたが、自分が彼を止めてしまった。一人になることが怖く、父親に泣いて縋ったのだ。
結局、父親は山に登らず、母親の身元は出てこないまま、捜査は打ち切りになった。自分がいなければ、父親を止めなければ母親が助かった可能性がある。そう思うだけで心がぎりぎりと軋んでいく。
百合は花が好きだった。季節を巡る毎に新しい花を一緒に植え、庭には雑草が生える隙間がない程花で埋め尽くされていた。それを母親と一緒に眺めることがとても楽しくて心が安らいでいた。
百合が亡くなってから父親は苦しみから逃れるように仕事を変えそれに打ち込んだ。暖かい家庭は崩れ去り、季節を巡る毎に庭の花は全て枯れ果てていき、アスファルトで埋め尽くされた。
リリーはその重圧に耐えることができず心にガラス玉で蓋をした。花のように弱いままでは生きていけない。信用できるものは全て数字で表せる理論だけだ。
感情はもう、いらない――。
……今考えるべきことではなかった。
彼女は意識を集中してもう一枚の写真に目を通した。
そこには蘇鉄が桜とではなく、被害者の秋風綾梅と二人だけで写っている写真だった。
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