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2015年11月18日20:48

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「この供に応ず」る為には?

ディワリ祭のドンパチ喧噪が終わって1週間、昨日よりいよいよディーパム大祭が始まった・・・最終日の25日の18時にアルナーチャラ山頂に聖火が点火されるわけである。

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お天気も相変わらずの雨、時に嵐という状況でなかなかお天道様をしっかりと拝めない日々が続いているのだが、その代わり?日中でも気温や路面温度が熱くないので、ここ数回のギリプラダクシナは通常より早い15時頃に出発して歩いていたりする。


17日のギリプラダクシナで通算360回となった。

深い意味合いはないが「御山を1周して円を描く」巡礼行だけに、360°の角度と同じ回数を歩いて何となく「全体で1巡」したかのような印象?があったりもするわけである・・・って、その計算だと次の1巡は720回目になるのだが、さあてどんなものかね?(笑)



このギリプラダクシナに先だって、ふと思い立って「ナラヤーナ・セーヴァのために」幾ばくかの金額をドネーションした。

というのも先日の日記にナラヤーナ・セーヴァについて、


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しかし本来の趣旨としてこれは「貧者への施し」なのであるから、少なくとも我々外国人がここに並ぶのはいかがなものか?・・・たとえ「貧乏ツーリスト」であろうとも我々は「施す」側の立場にある、と思う次第。

(因みにこのナラヤーナ・セーヴァの為に一定金額をドネーションをした上で、臨時の「配給スタッフ」となることも可能である。)

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・・・なんぞと生意気なことを書いて掲載した手前、その位のことをしなくては「言行不一致」になって、いささか心持ちがよろしくないざんすからね(ただし面倒臭いから「臨時配給スタッフ」はやらないが)。


大体施しもせずにのうのうとお振る舞いを頂いている・・・なんてのは大いに義理を欠く話だからな。この業界?は俗世間以上に「筋を通す」ことが極めて重要なのである・・神様への「義理が重たい」世界なのだよ(笑)

そもそも先日自分自身が頂いたドネーションからの支出だから、これもまたアルナーチャラからの恩寵を環流させることにもなるざんすからね。


というわけで前回の話の続きである。

その記事の中では更に、


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アウター生活をしている外国人の一部からは時として、

「それに相応する金額を出すから、アシュラムの食事を食べさせてもらえないだろうか?」

という問い合わせがオフィスに持ち込まれたりもするらしい。

(略)

しかしこれが実は「ピントがずれている」話なのだ・・・ということに理解が及ぶかどうか?

・・が、案外重要なことであったりするのだ。

「お振る舞い」にせよ「施し」にせよ、それは何かしらの「対価」が関与するものではない、のざんすね。


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・・ということも書いた。

要するに「金を出すから飯を食わせてくれ!」という要望は「取引」のもちかけになってしまうのざんすね・・それは商売の世界であって、もしそれに応じたら「お振る舞い」ではなくなってしまうのである。


ラマナアシュラムでは、滞在許可を得たゲストに対して「一泊いくら、一食いくら」の請求はしていない。

それでごくたまに「ここは無料なんですか?」とお門違いな質問までされたこともあるぐらいである。

なるほど、確かに結果的に無料になってしまう場合もある・・なんせ私自身が昨年の滞在では変梃な成り行きで「居候のただ飯喰い」になってしまったからねえ(笑)

http://sirius02.blog6.fc2.com/blog-entry-1316.html


しかしもちろん決して「無料」なのではない、要するに食事にしろ部屋の提供にしろドネーションなのである。


ところがこのドネーションというのは我々日本人にはなかなか苦手なもので、「いくら出せばいいか?」でかなり頭を悩ましてしまうのですなあ・・・。


まあ一応ある程度の「相場」らしきものはあるのだが、じゃあその相場分を出せばそれで正解なのか?・・・といったら決してそういうわけではないのざんすね。

自分の置かれている身分(というより「分際」・・今や死語かもしれんが)や経済状況、そして何よりもアシュラム滞在生活というものが「自身にとっていかなるものであったのか?」によって、それを金額に換算したらどのぐらいが適切なのか?・・を自分自身で判断すべきなのである。


だからその人によって、あるいはその都度出すべき金額は異なって然るべきものであり、本来「正解」などはない・・・という意味では、「いくら出すべきか?」を悩む事自体には大いに意義があるだろう。


ただしこういう場合の日本人の悪い癖として、「他人との比較」で推し量ろう・・とする傾向が強いことだったりするのは言うまでもあるまい。

推し量るべきは「他人との比較」ではなく、神様に向かっての「私自身の本分」の適正評価ではないだろうか?


禅の世界には「五観の偈」というものがあるのだが、その一つに

「己の徳行の全欠を忖ってこの供に応ず」

なる文言がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A6%B3%E3%81%AE%E5%81%88


アシュラムからの食事や部屋の提供は「対価を求めてのサービスの提供」ではなく、先方から供せられた「お振る舞い」なのである。

ゲストとしてはもちろん最終的にはドネーションという形式で「金額を払う」ことになるのだが、厳しく言えばそれには供された「お振る舞い」に対して「己の徳行の全欠を忖る」という営為が伴ってしかるべきではないだろうか?


多分まだまだ続く・・・予定
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