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2016年02月10日04:19

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家庭教師と社会教師(生涯学習支援者)

前にも言つたこと
だけど
教育の場(環境)には

(1)学校教育の場
以外に
(2)社会教育(生涯教育=生涯学習支援)の場

(3)家庭教育の場


ある。

学校教育の
責任者は
学校教師。

家庭教育の責任者は
両親や祖父母。

それに対して
社会教育(生涯学習支援)

責任者は
誰だろうか。

生涯学習の支援を専門とする教育者は
居るだろうか。

これも
前にも言つたことだけど

学校教育は
国家の教育方針の枠内でしか
教育出来ない。

けれども
人間が
人生を真剣に生きるにあたって
学ぶべき事柄を
国家の教育が保証するとは
とても思えない。

むしろ
国家のエゴイズムで
人間にとって
学ぶべき事柄が
歪められるのが
実情だろう。
(勿論、その「歪み」や「偏向」は
 美辞麗句で飾られて隠蔽(いんぺい)されるのが
 常であるが)

学校教育以外の
「課外学習」や
「塾教育」も
結局は
学校教育に「適合」した教育
でしかない。

人間が人間として
学ぶべき
本当の「学問(Wissenschaft)」
即ち
知(認識力=理性=理論理性)
情(判断力=反省的判断力の自己自律)
意(行為力=経験=実践理性)

統一者としての
聖(救済力・解放力・解脱力・啓示力・治癒力)
を含む
叡智(般若・pneuma・Geist)

「どのようにすれば獲得されるか」
ということは
学校教育では
教えてくれない。
(また逆に
 「叡智(般若の智慧)」を
 「学校」で「教えよう」としても
 「教えさせてくれない」し
 「教える事を期待されていない」どころか
 「教える事は禁止すらされている」のが
 現状だし、このことは未来も変わらないだろう。)

そういう「真実(Wahrheit)」を
伝える為の「場所(環境=Milieu)」が
なければならない。

そういう「真実」の
「伝道者(伝える人)」が
居なければならない。

私がこれまで
続いた「仕事」は
「新聞配達」と
「家庭教師」だけだった。

なので
私は
生涯学習支援者に
向いていると思う。

それは
教育を与える側(教育者)と
教育を受ける側(学習者)とが

(学校教育のように
 「国家」という「権力(圧力)」の
 「指令(命令)」に
 「学校教育者」を「服従させる(従わせる)」
 中で行われる(実施される)
 「教師」と「生徒」との
 「上下関係」とは異り)

対等に関わり合える「場」を
可能にする。

そういう「自由」が
生涯学習の「現場」には
「存在」している。

そこでは
「国家」という
「上から目線で見下ろす権力」に
怯(おび)える必要もなく
各人が「主体」として
振る舞う事が可能だ。

生涯学習(lifelong learning)
という
場所(環境=Milieu)
だけが
自由な学習を
可能化している。

そういう「場所」なら
自分は活動することが
出来るだろう。

シェリングだって
私講義(Privatvorlesungen)を
学校教育以外に
多く行っている。
(例へば「ストゥットガルト私講義」1810年)

そもそも
「本当に知っておくべき事」

学校や国家は
「教えない(隠される)」ものだ。

(なぜなら「国家の方針に従順な人材」のみ
 国家は「求める」からで
 国家の方針の「欠陥」を「指摘して」
 国家を「他の体制」に「変更」する
 「意志」を「持つ者」は
 国家の「敵」として「制御」する「対象」であり
 また
 そのような「意志」を国民が持たないように
 「仕向ける」事が「国家教育」の「第一目的」
 であるからだ。)

なので
普通は
「隠れて知る」
事の中に
「本当」が眠っている場合が
多い。

もちろん
「隠れている」事柄の中には
「知るべきではない事柄」も
多いのだけれども。

その
「本当は知るべきなのだけれども隠されている事柄」

「知るべきではないが故に隠れている事柄」

区別するのが
「判断力」なのだから

そういう「判断力」を
本当は「国家」が
「国民」に与える「義務」を
持っているのだけれども

国家は
人民を統制する目的を
優先する為に

「統制されるに相応しい従順な人民」を
「大量生産」する為に
「従順な臣民たるに相応しい国民」を
「教育」することが
「第一目的」となり

「本当の人間」
あるいはまた
「人間が本当に目指すべき課題」

「与えて」
「成るべき人間へと導く」
という
「教育本来の目的」を
実施するように
教育者へ「通告」するようなことは
為さないのが通例だ。

だったら
そういう「国家」の「宿命」には
いつまでも付き合わないで

我々は
我々で
自助努力(self-help efforts)で
「為すべき事を
 時代や国家や地域の制限に
 制約されずに」
自由に行為すべきだ。
少くとも
そうすることが
自分の性分には向いている。

もともとマルクスの思想に共鳴したのも
(小学生への学校教育と
 環境再生活動(西淀川公害訴訟)に
 生涯を賭けた父(浜田 耕助)の普段の姿勢に
 学んだことが最も大きな影響だが
 その父が目指していた
 貧しい人や抑圧されている人への支援の態度に
 共鳴していたのが実情だが)
マルクスの思想の中の
社会が狂っている時
(例へば国家を挙げて戦争に暴走している時局)
であっても
冷静沈着に
「戦争反対」を「主張」出来る
「時代に狂わされない判断力」

共鳴していた。

「みんなしているから」
とか
「まわりがそう考える人ばかりだから」
とか
「国家が要請しているから」
とか
「社会的に求められているから」
とか
「公的に必要だとされているから」
とか
「常識だから」
とか
「空気(雰囲気)に合わすべき」
とか
「流れ(その時期の傾向・流行)に乗り遅れるな」
とか
「そうしないと怒られるから」
とか
そういう
総じて「他律」的な理由で
自分自身の「本心」を
「引っ込めてしまう」
のは
どうかと思う。

まあ
「空気を読めない」のは
良くない事ではあると思うが
「空気」と
「真実」は
区別されるべきだろう。

いつでも「空気」が
「真実」を「体現」しているとは
限らないのだから。
(pneuma としての「空気」なら
 いつでも「永遠の真実」を体現している
 わけだが
 普通に言われる「空気」とは
 その「場」に居る「人間」の「意志」を体現している
 に過ぎないから、現象的でしかなく、
 表面的で偶然的な「相対性」に過ぎないのだ。)

なので
大切なのは
「自分で判断する能力」を
養成することだ。

「自分で」
といっても
「独(ひと)り善(よ)がり」では
意味が無い。

ならば
「社会」を「基準」と
すべきだろうか。

けれども
「社会」が常に
「健全」であるとは
限らない。

「社会全体」が
「狂っている」場合も
無いわけではない。

なので
「社会」は
「相対的」な存在であり
「絶対的」な存在ではない。

じゃあ
「神」だけが
あるいは
「仏」だけが
「絶対的」な「存在」なのか
といえば

「無条件」な「神」

「結論先取」的な「仏」
つまり
「正しいに決まっている」
あるいは
「信じなさい」
という口調で語られる
「神仏」は
「中立不偏」とは
言い難い。

疑えるものは
総(すべ)て疑うべきだ。

最も大切なことは
「疑っても疑っても
 最後まで疑えない事実」
だ。

なので
デカルトのように
どこまでも疑う姿勢は
大事なのだ。

疑うにも
疑い得ない「事実」だけに基いて
物事を判断してゆけば
騙される事も
洗脳される事も
少なくなって
(洗脳は現代では
 とても巧妙な仕掛けに成っているので
 「洗脳とはどのようなものであるのか」を
 知っておかないと(熟知しておかないと)
 知らず識(し)らずの内に
 完全に洗脳されてしまって
 その洗脳状態から抜け出せなくなってしまうので
 とても危険な罠として
 現在も暗躍している。)

宗教も
本当の意味での宗教を
知る道が
開かれてくる。

宗教とは
信じるべき事柄でも
教祖の言う事に従うことでも
なく

自分自身が
自己責任で
体験的に掴む事柄が
宗教であり

啓示や悟りを
自分自身が体験できるまでは
どこまでも
信じずに「保留」にすべき
なのが「神や仏」なのだ。

なので
啓示体験や
悟りの体験が無い間は
どこまでも「宗教」は
拒絶して良いし
また
拒絶すべきなのだ。

けれども
そうして「拒絶」しても
どういうわけだか
神社も
お寺も
教会も
無くならない。

やはり
人間にとって
神仏は
存在していなければ
生きてゆけないことを
神社仏閣や教会が
消えてなくならない事実が
間接的に実証している。
(傍証(間接的な証拠)となっている)

話をもとに戻すと

自分には
2度に亙(わた)る
8年間の社会的空白期間
(1984年〜1992年、1994年〜2002年)

存在している。

最初(1984年〜1992年)の8年間は
悟道への往相(おうそう)
(悟道へ向上(こうじょう)する修行に必要な期間)

2度目の8年間(1994年〜2002年)は
悟道からの還相(げんそう)
(悟道を向下(こうげ)して救済へ向うのに必要な期間)
だった。

けれども
そういう宗教的な事柄は
社会は「無駄」もしくは
「社会的な瑕疵(かし=キズ、欠点)」
だとしか判定しない。

なので
そういう「履歴書に穴のある人物」は
公的機関から「見放される」ので
公的機関が味方になって支援してくれる事を
期待することは諦めねばならない。

なので
自助努力(self-help efforts)して
生きる道を
編み出して行く工夫が
求められる。

その場合
(社会から
「見放された(見捨てられた)存在」
 としての)
自分に適した道は
もともとは「家庭教師」には「向いていた」ので
その「社会人版」である
「生涯学習支援者」
として
しかも
「哲学を学びたい」
という人に
「限定」して
「支援」してゆく「人」

「これが自分の生きる道」と
見做して
探ってみよう
というわけだ。

人には各々
「適性」があるだろうから
自分の「適性(それがどれだけ変わっていても)」を
見出して
その「自分独自の適性」が
どれだけ常識から外れていても
それが「自分自身」である限り
「外れている」ことは問題ではなく
「どれだけ自分自身であるか」ということが
問題だ。

それが見つかれば
あとはそれを淡々と行為するのみだ。

それからまた自分は
常に「本を書きたい」と
言い続けているので

(1)自由に課題を見つけて
(2)自由に研究して
(3)自由に本にする

という夢を実現してゆきたい。

学位とか
就職は
最初から第一目的ではないのだ。

学位にしても
就職にしても
なんだか
「他律」で
気分が悪い。

自分が他律的に
動かされるのは
DNA へ
インプットされている
内的な(生理的=質料的 且つ 心理的=形相的な)
自分自身の総(すべ)ての直系の祖先の意志
からの「ア・プリオリな他律
或いは(カント的に言うと)
ア・プリオリな綜合判断
だけで充分だ。

それ以外の意志に
動かされる事には
我慢が出来ない。
(生理的に拒絶する。)

誰だって
多かれ少なかれ
そうだろう。

その「拒絶」は
自分自身の意識の意志を
遙かに越えている。

他人の
「意識的」な「意志(つまり意図や恣意)」を
「拒絶」する「主体」が
また
自分の
「意識的」な「意志(意図や恣意)」
である場合

その「対立(緊張関係)」

相互破壊的でしかあり得ない。

人は
自分自身の内的な
つまり
ア・プリオリな意志」に
「動かされて」のみ
幸福である。

その
ア・プリオリな意志

逆(さから)う場合に
生理的な現象が発現して
自分自身の生命が脅かされることになるので
抗(あらが)えない。

生理的な「反発」を越えて行為することは
自分の能力を越えている。

けれども
誰も助けてくれない。

なので
自助努力。

自分が自分の問題を解決し
自分で自分の道を開拓する。
それでなければ
面白くない。

パズルは
自分で解くから楽しいのであって
他人に解いてもらっても
面白くない。

人生は
自分で道を切り開く感覚が無ければ
生きている実感を持つ事が出来ない。

他人が引いたレール
(つまり「他人の意志」)
に従って生きる事に「情熱」は
傾けられない(熱く成れない)。

人間が
それぞれに
内的な
(個人的で意識的で意図的で恣意的な意志ではなく)
全直系祖先の意志の集合体
としての
ア・プリオリな意志

従って生きる場合が
如何なる意味においても
「最も自然」な
あり方だ。

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最終更新
平成 28(2016)年2月10日 午前6時37分
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