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2015年12月04日03:07

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(追補版)まだまだ だな(私が)

悟りは
どこまでも
見返りを求めるものではない。

ただ
悟りに皆が
気付かないのが
悲しい。

欲に支配されたままで
悟りや啓示を目標にしないのが
悲しい。

啓示もただ
神との交信であって
誰かが神の啓示を受けること

彼が受けた神の啓示が
彼以外の皆へ広がること
とは
別の話だ。

だから
誰かが神の啓示を受けても
世界が変わるわけではないし
皆が啓示に気付くわけでもない。

神は自由意志で
啓示を与える者を選び
彼にだけ自分の意志を伝える。

神に選ばれた者
以外には
伝えられる事はない。

なので
神が人類全員に
神の意志を伝えるかどうかは
神の自由なので
人類は
神に啓示を開かせることは
出来ない。

けれども
啓示を受ける人間に
特徴的な条件は
明らかになっているので
(欲に支配されない人間なので)

我々としては
煩悩(三毒=貪瞋痴)を断つ以外に
為すべき道はない。

けれども
悟りと啓示に
出逢えば判る事なのだが

煩悩を消してくれるのも
神仏なので
我々は
自分自身で煩悩を消そうと
努力しても
本当は無駄なのだ。

そんなことしても
神仏は
我々に憑依しないし

逆に
極悪非道な人にでも
神仏が憑依する時は
するだろう。

それは
神仏の
きまぐれな
「遊び」
なのだ。

神仏が
「悪戯(いたずら)」で
極悪非道な人に
憑依した場合

その極悪非道な人は
その時から
極悪非道であることが
絶対に出来なくなる。

その人にとっては
不本意であるかもしれないけれども
神仏はクスクス笑って彼が戸惑っているのを
影で見ている。

彼の周囲の人々も
彼が何故突然
神仏の事を話し出したのか
面食らうけれども
彼には極悪非道な自分に戻る事は
許されない。

神仏の力とは
そういうものだ。

また
そういうものでない力は
神仏の力ではない。

なので
神仏の意志を
皆に伝えようとする必要は
無い。

伝える者を選ぶ自由は
神仏に委ねられているのだから
人間が
ごちょごちょ
しても
無駄なのだ。

人類を生み出したのも
神仏ならば
人類を滅ぼすのも
神仏の自由意志
なのだから。

(人類を滅ぼすのは
 悪魔の仕業(しわざ)であると
 思っているのは
 神仏の意志を知らない人の言うこと
 であって
 神仏の意志を知った者は
 人類を滅ぼすのも神仏の自由意志であることを
 知る事になる。)

我々は
神仏の自由意志に翻弄されて
生かされ
闘争させられ
生殖させられ
苦しまされて
死んでゆく
ただそれだけの存在

過ぎないのだから。

でも
そう断言すると
「我々人間にも為すべきことがあるし
 為し得る事がある」
と言いたくなるでしょ?

じゃあ
あなたが
悟りを開いたり
啓示を受けたとして

その
悟りで明らたになった事柄や
啓示を受けて判った事を
皆に伝えようと
してごらんなさい。

みんなに
白い目で見られるし
「自分だけ神仏の意志を知っていると思い上がっている」
と嫉(ねた)まれる
だけで

「悟りや啓示を受けるには
 どうしたらいいですか」
と興味を持って
貴方に聞いてくる人なんて
一人も居ませんよ。

(これは1990年11月5日に
 宗教体験して以後
 25年間の
 私の実体験です。

 それが何故なのか
 最初は理解出来なかったのですが

 最近は
 神仏の意志を聞くまでは
 悟りも啓示も
 人間の能力だと
 勘違いする事から
 抜け出せない限界を
 人は持っているからだ
 ということに気付いてきました。

 なので
 悟りを開いたとか
 啓示を受けたと言うと
 「不遜(ふそん)だ」とか
 「神への冒涜(blasphemy)だ」
 と反感を買うわけです。

 「私は悟りなんて開けない、
  煩悩に塗(まみ)れた人間です」
 と言うことの方が
 少なくとも日本では
 「謙虚で人間的にも優れている」
 と評価されるわけです。

 悟りを開いた人間もまた
 煩悩に塗れた人間であることには
 変わりないのに
 ただ
 そういった煩悩の支配から自由に成った人間が
 覚者であるに過ぎないのに
 その事に気付かずに
 煩悩に支配されている現状から脱却する事の
 重大さ
 (そのことが
  とりもなおさず多くの災厄の原因に成っているのに
  そのこと)
 を認識しようとしないのだ。)

神仏の意志を聞くことは
本人の努力次第
なのではなく
神仏の自由意志なのだから

悟りを開く
のも
啓示を受ける
のも
本人の能力とは
完全に無関係
なのに
です。

悟りを開くこと

啓示の受ける事

人間の「能力」
ではなく
神の「自由意志」

決めていること
であるということ
このことは

神仏の意志を
受けてから
初めて判る事
だからです。

ただ
望みが有るとすれば
ただ一つ
「神が好む心の環境としての
 無我・無心・無欲」
を「整える事」
に気をつける事
以外にあるまい。

石川や
せみの小川の
清ければ

月も
ながれを
尋ねてぞ
すむ

(鴨長明:新古今和歌集1894:神祇歌)

意味としては

清い流れには
月も
探してまで
住んでいるようだ
ということ



神は
清い場所を好む
ということ



掛かっていて

心が清ければ
神の方から
呼ばなくても
やって来て
住んでくれる

ことを
象徴している。

この歌が象徴している意味のように
我々も

縁生
(えんしょう
 =一切の存在は因縁の和合によって生ずるということ。)

現象の
無常・苦・無我を
如実知見して(ありのままに見て)
執着しないので
実体視することがない
魚川祐司
 『仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か』
 2015年4月、新潮社
、参照。特に127頁。)
ように

心の環境を
神仏が好む環境に
整えることに

最も注意を集中すべきだし
すべての努力を傾けるべきだ

ということに
早く気づいてほしい。

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最終更新
平成27(2015)年12月6日 午前4時8分
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