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2015年11月16日02:55

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翼をください


この唄の解釈は
人それぞれで
いいと思う。

けれどもボクは
この唄を
自分の中に
おそらくは生まれた時から
ずっと在って
けれども
この世の中では
決して叶えられない願い
にもかかわらず
自分自身と人類の歴史にとって
叶えなければならない神話的な願い

実現する自由の翼を
我々が希求する唄だと
解釈したい。

翼を得て
飛んで行く大空は
死後の世界ではない。

フォト

飛んで行く
悲しみの無い自由な空は
この世界には無いけれども
我々の心の中の現実として
永遠の時を刻んでいる
神話的な心の世界だ。


「翼をください」
には
もともと
歌詞の2番の始めに
「今
 富とか名誉ならば
 いらないけれど
 翼がほしい」
という
歌詞が存在していた。

けれども
この歌詞はその後
削除されるようになった。

しかし
「富みや名誉はいらないけれど
 (富みや名誉では到り得ない場所へ
  行く事が出来る)
 翼がほしい」
という気持ちが
削除されては
この唄の最も大切な意味が
殺されてしまう。

富みや名誉が欲しい
のではないのだ。
つまり
この世的な地位や幸せを
求めている

ではないのだ。

欲しいのは
心の自由であり
(富や名誉を追い求めていては決して得られない)
悲しみの無い世界
なのだ。

心の自由や
悲しみの無い世界

富みや名誉では
得られないことを
この唄は
教えてくれているのだ。

富みや名誉で
決して得られない世界が
心の自由なのだ。

フォト

自由な心の実現する世界を
求める行為を続けることは
「非」社会的(つまり非現実的)であるだろう

必ずしもそれは
「反」社会的であるわけではない。
(その行為が「反」社会的である場合は
 当然、「排除」の対象と見做されても仕方がないが。)

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非社会的であることと
反社会的であることは
違う事を
イスラム国(Islamic State)は
気付くのでなければならない。

それと同時に

イスラム国を
反社会的な行為に追い込んだ
フランスや
アメリカや
(アメリカの舎弟として従順に動く国も含めて)
その他の
イスラム国が「敵」と見做す国々は
イスラム国を追い込んだ
自国の「反社会的行為」の
「責任」を負うので
なければならない。

テロには
必ず
テロの原因を作った権力の存在
(テロを行う集団や個人の力を
 遙かに凌駕する
 そして
 だからこそ
 テロリスト集団を「社会的悪」と断定して
 テロリスト集団だけに「責任」を負わせて
 自らの「責任」に対する「世論」を
 抑え込んだり
 操作するだけの「財力」と「知力」と「軍事力」を
 有する「権力」の「存在」)
がある。

そして
テロだけが悪いのではなく
テロの原因と成った力にも
同じく責任がある事を
決して見落とすべきではない。

これを見落とす判断は
どこまでも
偏った判断(強者の論理)であることを
忘れてはならない。

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にもかかわらず
非社会的(したがって非生産的)であるというだけの理由で
心の自由を求めることは
抑圧されているということを
我々は自覚すべきなのだ。

富や名誉を求める事を
国民全体が放棄しては
資本主義が成立しないので
資本主義社会で公(おおやけ)にする時には
富みや名誉を「いらない」という主張は
「雑音」として「削除」されるのだ。

このプレッシャーに
我々の自由を求める心は
常にストレスを与えられ続けている。

資本主義社会が続く限り。

そして
その社会に「適応」する人々の「通念(常識)」が
存在する限り。


けれども
そんな世界から
「出世間」する
「力(翼)」を
得ることが出来れば
つまり
「富」も「名誉」も「社会的地位」も
放棄させてくれる
「悟り(翼)」を
持つ事さえ出来れば

いつでも
今が
そのままで
「自由な大空」

「転化」
する。

そのことを
教えたのが
仏陀だったのだろう。

あるいは
イエスだった
のだろう。
(神の啓示作用が我々を
 現在の世界に居ながら
 神の自由な世界へ連れて行ってくれる
 ことをイエスは
 伝えてくれたのだが
 そのことを、その後の人類は
 ちゃんと理解出来ていないと思われる。
 なぜならイエス以後
 神の啓示を受ける技法を
 人類は開発出来ていないからだ。
 今の人類に求められているのは
 既に、啓示の技法を開発する段階へ到達していると
 考えるべきだ。)

フォト

でなければ
社会を変革することなく
我々の心に自由が齎(もたら)され
我々の傷ついた心が癒され救済されることは
あり得ない事だからだ。

もちろん
社会が変われば良いし
いずれ資本主義社会も
倒れる時が来るであろうから
無理する事はないが

社会を個人の願いで変えられると
考えるのは
間違っており
(だからといって何もしなくて良いということでは
 全然無い)
また
集団で変えようと思っても
時期が来るまで
変わるものでもない。

社会が変わるのは
我々の意志とは別の次元の力によって
変わるのであるから

社会を変えなければ
我々の心の自由は決して得られない
と悲観する事はない。

ただ
社会に「不適格」もしくは「不適応」という
レッテルを貼られながら
生きる苦しみを背負う覚悟だけは
必要かもしれない。

イエスでさえ
磔刑(たっけい=磔(はりつけ)の刑)を
免れ得なかったし
誰も
イエスの磔刑を
阻止出来なかった(イエスの父なる神でさえ)
のだから。

フォト

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最終更新
平成27(2015)年11月17日 午後2時22分
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