mixiユーザー(id:2223977)

2015年11月21日05:05

426 view

教育の三環境(学校、社会、家庭)

井上円了(圓了 えんりょう 1958ー1919)

教育の環境(教育が行われる場所)
として
哲学館事件(1902年)
以後は
学校教育だけではなく
社会教育や
家庭教育を
重視するように成った。
(つまり
 学校環境だけでなく
 社会環境や家庭環境そのものが
 人間形成の場所であるべきだとする考え方を
 哲学館事件以来
 (学校という場所では
  結局は
  国家の意向に背けないこと
  つまり
  国家という権力の思想圏内で動かざるを得ないことを
  思い知らされたので)
 持つように成った。

 特に
 「就業前(学校教育を受ける以前)」の
 家庭における教育が
 人間に与える終生の影響としては
 (「三つ子の魂百まで」と言われるように)
 「最も大なるもの」として
 重視するようになっていた。)

哲学館事件とは
文部省による
私立大学への
差別思想に基づくハラスメントとも
捉えられる事件だが
(表向きは
 「国体に反する倫理観が教育されていたから」
 ということである)

この事件以後
井上円了は
学校だけが教育の環境であるという考え
から
社会や家庭も
人間形成に資する場所であるべきだ
という発想を強く持つようになったと
考えられる。

考えてみれば
現代社会では

教育が
教師という
専門家に託されている
だけでなく

医学(医療)も
法学(裁判)も
宗教(修行)も

医師や
裁判官や
僧侶等の

その道の
「専門家」に
任せられている。

けれども
教育が「人間形成=自己形成」の行為であり
医療が「健康保持=生命維持」の行為であり
裁判が「紛争解決=公正判断」の行為であり
宗教が「悟道啓示=神仏実現」の行為であることを
鑑(かんが)みるならば

教育も
医学も
法学も
宗教も

そもそも
人間が自分自身で
為すべき
人間が人間として一人前であるためには
必要不可欠な
認識能力であり
実践能力で
なければならない。

けれども
社会が発展する中で
教育も
医学も
法学も
宗教も
みんな専門家に任せて
自分では
出来ないように成ってしまった。

それは
例えば
何でも家政婦や召使いにさせて
自分では何もしなくなった人が
家政婦や召使いが為す事を
自分では出来なくなってしまうのと
同じ事だ。

人間が
自立するということが
親から与えられていた様々な行為を
自分一人で出来る様になることを
意味するのであれば

人類一人ひとりが
教育や医療や裁判や宗教行為を
専門家に任せっきりにしてしまった
現状から
教育も医療も裁判も宗教も
自分一人で出来る事を目指して
人類として一人ひとりが自立するべく
努力が為されるべきだろう。

もちろん実際には
総(すべ)てを一人で行う事は不可能だけれども
総てを他人任せにする気持ちからは
脱するべきだろう。

また
医療行為や
裁判判断は
(修道修行も宗派行為としては)
専門家でなければ
許されない行為なので
これを行為して他人に影響を及ぼす事は
出来ないのだけれども

医学を学んだり
法学を学んだり
宗教を学んだりする事それ自体は
誰にでも許されていることであるから
我々は
医学や
法学や
宗教について
よくよく知っておく事が大事なのだ。

教育についても
教師任せにするのではなく
一人ひとりが教師(師範)として
自立出来るくらいに
教育について
知っておくべきだ。

そのように
医学や法学や宗教についても
一人ひとりが
自分自身の自己責任において
学んで実践できるように
成るべく努力すべきだろう。

その場合
哲学を学び実践出来る様に
努力する事は
総ての学問を効率良く
また
総ての学問を統一的な視点から眺める事を
可能化するので

哲学を学びながら
医学や法学や宗教を学ぶことが
一番早いし
一番間違いがない。

けれども
今の学校制度では
そのような学習態度は
学校の中では実現し辛(づら)い。

なぜならば
現在の学校制度では
専門家の養成が意図されているからで
哲学を核として
医学と法学と宗教を
全一体として学ぶ姿勢は
排除される傾向にあるからだ。

なので
そのような現状の中で
それにもかかわらず
本来的な哲学の在り方を
実践する為には

学校教育の現場とは
独立に行為することを
余儀なくされる。

そのことは
学校教育が求める内実に
抗して行為することが
求められることを意味する。

そのような行為こそ
超社会的行為であろう。

けれども
一つ前の日記にも書いたが
超社会(超歴史)的行為は
非社会的行為と見做されたり
場合によっては
反社会的行為と見做されて

非社会的行為と見做された場合は
無視されたり敬遠され
反社会的行為と見做された場合は
制圧されたり場合に依っては抹殺される。

いずれにせよ
社会的行為と見做されないまま
本来の
社会生産行為を続ける事は
精神的にも経済的にも身体的にも
困難を伴う。

なのでみんな
「社会的」と見做される行為の
「範囲内」に留まることを
明に暗に
余儀なくされている。

そしてまた
「社会的」であると見做される限り
社会や公共の福祉に反しないので
その人は
「社会」から「立派な人」として
称賛される事になる。

しかも
称賛されることで
その行為の評価が
「善」として「定まる」。

だとすれば
社会を前へ推し進める行為

必ずしも「社会」的な行為であるとは
限らないという
結論が引き出されることになる。

なぜならば
現状の社会を「維持」すること

現状の社会の「欠陥」を正すこと
とは
行為の質が異なっており

現状社会の「維持行為(再生行為)」は
明かに
「社会」的だと判断される

現状社会の「前進行為(化生行為)」

それが
「前進的化生(社会を前進させる行為)」であるか
「後退的化生(社会を後退させる行為)」であるか

行為と
行為の結果が
定まるまで
誰にも予測できない
からだ。

したがって
今の社会を
「病」的であると判断する者が
今の社会を
自分自身が「こうあってほしい」
もしくは
「こうあるべし」と考える社会へ向って
推し進めよう(改革しよう)と
考える人の行為は

たとえそれが
結果的に
社会を前進させる行為であると
後の社会で評価されることになるとしても
その行為が行われる時には

非社会的行為であると見做されて
無視されたり敬遠されたり
反社会的行為であると見做されて
制圧されたり抹殺される危険がある
ということは
覚悟しなければならない。

その意味では
現状を打破する意図で
行為せんとする者は
そのような社会からの反作用を
予め想定して

その反作用に対して
防備する必要があるということだ。

その防備の為の
装備無く
現状打破の為の行為を為すことは
あまりにも
無謀であるということを
自覚しなければならない。

============================
最終更新
平成27(2015)年11月21日 午前5時57分
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年11月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

最近の日記

もっと見る